こんばんわー。
セブンネットショッピングが便利。
アマゾンで在庫切れしてるときに、意外とあったりします。
ありがとーたすかったー。
吉本隆明先生著、「甦るヴェイユ」が、あとがきだけ読んで
放置されていた。
図書館で借りたもので、とりあえず4/1締め切り。
読めないから延長するとして4/14くらい。
ちょっと固くて読むのが大変なので、
6章ある本編の内、気になった5章を読む。
Ⅴ労働・死・神
ヴェイユさんの神学論。
わっかるっかなーわっかんねーだろーなー。
ご明察。ろくにわからない。
でも、「ライ麦」のホールデンっぽい、「透明な匂い」が
少しだけ感じられる。
それはあるいは信仰と救いの問題なんじゃないかな。
吉本先生が指摘する「興味深い個所」。
「宇宙が人間に糧として与えられるのは、その人間が
労力として宇宙におのれを与えるときのみである」
さらに吉本先生によれば、これと全く反対のことを、
バタイユが書いていたのだそうだ。
よくわかんないけど、ぼくはヴェイユに賛成。
□まだ誰も語っていないけれどたぶん国母さんが
間違えていること
http://ameblo.jp/hyorokun/entry-10462993469.html
ここで助けを借りた、
「人間は自分の欲しいものを、人に贈ることによってしか手に入れる
ことができない」というレヴィ=ストロース先生のことばと比べてみよう。
自らを糧として差し出すものだけが、糧を得る。
内田先生の仰った「リスクテイカー(失敗時には生殺与奪の権を差し出す
者)だけが決定権を得る」ということばも思い出すね。
まあそういうことです。
吉本先生によれば、ヴェイユさんは人間が関われる世界の外側に
「神」の実在性の領域を考えているんだって。
これもよくわかんない。「場所」とかいうと西田幾多郎先生っぽいけど。
西田先生が何を言っているのか、ぼくにはまだまるでわからんから
ぜんぜんわかんない。
ただ、全体として、ヴェイユさんが人間的固有性(ペルソンヌ・ニメーヌ)
「ではなく」、かれの匿名的存在自体に「神」に対置される人間的領有を
見て取っているところは、「なるほど!」と膝を打った。
たぶん、だけど、人間の尊厳は、「本当のアタシ探し」をしている人には
見えなくて、自らの身体を投げ出す人、その人の、「未-知」への敬虔さ
にこそ宿るんじゃないかと思う。
ヴェイユさんはそれを言ってるんじゃないか。
ペルソンヌ・ニメーヌの「ぺ」が「べ」かどうか確かめようと思って
ぐぐったけど一件もヒットしなかったのは、ミンナニハナイショダヨ。