ぼくが抱えている問題をざっと概観 | 陽炎の帯の上へちらりと逆まに映る鴉の影―どーすかΩ

陽炎の帯の上へちらりと逆まに映る鴉の影―どーすかΩ

この部屋の中にいるヤツに会いたいのなら もっと、寿命をのばしてからおいで

こんどもまたなにをいってるかわからないと思うけど、

読者諸兄諸姉のオツムが不調なのではなくって、

ぼくの文体=思考が「ぐずぐず」であるのだ。


げろげ~ろ!



ひとつ、えーっと、

春を考えること。


春ってなんだろう、ということを、

四月いっぱいで考えたい。


春の日や、あの世この世と馬車を駆り。


これは同じフレーズをもう一度書くとおもいますが、

気に入ってるんです、いいでしょ、

春というのはまあ、「出会いと別れ」の季節、

そして「生と死」の季節であるようにおもう。


ハイデガー先生は人間を「死への存在」と捉えたわけですが、

ここで問題になっているのは、

「ありふれたものであることはわかっているのに、でも、

それは私にとってかけがえのないものである」という「勘違い」

なんです。


これまた「私」ってなにかしら、という問題の変奏なんですけど、

「かけがえのない」ということは取り替えることのできない、

ということですよね。「代替不能性」。

取り替えることのできない、ということは、

「どうして(私は)こうでしかありえないのだろう」って気持ちに

つながります。


で、どうしてこんなちびすけなのかしら、とかって、

いつもマイナス方向の限界性を感じるときにやってくる気持ち

ですよね。


別様ではありえなかったのか?


ね?


それから、かけがえのない「風景」。

「旅立ちの日に…」を考えてたところでした。


いつのまにか、時は流れ、もう今日は卒業の日。


放課後行った常連の店←ありふれてる~

「いつもの」駄菓子屋←ありふれてる~


なんでもないものに、なぜか涙が流れる、みたいなことがある。


卒業だとか、そういった「一区切り」は「日常の異化作用」として

機能します。


「もう開けない教室のドア」

過ぎ去った風景。


もう届かないもの、ですよね。過去ってなんなのだろう。

ぼくたちは過去について、語ることができなかったのでは

ありませんか?

□どうしてぼくは過去について語りえないのか?

http://ameblo.jp/hyorokun/entry-10490709754.html


そして、知るとは、語るということではなかったか。


ぼくたちは過去なんて知らないのではないの?

じゃあきみはどうして泣いているのだろう?



かけがえのなさと手遅れ感。

それが「状況の受容」の問題です。


それから、そこには「救済」はありうるのか?


ってとこですね。



「いやな人」論。色々考えるのだけど、うまくいえない。

結論だけはでました。

「我慢は身体によくない。」by内田先生


だから、いやな人については考えてはならない!


その理路をそのうちにご説明いたします。




ツンドク。


もうー。もうー、もおお!


「机の上の本」ってまだ氷山の一角なんです。

それが第一階層。

今回はここまで掘り下げたいです。


けど、その下には、

第二階層:「机の下の本」


第三階層:「ベッドの横の本」


と続いているわけです!!!!!



第四階層もあるとかないとか?


よし、これは言ってもいいだろう。


やれやれ!