失恋ゲームと大人になるということ | 陽炎の帯の上へちらりと逆まに映る鴉の影―どーすかΩ

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この部屋の中にいるヤツに会いたいのなら もっと、寿命をのばしてからおいで

まずは宣戦布告から始めます。


“I believe, therefore Love is.”

哲学は解けました、これが真理です。



まあ冗談はおいといてですね、(ウィトゲンシュタイン的ジョークです)

これ、結構すごいと思うんですよね。

僕が絶対に間違っていると思うからこそ、僕が否定すれば

するほどその正しさが示されていく。


「愛はありえない」との関係を考えておきます。

「愛はありえない」というのは「全ての愛」について語っています。

このアンチテーゼは「愛」なるイデア(知覚できない実在、妄想)の

くだらない価値観が人間に押しつけられマイノリティが抑圧されて

いる現状を「暴く」ものです。


「愛はよい」なんか嘘八百かもしれない。

「愛」幻想を解体することが科学にはできます。

科学とは偶有(たまたま)をゆるす態度のことです。

だから、ここでは「「愛」が本当に人間の必要条件なのか。

違うんじゃないか、その決めつけ、思いなし、思考停止から自由に

なりたい(還元)」という衝動が働いています。

僕は個人的には愛はあってほしいと思います。

でも、だからこそ、「愛はありえない」という問いに向き合う必要が

あるのです。

それを真っ向から引き受けたのが(たぶん引き受けられていると

思うのだけれど)「失恋ゲーム」です。

僕は人間には愛と死を否定できないと考えました。

だから、「ある一つの愛がありえない」という状況に僕が立つことで

それでも尚否定できない「ここにはない愛」が立ち現れてくるだろうと

考えたのです。「この愛」を諦める代わりに「愛がありうるかもしれない

回路」を活かす道です。

その途上で「成熟」と「道徳」の問題にも行き当たりました。


「タダノキモイヘンタイ」には、“I believe, therefore Love is.”は

耐えられないと思います。それに耐える為にはタフネスが必要です。

失恋に耐ええた「超人」を大人と呼びたいと思います。


ポストモダン世界においては大人は存在しません。

成熟とはある一つの規範に適応することですが、文化相対主義の

下ではその社会規範を選択する必然性という物語が衰弱するから

です。これを社会学では近代以後における再帰性の高まりと呼びます。

再帰性とは自覚のことで、映画『魔女の宅急便』においてキキが箒で

飛べなくなったのもこれと似た現象です。


この状況を打ち破る為には、成熟(の程度)を計る水準を一段階引き

上げればよいのではないかと考えます。

01:ある規範に適応すること

02:その規範を選択する無根拠さに耐えること

「全く理解できない、受け入れがたい他者=失恋ゲームにおける「彼」」

の存在を許すのが「大人」であると。


大人の定義から翻って「無垢さ」も考えておきましょう。

無垢さとは、「僕」と「君」の物語を信じている状態のことではないでしょうか。

むしろ、子供時代にこそ、「僕」の自我中心的な「君」の所有という

レイプファンタジーが展開されるというわけです。


「道徳」については、「失恋」は、身を引き裂かれるような当事者意識、つまり

リアリティを呼び寄せます。ただ、「失恋」において、想像力が起動する

のではないか。


それらの他には、「失恋ゲーム」によってどういう問題を考えることができる

でしょうか。

意味とは抗エントロピー作用、不断の構造化のことでした。

あらゆる構造はそれ自身の内に解体の契機を孕んでいるのです。
どういうことか。

全ての物語は、敗北の物語、喪失の物語だということですよ。


したがって、失恋ゲームはあらゆる構造を語る上で参照項となりうる、

と考えます。