ここのところ、「博士の異常な健康」を読んで
代替医療について考えている。
代替医療というのは、鍼とかお灸とか、身近なものだと
「東洋医学」だとおもっていいんじゃないの?
漢方とかは、ちょっとどうなんだろう。
門外漢だから細かいところを説明できない、ごめんね。
そいで、ぼくが思うのは、「徹底的な代替医療批判」というのが、
あるかどうかすらよくわかんないんだけどさ、まあ仮にあるとして、
そういう立場というのは全くスマートではないよなってことです。
白装束の集団、パナウェーブってあったよね。
うん、言ってみれば、パナウェーブと、例えば大学病院の間には質的な
差異は一切確認できないだろうということです。
ぼくはパナウェーブという団体については、これも「近所のおじさん」程度
の認識、つまり「巷の常識」程度にしか理解していないのだけれど、
要は「悪しき電波から身を守る、抵抗する」という一種の「予防医療」と、
本人達は自己同定していたことでしょう。
で、対して大学病院、反「東洋医学」と簡単に色分けすると、とりあえず
「西洋医学の常道」の本質(それを欠いてはもうそれとは呼べなくなって
しまうような要素のこと)はなんなのか。
「アスクレピオスの杖」くらいならぼくも知ってるんだけど、
「蛇」とは再生のシンボルだね。
「文化的な、最高の健康」と、目標を高く、拡大していく態度は理解したうえで
短絡すれば、医療とは「死に抗う」ことであると言っていいだろうか。
うん、でもそれは違うだろう。
「人間は死には抗えない。」
まあ陳腐なことを言うけれど、ではこれも併記しよう。
「人間は死には抗えない。
人間は死に抗わないこともできない。」
人間は、死には一切干渉できない。
ハイデガー先生は人間をして「死への存在」と呼んだが、
「への」ということは、まだ死んでないってことだ。
死とは「未来」、まさに、未だ来たらざるものなのだ。
だから、医療とは、飽くまで「生」だけを対象としているわけだ。
生と格闘をしているのだ。死については何にも口を出したりしない。
だから「死に抗う」だなんて、口が裂けても言っちゃあいけない。
なので、権利的には、末期の患者さんが「先生、死にたくないヨオ」
と言ってしがみついてきたら、
「知らねーよ!君が死ぬかどうかなんて僕には何ら関係がない。
僕は君を生かそうとしているだけだよ」って言ってしまっていいと思う。
まあ実際はダメだけどね。
だからぼくは「安楽死」は医者の仕事ではないと思うな。
君が医者で、かつ、「安楽死」を手伝うのであれば、そのときは
医者の肩書きは取るべきだな。
一人のマーダラーとして死を幇助すべきだろう。
ん、あれ、なんだっけ。
「パナウェーブと西洋医学の常道の間には質的な差異は認められない」
だったね。
いや、ちょっと熱くなった。ともかくも、医者はかっこいいな。
戻ろう。
ぼくが言いたいのはだね、結局のところ「医療」もまた、一個の宗教なのだ
ということだ。宗教であるということは、一片のアヘンだってことだね。
マルクス老師。
それが効くか効かないかということは、主観的に決めちゃってもいいと思う。
うーん、うまくいえない。
たしかに似非医学で詐欺もあるよね。
それはわかるんだけど、「医学的見地から言って」、それはインチキだぜ、
っていう物言い(違うか!)が気に食わない。
そういうときの「医学的見地」なるものって、「西洋医学」でしょ。
あー、今、古典的なオリエンタリズム批判に終始しなんだけどさ、
まあなんでもいいや。
たとえばぼくは、花粉症の薬は漢方を飲んでたのね。
それがすごい効いたんだけど、「東洋医学」的なものがさ、
こう、なんていうか、盛り返してほしいなーって。
説得力なさすぎるな。
うん。
「パナウェーブと西洋医学の常道の間には質的な差異は認められない」
というのは、言い換えれば、
「パナウェーブと西洋医学の常道の間には量的な差異しかない」って
ことなのね。
どう考えてもパナウェーブより大学病院の方が上じゃん。
それは「巷の常識」でも判断できる。
それはそうなんだけど、パナウェーブ的な運動もまた、その理念において
はあんまり変わらないんじゃないかって思うんだ。
やってることは同じだろう、と。
ここまで来ると医療あんまり関係なくなってくるんだけど、
結局「人間」にまつわる営みはすべて、「意味」の問題なんだろう。
意味とは物語であり、その意味、物語を発話する、という振る舞いには
同時にそれを(タテマエでも)信じている、ということが付随する。
そこに「宗教」の余地?がある、と思う。
あと、別の側面ではオリエンタリズムにも関係するけど「権力ゲーム」
なんだよね。
あ、ごめん、ちょっと「警部補 矢部謙三」の録画見てくるノシ