サルトルなんてだいっきらいなんだから | 陽炎の帯の上へちらりと逆まに映る鴉の影―どーすかΩ

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この部屋の中にいるヤツに会いたいのなら もっと、寿命をのばしてからおいで

なんで僕はサルトルが嫌いなんだろう。


ボーヴォワールのことで嫉妬してるのかも

しれないけど、まあそれ以外だと、


サルトルの決断主義(と呼ぶとして)では、

アンガージュマン(の帰結)は「歴史の法廷」によって

裁かれるとされています。

つまり、「どっちが正しいかは歴史が示すだろうさ!

まあオレが正しいんだけどな!」ってことです。


僕はこれがへたれてると思います。

歴史(の記述)なるものの後ろ盾がなければなんにも

できないわけでしょ。そんなの自由って言わない。


レヴィ・ストロースは、サルトルの歴史観が文字を持たない

親族を疎外していると批判しましたが、それとはまた別の話ね。


アウグスティヌスが用意したキリスト教の終末論も、

裁判のメタファーが採用されている。

歴史の終わりにキリストが復活して最後の審判が行われる。

無罪の者は天国へ、有罪の者は地獄に送られる。


冤罪があったらどうするんだろう。神は間違えないの?

じゃ、そこで全ての人間が有罪判決をもらったらどうなるんだろう。

文句言うなよな。それだったら別にいいと思う。


善さが示されないのにもかかわらず選択を迫られ責任を負う。

また、歴史的には、全ての選択は間違っている。

その上で生が肯定されればいいんじゃないかな。


ん、で、それが失恋ゲームだっつってんだよ、ってこと。