こんばんわ、ひょろです。
「語りとはなんだろうか。」を上げたよん。
また忘れそうだから、先取りして少し考えを書いとこう。
「私は私について構造的に無知である」というのが、
「自己言及の困難」であった。
それはまあ、みんな(!)が言ってることだから別にいい。
ぼくがとりあえず、あんまりみんな言ってなさそうで、
ぼくにもよくわかんねーと思ってるのは、
「自己言及の困難」と、「どうして殺してはならないのか」を
架橋することで現れてくるアポリア。
ぷえーっ!わかんねっ!
「どうしてきみを生かさなければならないのか」という問いに
向き合うことこそ、「存在忘却からの目覚め」なるものであろう。
「生」の契約更改みたいな話で、
えっとー、ぼくを生かしとくとこういうリターンがありますよっ!
っていわなきゃいけない。
恐ろしい話であるけれども、いくらかアクチュアリティのある
話になりつつあるように思われる。
現代は、人間の価値を計る度量衡を、社会的貢献性「だけ」に
しようとしている。グローバリズムと、「男女雇用機会均等法」は、
結局のところ、はしなくも、ようは「金」を稼げるかどうかという
ことだけで人間の価値を計ろうと考える精神を表してる。
この辺は、人の受け売り。うん、ごめんね。
全ての人間は構造的に、「どうして生かさなければならないのか」
という問に答えられない!
だから、「さもなくば、答えられなければ、殺す」ならば、みんな死んじゃう。
この、「どうして殺してはならないか」は、質問ではなく、呪いなのだ。
人をして、言葉を失わせる。恐ろしい呪いだ。
それによって人はその問いに「居着き」、じわじわと弱って、
やがては死んでしまう。
だから、この呪いに答えずにどう切り抜けるか、
が必要だったわけね。
『もののけ姫』のアシタカも、このアポリア(難問)を切り抜けてたんだけど、
それは何でしょうかってことです。
証せよリトルジョニー!
最近おなじ話ばっかりしてる…。