決断における自覚ある者の優位を説く人間は
絶対に負けない。
なぜだろうか。
「私」は私の発生に遅れる者の名である。
構造的に言って、私は私について語ることができない。
私は私によって私について語られたものを以って
世界に現れるが、「それは私ではない」ことを一番知るのは
私である。
この、渇望の感覚、語れば語るほどいよいよ不足すること、
そして、その渇きこそが私をして語らしめるものであるという
悪夢のような循環がコミュニケーションを起動する。
「主体」がそのように、自己参照によってためらう性質をビルトイン
されていると考えれば、自覚は政治的、実践的には決断に遅れを
もたらすばかりの(つまり、短期的には、ということだけど)有害なものに
他ならないだろう。
では、それをふまえて、それでも尚自覚ある者の決断における優位
があるとすれば、それはどういう事態か。
自覚が決断に(そこでは常に情報が不足している)ポジティブに作用
するとすれば、それは「私が正しい」ときだけである。
「私」について語ろうとすれば必ず不足し、必ず遅れる。
であるならば、語らなければよい。
自分が「語ることなく、つまり自己を省みることなく、世界に現れ、
そして無条件に正しい」ことを「知っている」人間だけが、自覚を決断に
順接できる。
そして、そのような者のことを、僕はバカと呼ぶのである。