友だちなら押しつけないでしょ(前編) | 陽炎の帯の上へちらりと逆まに映る鴉の影―どーすかΩ

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この部屋の中にいるヤツに会いたいのなら もっと、寿命をのばしてからおいで

ここでは沖縄と米軍基地を考えたい。


□普天間移設 首相が「辺野古」表明・・・沖縄再訪問で

: 沖縄 : 地域 : YOMIURI ONLINE(読売新聞)

http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/okinawa/news/20100524-OYT8T00605.htm


これがどういうことなのか、といったら、

つまり首相は「まあ、辺野古で。」と言ったということだ。


まだ決まったわけじゃないけれど、みなが「たぶん辺野古」の

リアリティを一定度認めている。

首相が沖縄を再訪問し、住民が反発し、各市長が怒りを

あらわにする。

「ありがち」だけれど、「ありがち」とはリアルであるということだ。


現状のように軽く笑い飛ばせなくなってしまうと、

「たぶんそうなってしまう」「成り行きには勝てない」。

みなが仕方ないと言えば仕方なかったことになる。


どうもぼくにはどうしようもないことであるようだけれど、

ぶっちゃけまあ別にどっちでもいい。


だって辺野古の海がぶっ潰されようがなんだろうが、

表面上は「そんなことは断じて許せない」とかね、

なんかいい人ぶることはいくらもできそうだけど、

でも明日から生活が変わるのかと言ったら何にも変わらない。


だから、「ふーん」で終わる。


じゃあそれでいいのかと言ったら、たぶんよくない。

ぼくが辺野古に住んでる同い年の男の子と友だちであったと

したら、たぶんそんな奴に向って「ばかやろう」と叫ぶに違いない。


どうも可能世界のどこかで「ばかやろう」と叫ぶぼくの声が

聞こえるような気がする。

うるせえとは思うけれど、自分のことはかわいいので、

まあ相手にしてやることにしよう。


どうしてぼくはこんなふうに「沖縄に無関心な人間」であって

他のようではないのか。

沖縄と友だちであるとはどういうことなのか。

友だちであったなら、どのようにぼくはふるまっていたか。


以下でそれを考えてみたいと思う。


とにかく今、可能世界のどこかにいる「沖縄に関心がある」ぼくが

一番怒りをたぎらせているのは、「首相」でも「野党議員」でも

「住民」でも「知事」でも「他県民」でも「アメリカ」でもない。

それぞれに対しても、もちろん思うところはあるが、まだマシ

である。


もしもフリーハンドで一発殴ってよいのなら、ぼくが目を輝かせ

ながら見つめるのが「マス・メディア」である。

「天誅!」(ぱこんっ☆


何が嫌なのか。


「どうやって責任をとるつもりなのか」と、

「首相」を見つめる「煮えたぎる怒り」の視線。


「引っ掻き回されて、結局押し付けられて、かわいそう」と

「住民」を見つめる「哀れみ」のこもった視線。


「あなたもそう思いますよねえ」と

「野党議員」にマイクを向ける「目配せ」。


「心中お察しします」と

「知事」に向ける「同情」の視線。


「あなたはどう考えますか!政治を作る一票の重み!」と

「他県民」に雄弁を振るう「正義」のしたり顔。


そして、「アメリカ」を「見つめない」、視線の不在。


どうも、ぼくたちは「首相」「住民」「野党議員」「知事」「他県民」

と、「大連立」を組んで「マス・メディア」をぶっ飛ばせるような

気がする。

たぶん利害が一致していることと思う。

今回のようなむつかしい問題を考えているときに、

ああも耳元で「ぴーひゃら」やられたら気が散ってしかたない。


まあ今はおいておこう。あの「賑やかさ/やかましさ」は

「サーカス」の美点であり、同時に劣点なのである。

ここでは「ワイドショーの文法」では「沖縄」をとらえることが

できないことを確認するにとどめる。


* * *

後編に続く。
□友だちなら押しつけないでしょ(後編)
http://ameblo.jp/hyorokun/entry-10543613201.html