『「我思うゆえに我あり」は私の実在を証明していない。』
http://ameblo.jp/hyorokun/entry-10445724350.html
'「我思うゆえに我あり」は私の実在を証明していない。」
という意見には、現在のぼくも、やっぱり与するものだ。
というのは、「思われる」という動作、現象があって、
そこから「我あり」が導ける、というのはわかるんだけど、
その前段の「思われる」という動作の主体として、「我」
をおくことができる、というのが何を言ってるのかちょっと
わからない。
特に、日本語で、「おのずから思われる」というふうに
自発的感情を抱くとき、その動作主体としての「私」の
確かさなんて、ぜんぜんどっか行っちゃうでしょ。
わたしではない何かに「思われ」へと急き立てられてる
感覚があると、なんかぜんぜん説得力を感じない。'
>>一応、前提条件として、『人の思考を可能とするものは
自身のみである』、というのがあるから言えるんじゃない?
うん、その通りだと思う。
「我思うゆえに我あり」が私の実在を証明するのは、
「思考という現象の「主体」として「我」がある」という
前提条件の限定下だけだってことだ。
そして、ぼくはその前提に与しない。
だって、その条件の正しいことを、誰にも言うことができないからだ。
それこそが「自己言及の困難」なるものであり、それに取り組んでも
みんなバターになっちゃうだけなのだ。
「起源は既に失われている」というのは、フロイトの「子供時代は、
もうない」と同じことだ。
あるいは、レヴィ=ストロースの「私たちは信仰や慣習の原初の起源
については何ひとつ知らないし、これから先も何ひとつ知ることが
できないだろう。信仰や慣習の根源は遠い過去のうちに沈んでいる
からである。」とか。
そこに無理に「主体」を構成する為に、西洋形而上学はとっても
トリッキーなことをしてきた。
「主」の対立概念って「従」でしょ。
だから、絶対に「私は間違っている」とは言えなくなる。
主体の構成は、自分がいかに「間違っていないか」を示そうとする
という仕方で行われてきたのだ。
>>多重人格の人とか分裂病の人にとっては、それが失われている
から、精神に異常をきたしているのだと思う。
鋭い。フーコーは健康/病気、正常/異常、真/偽の二項対立の
結びつけの系譜を探った。
ぼくにもよくわかんないんだけど、少しだけぼくのメモを載せとこう。
* * *
「権力=「主」」は「何をもって病気と見なすか」からはじまって、空間的な
分離、そして、分離によって差異を固定化し、その差異に応じて処方を
配分するというふうに展開する。
ハンセン病
(01)空間の配分
(02)視線による観察
(03)記録と報告
(04)消毒の実施
ペスト
(01')多様な分離
(02')個人化のための配分
(03')監視と管理の徹底した組織
(04')権力の強化と細分化
「たえまなく規則的に細分して、遍在する全知の権力の効果」
そして、真理とは「それなくしては、ある種の生物が生きていけなくなる
種類の誤謬」である。
・純粋な共同体(安全性)
ハンセン病:二項対立による区分:排除、追放、隔離、集団の単位での
処置:大いなる監禁
・規律で訓練された社会(確実性)
ペスト:差異の配分:分割、監視、規律、個人別の処置:よき訓練
「線引き」=「権力」=「真理」は、「私は間違っていない」。
「見る」-「見られる」は「主」-「従」。
* * *
ま、フーコーをもってデカルトを斥けるというのは、いわば、
「後出しジャンケン」だもんね。
でも、「異常」という言葉がフーコーの知性に火を点ける
トリガーになったのも、ちょっと面白いかもっておもう。