あれれ?うーんめずらしいこともあるもんだ。
なんかね、ぼくもびっくりしたんだけど、
「ぜんぜん知らない人から間違いメールが
送られてきた」んだよね。
たぶんハイフンとアンダーバーとかそんなところだと思うんだけど、
にしてもけっこうすごいよね。
電話番号じゃああるまいに。
みなさんごきげん麗しゅう。
ぼくも元気にやっております。
ペタであるとか足跡であるとか、そういったSNSにおける
文化みたいなものに疎い愚生でございますけれども、
なんつーの、「反対給付の義務(の気分)」は、「万年」の単位で
身に染み付いておりますからたぶんそこそこお返しすることと
思います。そのうち。ごめんね、期待しないでね。
イケメン論の後半は、イケメンなんてダメだっていうのは
ちゃちゃっと終ったんですが、その後段、「じゃあどうするのか?」
は意外とむつかしいです。
結論から言えば「大人」がそれにあたるんですけれど、
これが遠い。
どこまで考えたっけな?
01:イケメンではダメだ。
02:イケメンではダメだ、なんて、口角泡を飛ばしつつ誰に向って
吐きつけるのか。
03:イケメンとはなんだったのか
04:イケメンについて語る者は誰か
05:なぜイケメンではダメなのか
06:じゃあどうするのか。
07:なぜ、それが「大人」なのか?またそれでいいのか?
08:それでいいのだ
課題図書
・「大衆の反逆」:ツンドクでもってる
・「物語の構造分析」:図書館で借りようと思ったら市内にはないから
取り寄せ中。
・「精神分析入門」:上巻ならツンドク
・なんでもいいからフロイトの術語の解説
「トラウマ」の項:新書でたぶん図書館にあった
今回はこれくらいでカンベンしてください。
べつに読まなくてもぜんぜんいいような気がするけど、
いい加減原本よまずに巧言令色な自分にうんざりです。
そいで、今回のイケメンあほんだら論を終えても、もちろん
全面的に「イケメン的なもの」が失われるわけではありません。
狭義の「イケメン」、「モテ」の功罪が問題として残ります。
モテと恋愛が必ずしも一致しないこと、それから、日本における
「近代的自我」(が結局一度としてなかったとしてもね)がどのように
恋愛と関わったか。
日本的なものが関わってくるはずで、それは
後進近代化国の特徴として挙げられる「三角関係」の問題を
考えなければなりません。
さらに、そこから独立した問題として「ファッション」がある。
「イケメン」「モテ」「恋愛」「ファッション」「自我あるいは個人」
手にあまる。
こんなもん一年や二年じゃたぶん無理だ。
ぼくみたいな阿呆は大器晩成なのだ。
ちょっとずれるけど「ファッション」と「萌え」はゼロ年代において
交差している。たぶん記号なんだろうね。
その分析は街場のファッションと、街場の萌えアニメの丁寧な観察に
よってのみ可能であろう。
でももう何がなんだかわからん。
「え、きもい」で一蹴するのもいいけれども、たぶんこれを通すことに
よって、「ファッション」を「恋愛」あるいは「モテ」から解放できる
はずだ。(いや、現にすでに解放されている局面があるはずで、
それを語り、またその火種を絶やさずに育てる道筋もあるはず…。
って勝手に育っていくのを後追いで上から「承認」していくだけだと
おもうけどね)
あと少し戻って、三角関係には異性間の結びつきと、
同性間の恋の鞘当というか反発、が一般に考えられると思うけれど、
同性間にも強い結びつきがあることを吉本隆明センセイが指摘されて
いる。
このことを考えると、ほんとうに性愛とは無関係な同性間の友情が
ありうるのか、疑わしく思えてくる。
友情も愛と同じものなんじゃなかろうか。
たとえば、ソクラテス=プラトンも、純粋な愛の形として(いわゆる
プラトニック・ラブの元の話ね)「同性愛」を挙げた。
そこではもちろん?性愛は否定されていない。
おっさんも阿呆だ!
…。
りゅんりゅん♪ってか?
きみも大概阿呆であるな。
もうなんかどっちでもいいです。