真央ちゃん先生はえらい | 陽炎の帯の上へちらりと逆まに映る鴉の影―どーすかΩ

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ここでは、フィギュアスケート選手であり、バンクーバー冬季

オリンピックにて銀メダルを獲得した浅田真央選手について、

考えたいと思います。


まず、ぼくは浅田真央選手のファンではありません。

ですから、浅田選手が何色のメダルを手に入れようと、

それは、ぼくにはどうでもよいことです。


「じゃあ、お前は浅田真央の何なのか!」とみなさんは

いらいらされることと思います。その質問にも後でお答えします。

みなさん、というのは管見の及ぶ限り、「浅田真央選手のファン

ではない人間」をただの一人も知らないからです。


ぼくは、このところ、「浅田真央はほんものだ!!」と、

口癖のように言っておりました。

真央ちゃん、呼び捨てにしてごめんね。


あ、そうだ。そうですね。

まずは浅田真央さんをどう呼ぶか、という問題があります。

浅田真央さんは、1990年9月25日生まれなので、なんと、

ぼくとたったの4日ちがい。割とどうでもいい話です。

それを知ってぼくが妄想したのは、「もしもぼくと浅田真央さんが

同じ学校の、同じ教室、クラスメイトだったら?」という状況です。


「浅田真央」、とフルネームで呼び捨てるのもおかしいけれども、

その前にいきなり馴れ馴れしく「真央ちゃん」だなんて呼ぶのも、変。

とりあえず、無難に浅田さん。

浅田さんはやさしいので、いきなり真央ちゃんと呼んでもたぶん

ぜんぜん怒らないと思う、どころか、にっこりと微笑んで「なーに?」

って返事してくれるに違いがありません。

そこで、ぼくはお願いする。「あ、あの!真央ちゃん、って呼んでも

いいですか?」そういうやり取りがあってはじめて「真央ちゃん」だと

思います。そうだよね。

ぼくがくり返し言っているように、「ディセントな態度を以って人に接する

ことは、そうしない場合に比べてより多くのベネフィットが得られる」

からです。


でもどうせ勇気をふりしぼって「下の名前で呼んでもいいですか?」と

お願いするなら、呼び捨てにしてもいいですか、とも聞いてみたいです。

それはダメか。真央!あ、ファンの人たちがすごい怖い顔してます。

よし、じゃあナカとって、真央ちゃんと呼ぼう。


いや、決まったね。何がって、これこそがかの有名な「百万貸してソリュ

ーション」です。

「五十万貸して。」

「いやだよ、無理だよ。」

「じゃあ百万貸して。」

「いやだよ、無理だよ。なんで上がるんだよ。」

「じゃあ五十万貸して。」

「まあ、五十万なら、いいけど…ってなるかい!」


話が逸れました。

「浅田真央はほんものだ!!」の意味するところですね。

これは、やはり「ほんもの」というのがよくわからないです。

ぼくの中では、どうも「ほんもの」は、「インチキ」の

対概念となっているようです。

「インチキ」の方がわかりやすいと思いますからそちらを

説明します。

ぼくの言う「インチキ」というのは、「ニセモノ」とか、「ずる」という

ことではありません。

それは、「みんなが良いと言うけれども、良いということになって

いるけれども、ぜんぜんわかっていないダメなもの、ひと」と

いう意味です。

この定義は、前段の「良いということになっているけれど」と、

後段の「ぜんぜんわかっていないダメなもの、ひと」に

分けることができます。


みなさんはきっと、後段の「ぜんぜんわかっていないダメなもの、

ひと」というのは、「何がどうわかっていないのか」「どうダメ、なのか」

が気になることと思います。

「ぜんぜんわかっていないダメなもの、ひと」というのを一語で表す

のは、「野暮」です。

そして、「野暮」という言葉の面白い点は、「野暮とはなにか」が

明確に定義できない、という性質をもっていることです。

それを無理に詰め寄ると、「野暮とは何か、明確に定義せよ」と言う

ような人が野暮である、とされてしまいます。


ぼくのいう「インチキ」とは、「みなにちやほやされているけれども

本当は野暮である」という事態のことです。

そして、「ほんもの」とは、「みなにちやほやされていないけれど本当は

粋である」ことです。


ですから、ぼくが「浅田真央はほんものだ!!」と言うとき、そこで

問題となっているのはスケートの技術でも、かわいくて天然なところ、

でも、ぜんぜんないわけです。だって、真央ちゃんのそういう部分は、

もう飽きるほどホメつくされ、ちやほやされ尽しているからです。


では真央ちゃんの「真に粋なところ」とは一体なんなのでしょうか。


それはですね…ごごごごご…、あの、わかりません。

ずてっ。こういうのは普通サウンドエフェクトとして表現されますが

ぼくは口で言います。ずこっ。


ぼくには「まだそれと言うことはできないけれども、すでに知っている

もの」として、真央ちゃんの「真に粋なところ」の情報は与えられています。

「まだそれと言うことはできないけれども、すでに知っている」ことは、

実際的には「それ」への畏怖として、ぼくの下に到来する。


「鬼神を敬してこれを遠ざく、知というべし。」

かつて孔丘先生は弟子の樊遅(はんち)に、知とは何か、と問われ、

このように答えました。


鬼神、というのは、ぼくらとは別の風景の下、別のルールによって

律せられている存在のことです。

シンプルに言うと、意味のわからないもの、あるいは無意味であるもの。

敬す、というのは、自分と相手との関係をある「型」に収めて接すること

です。なぜそんな必要があるのか、というと、それは、鬼神との遭遇が

ぼくらにとって非常に危険な出来事だからです。


ですから、ぼくは、「真に粋な」真央ちゃんに相対する際には、

真央ちゃんを敬する必要がある、ということです。

なぜって、ぼくにはそれが「怖い」からですよ。


そして「敬する」具体的な策として、ぼくは「師弟関係」という型を採用した

のです。だから、ぼくは真央ちゃん先生の弟子を名乗っているわけです。


真央ちゃん先生はえらい!