君はゆっくりと息をつく。
それを病と呼んでもいいだろうか。
そうだった。あらゆる治療を以ってしても、君の病には
回復の兆しが見えなかった。
スクラップ・ヴィークル・フォオ・ジーン。
社会はとうに君の下を去った。
君はもはや何らの意味をも担えないだろう。
君は言うかもしれない。
結局のところ、それはイマーゴでしかなかったのだ。
あらゆる試みはふざけたダンスであった。
個とは有限性そのものを意味する。
君は意味性の網へ回収されていくだろう。
それは未決性を殺す。
意味性でははじめから支えられないのだ。
君はマトリクスに溶けていったろう。
君は自らのままならなさを呪うだろう。
君は世界のフェイクでは捉えられない出来事に遭遇する。
それは決して光では捉えられないところにある。
あらゆるまなざしから逃れていく水準にある。
言葉では間に合わない。
それでは届かない、届かないのだ!
君は打ちひしがれるだろう。
意味作用とはすり替えのことだったのだ。
全部フェイクだった。
それは一切の解釈を拒む。
絶対的な理解不能性そのことである。
君は、存在している、そのときには既にして何かを
失っている。無限性や未知性から遠ざけられてしまっている。
そうして、そのことによっておのずからわきおこるかなしみは、
ああ、いったいどうすればよいというのか、それこそが人間性
なのである。
世界とは物語であった。意味性の束、世界劇場なのだ。
それは決してリアルではない。意味性とはそれ自体が構造的に
有限性を意味する。無限性とは無意味性のことなのだ。
それを見てはならない。君の下には、たしかにかつてどこかで
出会ったはずなのに、それと思い出すことのできないかなしみが
訪れるかもしれない。
その、燃えるような痛みは、君を意味性のクレバスへと突き落とす。
君は届くのに届かない、両極へと引き裂かれるだろう。
それは君をして、あの「理解」へと駆り立てるだろう!
そして、君は今や穏やかな表情をしているように見える。
いや、君は怒っていた。
君はみじめになりたかった。
そんなことを従容とした態度で受け入れるなんてできなかった。
君はおそらく、燃えるような後悔の中にいた。
君は眠ることができなかった。
あらゆる風景はフェイクで、もはや君にはどうでもよいことなの
だった。
君は個を融かしてしまいたかった。
もしかすると君は願い、もしかするとそれは叶えられた。
境界が失われ、差異が失われ、意味が失われた。
世界は静かに流れ出していった。
全ては満ち、全ては停止した。
もう誰も泣いていない。あとには安らぎが残された。
その通りだった、だが君は舞台からは降りられないだろう。
そんなことは君にはできない。君は弱い人間だ。
君は考えることなんてできないだろう。
君はすでにもう十分みじめだったのだ。
フェイクで人は死ぬ。何のためらいもなく、何の躍動もなく、
ありのままに、あまりにも静かに、人は死ぬ。
そんな惨いことに君は耐えられるだろうか。
いや、耐えることは結局はできない。
何度も何度も、同じことを考えてめそめそと泣いていた。
しかし、君はその変わり映えのしない日々に、むしろ癒されていた。
それは一つの穏やかさそのものであった。
君は泣きつかれ、久しぶりにぐっすりと眠ることができた。
そして、君はまた、笑っていた。
君は再び、そんな日々を、よし、と肯うのだ。
ああ、そうして、境界に立つ。
届かないということ、そのことにおいて、それにふれている。
そして、僕もまた、ひどく弱かった。
あらゆる物事を留保し、逃げまどっているだけだった。
しかし、今や、僕は君を見てしまった。
また君のおかげだ、いつだってそうだった。
君のまなざしは、僕を停止した。
存在するとは別の仕方で、僕は君に出会ってしまった。
僕の存在は切開され、別の風景へと接続された。
いや、ぼくは終ぞ、君に会うことはなかった。
ぼくが訪れたそのときには、その部屋はすでに、
からっぽだったのだから。