頭が回らない。
チューニングがうまくいかないのかも。
頭の中に、ぽーっと、空白があるように思われる。
うーん、なんだろう。
青雲、宇出津、時国、八朔、横綱、高句麗、貝輪、
挨拶、黒い犬、乾草、午睡。
ぐるぐる。
そうそう、ひとつだけ。
□だいたい大丈夫だろうと思われる「すごいなっちゃん」。
http://ameblo.jp/hyorokun/entry-10506302301.html
ここでのぼくの感動を理解いただくためには、
もう一言、付け加えておく必要があるだろう。
えっと、さて、それは、
「しがないバンドマン」よりも、ぼくのほうが遥かに
社会的地位が下である、という明白な事実である。
ぼくの感動は、『俺みたいに「健全な努力」をこつこつと積んで来た
「道徳的修行僧的人間」と比べてどうしようもない「ろくでもない奴」
と意思疎通できたわ~www』
みたいな、勝ち組、徳人、ブルジョア階層、なんでもいいんだけど、
そういった「上の人」の「お情け」、「第三者的、非疎外者的「他者」
へのアプローチ」だとは、さすがに自分でも思いたくないのである。
そこまで明らかなヒポクリシーは、二十一世紀には、まさか
通るべくもない。
ぼくの感動に対するそういった評価を崩すには、簡単である、
ほんとうのことをずばっと言うのが一番効く。
ぼくは、構造的に言って、「見下げていた人間のところに降りていった」
のではない。「自分よりも上」の人間のところへ行って、ある種の施し
を得たのである。
ぼくは、自分がまだ生きていた、という事実に、いささかの感動を
覚えたのだ。
彼はぼくの立場を改めて肯定的に評価しなおす、という作業を
ぼくの為にしてくれた。
それは、ぼくにすごく励まされた思いを与えたわけだけれど、
でも、彼の方がよほど「大人」であり、成熟している。
一般的には「大人であること」とは生物学的に個体の経年が20ヵ年を
数えるか、あるいは、ん、なんだろう、結婚とか、キャリア・アップ
とか、「人生的経験」の多寡をもって判断されているようだが、
それは「幸福な間違い」というものである。
大人であることは「贈与ができる」という端的な事実を通してのみ
示されるのである。
彼は、音楽者であった。
職業人、というものは、その内部において熟練度の差も考えることが
できるけれど、非-職業人との比較も可能であるだろう。たぶん。
そして、それが可能であるならば、一方のぼくはといえば、何にも持って
いない。
だからぼくは、たぶん、彼よりも「後」にしか、救われることがないだろう。
「善きもの」は己の不能性をかみ締める、ぎりぎりのところに宿るのだ。
それは一つには音楽であり、絵画であり、そして、あるいは、文章でも
あるかもしれない。そのどれも、ぼくの手元にはない。
知るとは語るということだが、知っている、語られたことが指し示すのは
「私の無知」に他ならない。
ぼくにできるのは、このように茫漠とおしゃべりをすることしかない
のだけれど、その「結果」得られるのは、「何にもできないよなー」ということ
だけなのだ。
それで十分だろう。ぼくはそれを通すことによってしか、生み出すことも、
贈ることも、できないのであるから。