「世界で演じられるどんな芝居においても、役者である
よりも観客であろうと努めた。」
「出番を告げられた役者が、恥じらいを見られないために
そうするように、私も人生の舞台に登場するに際しては、
今まで観客として過ごしてきたのを、仮面をかぶって進みでる。」
「仮面」とはこの自動機械としての、人間の物質的側面のことで
ある。GAME、共に生きていくこと、そうして色の洪水の中、去って
いくこと。
「嘲笑せず、嘆かず、また呪わずに理解する」のではなく、
また、「嘲笑し、嘆き、呪う」といった「さまざまな対抗拮抗しあう衝動
の果ての、凪のような平衡状態に留まる」のでもない。
積極的に「微笑み、楽しみ、祝い」そして「鬨をつくり、委ねず、物理的
現実=身体の限界性によってあらゆる瞬間に切断されていく振るまい
を選び、前進する」。
動き続けていくこと、生々流転、念々起滅のダンス。
呼び声に挨拶を返すこと。
さらに、各々の卓越した演者(=「真の」ヴァーチュオーソ)とは、
あるいは「五人の都市」という有機的細胞、集合的身体を持つ自他なき
融和的交響圏としての「個」である。そこでは「来歴を問わず」、「再分配は
必要に応じて」為される。これを以って、「人間」は撤廃される。
それが愛であり、フェアネスであり、正義である。
…と、言いたいところだったけれど、それは「悪い夢」だろう。
ここでもう一度、「大人になること」を定義しておこう。
それは、わからないことと共にあること、「やれやれ」とか言いながらも、
なんだか結構楽しんでみたりするようなユーモアのことではないか。
「君の瞳で見つめて。」
うーん、僕はもうよれよれだよね、やれやれ。