ずんずん、ぺけぺけ | 陽炎の帯の上へちらりと逆まに映る鴉の影―どーすかΩ

陽炎の帯の上へちらりと逆まに映る鴉の影―どーすかΩ

この部屋の中にいるヤツに会いたいのなら もっと、寿命をのばしてからおいで

今夜はあたまが働かない。

あと10分いないに投稿することにする。


赤ちゃん本舗のCMが気になる。


話せないけどありがとうって思ってるんだよ、

みたいなことを赤ちゃんに?言わせている。


そんなことはないけれど、これは

「善なる嘘」だろうか?

たぶん広義の意味では当てはまるんじゃないかと

おもう。


「大人とは贈る者のことだ」という簡単な定義を

かいたが、かいてないっけ?


子どもや老人や障害者のような、もちろん尊厳は

あるし誇りもあるけれど、人の助けが必要な人を

支えなければならない。


取るよりも多く贈る者、それが大人である。

労働はいつでもオーバーアチーブであるというのも

同じことである。


それで、その責任感というか、支えないではいられない

気持ちはどこから来るのか?

たぶんこれもまた「反対給付の義務(の気分)」では

ないかとぼくは考えている。



自分がどこからやってきたのか?

よくわからん。


よくわからんが、自分が子どもであったことは、

たぶん確かである。

たぶんというのは、「子ども時代はもうない」からだ。


過去との和解、未来との対話、そこを迂回して、

はじめて現在を見ることができるのではないか。


たしかに過去も未来も煙にすぎない。

そんなのはまやかしだ。

現在だけが火なのであろうと思う。


ぼくたちは歴史的・地理的バイアスの内部からしか

ものごとを考えることは出来ない。


それはそうなんだけど、自己の認識は遅れて

やってくる。

そこにすり替えと勘違いがある。


すり替えと勘違いこそが現実を構成しているのである。


あ、十分たった。まあ構わない。




あれ、遠ざかっている。


戻ろう。

赤ちゃんはありがとうなんてこれっぽっちも

思っていないはずである。


赤ちゃんとは、「まるで話の通じない」存在である。

当たり前である。


言語化を経ていない「それ」は、ぼくたちの理解が

およそ及ばない。聖的でさえある。


でも、そういうものなのであると思う。

そんな限界的な状況を言葉や価値判断で捕まえようと

しても仕方がないのではないか。


赤ちゃんは赤ちゃんであって、その後イッチョマエに

「ありがとうって思ってるんだよ」と語る(らせられる)

舌足らずな「話せる子ども」ではないのである。


レヴィナス老師は「時は他者である」と仰ったそうであるけれども

(著作に直接あたるのは時期尚早であるとして自制している)

それはひとつにはそういうことではないか。


この間メルロ=ポンティ先生の時間論に少しだけふれて

ぜんぜんわからなかった。

ひとつわかったのは、ぼくたちの思い為している

「過去・現在・未来」の印象は、すこし考えが足りないようである

ということだ。


繰り返すが、赤ちゃんは赤ちゃんである。


そこにはどんな言葉も追いつかない。


でも、そんなことは赤ちゃん本舗の人はよくわかっていらっしゃる

はずだ。

だって、専門家なんだから。

散々赤ちゃんを見ているから、「わけわからん」嵐のような存在

であることは重々承知しているはずだ。


では「どうして赤ちゃん本舗は「赤ちゃんはありがとうと思っている」

などという嘘をつくのか?」


たぶんお母さんの為であると思う。

ホントはお父さんのためでもなくちゃいけないんだけれど、

残念ながらまだCMではお母さんが赤ちゃんの世話をしていた。


…そう思うとひよこクラブすごいな。



赤ちゃん本舗は赤ちゃんのことだけではなく、(乳児をもつ)お母さんに

ついても詳しいに決まっている。


たぶん嘘をついた方がよいと判断したのであろう。


どうしてか?


ぼくはそこに「成熟しないお母さんの増加」があるのではないかと

なんとなく思った。

「しょうがないものはしょうがない」というトートロジーに耐えられない

お母さんが増えているのではないか。


たしかに、アラフォーでまだ「女子」とか言っている人が多い。

まあいいけどさ。

たぶん半ばヒスりながら「だってみんなが…」と仰ることと思う。


そうなのだ。「みんな」が問題である。

ぼくたちは成り行きというものに抗えない。


「いつまでも女子」の存在は、なにかがおかしい。

おかしいがなにがどうおかしくて、どのようにかえたらいいのかが

よくわからない。


ぼくはそこに日本の女の子の宿痾を見る。


たぶん大変にむつかしいことと思う。

日本のフェミニズムというのは、アメリカにおけるそれほど

簡単ではないとおもう。


欧米には欧米のフェミニズムがあり日本には日本のフェミニズムが

あるとぼくは思う。


じゃあどうするのか。


「世間」と「モテ」と「恋愛」と「結婚」のカードが必要ではないか。


モテと恋愛はたぶん第三者が関与するかどうかという点がちがう。

恋愛と結婚は私的であるか公的であるかが違う。

ぼくは日本には「恋愛」というのは一度もなかったのではないかと

考えている。

恋愛がないということは友情もないということである。

ぼくにいわせれば。


じゃあ鳩山さんお気に入りの「友愛」とはなんなのか?


よくわからん。


もう二時だけど、あとひとつ。


日本には日本のサッカーがある。

なるほど、結構。


それがどんなものか、少しだけ考えたい。



神山健治監督は九課の荒巻課長に

「我々の間にチームプレイなどという都合のよい

言い訳は存在せん。あるとすればスタンドプレー

から生じるチームワークだけだ」と言わせているが、

これもまー半分嘘だ。


個があらかじめ存立するのではない。

生は群態であったはずだ。


日本のサッカーには主体がいらないのではないか。

パスとオフボールに鍵があるように思う。

個ではなく、融和する系を考えてみればいいんじゃないか。

それなら群棲動物のふるまいとか見て勉強すればいい。


でも結局それは「世間」なんじゃないかなあ。


個および個からなる社会ではなく、かといって人間がそこに

いないのでもない。(思考が硬直した旧日本軍のイメージ)

明文化できない秩序みたいなもの。


今夜はこれ以上考えられない。


んじゃ、おやすみ~。