サルトルと決断主義 | 陽炎の帯の上へちらりと逆まに映る鴉の影―どーすかΩ

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決断主義ってカール・シュミットの術語かな。

僕は宇野常寛に教わったんですけれども、

そういう思想史的なことはよくわかりません。

シュミットを読めばいいね、はい。わかりました。


決断主義はファッショとの文脈で語られたものだと

考えますが、むしろサルトルの思想に似ているように、

僕には見える。


わかんない。完全に誤読かもしれないけど。


* * *


サルトルは言った。

「実存は本質に先立つ」

「人間は自由の刑に処せられている」


これを僕が言うと次のようになる。


「本当のアタシ」なんてない。自分のことは自分にも分らない。

自分が本当は何をしたいのか、それもわからないのに、

決断を迫られる。AかBか、決めないといけない。


フィッシュオアチキン?


うーんっと、えーっと、どっちでもいいです。

え、決めないとダメ?うーん。


あらゆる状況を前にして、世界と関わらないわけには

いかない。傍観者ではいられないのだ。


赤ちゃんの泣き声が聞こえる。

それを聞いてしまったが最後、僕は、

赤ちゃんの様子を見に行くか、あるいは行かないかの

二択を迫られる。

何もしないというのは、ひとつの積極的な選択である。

君が赤ちゃんを放っておきたかったから放っておいたのだと

言われても何も言い返せないということだ。


それが応答責任である。


君のふるまいは全て君の選択であると見なされる。

その帰着するところの責任は、一切が君にある。

それから逃れることはできないのだから、それを積極的に

捉えなおし、引き受けるのがいいだろう。

それが「投企」であり、「アンガージュマン」である。


* * *


余談だけど、僕はサルトルがすごい嫌いだった。

なんかよくわからないけど、意味もないくらい無性に嫌い。

彼にまつわるあらゆるものに対して、嘔吐感を催すくらいに。


でも、なんだろうな、「むしろ重要である」というように今は感じる。

僕が勝手に別の意味を彼から読み取ってしまっているんだ

と思う。


だって、サルトルは構造主義が現れると共に死んだじゃん。

でしょ?だから今更なんなんですかという感じだけど、でもさ、

現に決断主義に照らし合わせて僕はサルトルを考えないで

いられなかったわけじゃん。一番嫌いなのに。


それがあの男の思考の生命力なんじゃないの?

ゴキブリ並みの。