だいたい大丈夫だろうと思われる「すごいなっちゃん」。 | 陽炎の帯の上へちらりと逆まに映る鴉の影―どーすかΩ

陽炎の帯の上へちらりと逆まに映る鴉の影―どーすかΩ

この部屋の中にいるヤツに会いたいのなら もっと、寿命をのばしてからおいで


やあ、こんばんわ。


ぼくはここでぼんやりと考えてみる。


取りとめもないし、だれに気を使うでもない。


みんな寝静まったこの時間には、

ぼくみたいなぐずぐずしている人は一人で

ぼんやりと考えているほかにないからである。


けれどもいい時代だ。

ぼくはこんなうってつけのぼんやり空間を与えられて

いるわけだからね。


うーん、関節が痛いよ。



しかし、「作詞の教科書」を読んでおいたのは正解だった

のである。


ぼくは、本書を全くどういう理路で選択したのか、自分自身では

思いもよらなかったわけなのであるけれども、

どうしてだったかしらん。


うん。確か市川駅南図書館の「新着図書」のコーナーにおいてあったのを、

ぼくが見つけて、それで、それで確かそのまま何かに引っ張られえる

かのようにして「衝動借り」してしまったのであった。


正に「本に呼ばれた」のである。


ぼくは間抜けに「あーい」と返事をしたに過ぎない。


そうそう、何が「正解」だったのか言ってなかったね。


今日ぼくはかつての友人たちとお花見パーチーをやっていたのである。

しかも、同時にそれは「宅(ジュース)のみ」であった。


まあ成人している者もあったわけで、それはまたちょっと別の話だ。


お花見パーチーであり、かつ、「宅のみ」である、という状況は、

成立しうるのである。


ぼくはこれには参った。


しかしここでは詳細はおしえてやらねー!!!

考えていただきたく思う。


「門まで遠くね?」の一言でもう十分であろう。


そいで、それはここでは周縁的な出来事であって、

ぼくが言いたいのは、そこに来ていた「しがないバンドマン」の

ことである。


彼はぼくの大事な友人の一人であるわけだけれども、

まあ「しがないバンドマン」でよかろう。


そんな彼と、作詞のことで話があったのである。


おお、繋がった。


彼と話していたら少しだけ音楽の話になった。

そこでとりあえず聞いてみた。


「曲先につくる、それとも歌詞先に作る?」


同時だって。


それから、「曲が先にあって、そこに歌詞つけるって

仕事やったことある?」とぼく。


ないって。


どうやるのかな、と言っていたので、

「たぶん二番作るのとおんなじ感じだよ」と

釈迦に説法をかましてみたところ、

なるほどなーと言っていた。


それから、もう一つ、

女性ボーカルの為に書く歌詞と

自分で歌う為の歌詞とは違ってくるのだ、と言っていたので、

「歌い手と、歌詞の中の主人公と、それから作詞者と、

やっぱりそこには別の人間がいるっていうのは

実感があるか」と聞いてみたら、


やっぱあるんだってよ!


ボーカリストは同時に、演じる役者でもある、

ということが確認できて、ぼくは大変にうれしかった。


話がいささか飛ぶけれど、

「アイドルマスター」というゲームシリーズがあって、

その「キャラクターソング(物語の作中人物が歌う、という設定の

楽曲)」がべつに商品化されている。


あ、ちょっと更に脱線、忘れないうちに書いておくけれど、

お笑い芸人のタレントとしての側面を評価するには、かならず

「キャラクター論」を援用する必要がある。


たぶん日本における今日的な意味での「キャラクター」が完成したのは

ライトノベルの誕生を待ってからである。


図象と人格と、ん、なんだっけ。

忘れちゃったんだけど、ラノベにおいて図象の欠落が発生しているはずだ。


純粋な意味での、えっとこういうのなんていうんだっけ、

学問越境的、ちがうな、境界的、細分化された専門のなんちゃらを

統合する、架橋する、越境する、なんちゃらな「知」であるというものである。


なんちゃらばっかり。


戻ろう。

アイマスのキャラクターに、男なんだけど、訳あって女の子アイドルとして

デビューしなくてはならなくなった人物が登場する。

意味わかんねえ。


もうちょいつきあって。


そこで、彼/彼女が、歌を歌う、という設定のキャラクターソングがあり、

かつ、その曲中の、歌詞の中の主人公が、男の子なのだ。


ここにおいて、男が女を演じ、演じる女が男を演じている。


さらに、元の、「女の子アイドルを演じなければならなくなった男の子」

というキャラクターの声優を、女性が担当しているのである。


ここで、女が男を演じ、演じられている男が女を演じ、演じられている女が

男を演じる、という状況が発生する。


これはすごいことであるように思うのである。


かの紀貫之は、「土佐日記」において、

「男のすなるという日記をつける女」を演じたわけだが、

ここでは、

男が女を演じ、演じられた女が男を演じている、という風に二重の演技

である。


これが、アイマスにおいては、えーと、三回、三重である。


そこでは、必ず、「人為ならざるもの」が入り込んでいるだろう。


「そういうぎりぎりのところに、なんていうかな、なにかしらの

「善きもの」が顕れる」のだと、ぼくは信じているのである。




そうそう、ぼくが読んだのは「よくわかる作詞の教科書」だった。


とにかく、ぼくは「しがないバンドマン」と、盛り上がったのである。


…あいつ、あのあと帰れたのかしらん?


ま、いいや。


ぼくは「よくわかる作詞の教科書」という、本を読んだ、のではない。

本が読んだ、のである。


「曲のないところに歌詞はない。」


ぼくは、本が読んだことによって、身体の組成が不可逆に変性されて

しまったのだ。


ぼくは「ぼくならざるもの」になることによってのみ、

「しがないバンドマン」との意気投合が可能であったのだったし、

実際にそれはここに起こった。

それは、なにかしらの善きことであったろう。


ぼくはそんな今夜が、どうにも愛おしく思われてならないのだ。