かきちらし | 陽炎の帯の上へちらりと逆まに映る鴉の影―どーすかΩ

陽炎の帯の上へちらりと逆まに映る鴉の影―どーすかΩ

この部屋の中にいるヤツに会いたいのなら もっと、寿命をのばしてからおいで

あ、こんちは。


なんか、あのー、書き出しの挨拶みたいなやつって

あるよね。ブログの記事の書き出しで、

おっはー!とか、古いけど、オリジナルな挨拶決めたり

みたいな。


べつにどうでもいいとおもうんだけど、

気にするとなんか気になるな、って。



さて、

昨日、おとといは「なんか書きてー!」ってなってたんですけど

あんまり時間がなくってかけなかったです。


今日はあんまり、そでもない。



もうなんかめんどくなってきたけど、

わすれちゃいそうなんですこしでも書いとこうと思います。


ぼくがやる気ないのでいよいよ何いってんのかわかんないと

おもいますけど、それはきみのオツムが急にだめになったん

じゃなくってぼくがわるいんだとおもいます。


いや、論理的には四つの可能性がある。


①ぼくがわるい・かつ・きみのオツムは快調

②ぼくがわるい・かつ・きみのオツムがだめになった

③ぼくはわるくない・かつ・きみのオツムがだめになった

④ぼくはわるくない・かつ・きみのオツムが快調


④が最悪です。

「きみのオツムが快調」かつ「ぼくがわるくない」=ちゃんと言ってる

にも関わらず、「何言ってのかわからない」ということは

はじめからきみにはぼくのいってることが

伝わっとらんということです。


という、このことばもやはり届かないのであって、

むなしい努力というものであります。


しかし、そのように、「ノイズ」から選択的に「情報」を拾い上げること、

そして、そこに「相手」を「見て取って」そこにメッセージを投げるという

こと、すなわち「挨拶」が、「人間」のはじまりであったわけです。


私は「そこにあったのにすでに失われてしまったもの」を目指して

「語ろう」とし、しかし、そこで語られたものによっては、満たされない。

「私が語ったものは「それ」ではない」という感覚によって欠性としてのみ

指示されるものが「シニフィエなきシニフィアン」でしたね。


そのような「語りきれない」という感覚こそが、いよいよ「語り」を駆動する

というのが、たぶん…宮沢賢治の「修羅」ではないか。


…ぜえ、はあ。


イッキに書いたらちょっとエンジンがかかってきました。


あ、そーだ。


あの、「あなたは誰か。」の答えだけ忘れないうちに書いときます。


□「あなたは誰か。」

http://ameblo.jp/hyorokun/entry-10429462323.html


ごほん。


「え~っ!きみはまだ、読んでくれてないの?」

「読んでくれないと、ひょろ、泣いちゃうぞっ」









っと。



これ、ちょっと無駄な努力をしてみたけど、

ふつうに答えみえちゃうかな。


え、だれもきにしないってか。

まあどっちでもいいけど。


はい、答えは、っと言う前に、


もっかい確認。


誰何とは、即、「なぜお前を生かさなければならないのか」

という問いである。

しかしその「どうして生かさなければならないのか」という問いには

構造的に答えられない!


「どうして殺してはならないか」とは質問ではなく、呪いなのだ。

人をして、言葉を失わせる。恐ろしい呪いだ。

それによって人はその問いに「居着き」、じわじわと弱って、

やがては死んでしまう。


だから、この呪いに答えずにどう切り抜けるか、

が必要なのだった。


続けよう。



「なぜお前を生かさなければならないのか」という質問に対する

答えは、「私はかくかくしかじかの人間であるから、生かすべきだ」と

いうことになるだろう。

でも、「私はかくかくしかじかの人間である」というふうに語られたことが、

「本当の私ではない」ことをよくよくわかっているのはほかならぬ自分

であった。


だって、「わたしのことをこういう人間だと思ってほしいな」、と考えたことを

話すでしょ?


だから、「それ(君が語ったこと)は君ではない」とずばり指摘されると、

ぼくは「それは君ではない」という言葉の真意は何か、に気がとられ、

そのことで頭がいっぱいになる。その言葉に縛られて動けなくなってしまう。

これを武道では「居着き」という、のだそうです。


先手をとられる、というのは通俗的な理解とは違って、スピードがはやい

ということではない。

「相手はどういう意図をもって「それ」をしたのか」ということで頭がいっぱい

にさせられること。次に相手はどう出るんだ?と、相手の次の手を受身で

待ち構えてしまうように身体を再構成されてしまうことを、先手を取られた、

という、らしい。


先手を取られたらもう「必敗」だ。

生殺与奪の権を相手に取られちゃう。


まとめてみる。

00:「ハロー!」

挨拶は、「あなたはだぁれ?」という問い。


01:「あなたは誰か」という問いは、

「なぜあなたを生かさなければならないのか?」に接続される。


02:「なぜあなたを生かさなければならないのか?」という問いには、

「私とは誰か」を答えることになる。


03:「私とは誰か」という形で、自分について語ったものが、当の

私ではないことをもっとも知るのは、私である。


04:そのため、「それはきみではない」という指摘によって、先手を

とられる。


05:したがって「あなたは誰か」には答えることができない。


…だって、知らないから。


じゃあ、素直に、「私は知らない」と答えたらどうなるか。



『もののけ姫』において、

主人公のアシタカは旅の途中、タタラ場に立ち寄る。

タタラ場の当主のエボシ御前に呼ばれて、で、側近のゴンザが剣を

抜いて、エボシが言う。

「お前は誰で何をしに来たのか?」(正確には、ちょっとちがったかも。)


「あの、ぼくにはよくわかりません。」


サクッ。


それはさすがにだめです。

ぼくも斬ります。


答えは、「私は知りたい。」


これです。これしかない。


アシタカはここで「曇りなき眼で見定め、決める」と

答えました。


「唯一絶対の解」や、「本当の私」はどこにもない。

それは、「語り」を通して、「語り」を通すことによってのみ

ぼくらにもたらされる。


なぜならば、「私」もまた、あらゆる瞬間に生成流転していく

乱雑な複合だからです。

「私」というのは、「語りつづける」という終らない努力

そのことなのです。


「知りたい」なら、「語る」、あるいは「騙る」ほかない。


「語り」は「君」に向けて現象するものだから、

コミュニケーションを続けなければ、「知る」ことは成らない。


「君」というのは、未決性、未知性、他者性です。

他者性とは、「は、なにこいつ、いみわかんねー」というふうに、

私の理解を絶した存在。


「私は知りたい」というぼくの答えのうちに他者性をそのままに

飲み込むことで、相手に「私」の先手をとらせることを防ぐのです。


「あなたは誰か」=「なぜ生かさなければならないのか」という

「呪い」は、「知りたい」をもって停止される。


「ぼく」⇔「きみ」と循環を描くことで呪いを断ち切ります。



ぼくにもよくわからないけど、これでたぶん正しいです。

「挨拶」もまた、「私は知りたい」という「好奇心」によってもたらされ

るんだもの。


なんかながくなった。こんな感じです。


どうでしょうか。