見ることについて | 陽炎の帯の上へちらりと逆まに映る鴉の影―どーすかΩ

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ⅰ.おばけを見る方法


 僕らがおばけを見ようとするときに、

絶対にしなければならないことがあるのですが、

それはなんでしょうか?


お墓に行く、でも、暗くする、でも、百物語でもないです。


百物語をすれば必ず尋常ならざるものを見ることが出来るかも

しれませんけれども、それはおばけを見ることの必要条件では

ありません。


正解は、「おばけを見ようとすること」です。


よく思い出してください。僕たちは、おばけを見ようとしたときに

しかおばけを見たことがないはずです。

おばけを見ようとしていないときにはおばけを見ることは出来ません。


おばけを見ようとすることは、おばけを見たいかどうかとは、

独立した問題です。

つまり、おばけを見たくない人も、おばけを見ようとすることが

あります。


おばけを見ようとすることとは、おばけの話題提起をすること、

「おばけ」を意識することです。

おばけを見たいかどうか、と問われた人間は、その答えに関係なく

既におばけを見ようとしています。


僕たちは積極的に、「おばけを見ようとすること」を

しないようにすることはできません。


意識して意識しないようにすることはできないからです。


* * *


 僕たちは、いつもおばけを見ようとしておばけを見ます。


同様に、僕たちは人面を見ようとして、火星の表面に

人面を見ますし、聞きたいから、亡き夫の声を聞き、

それについて話したいから、部長のヅラのことについて、

口を滑らすのです。


三猿の教えは、ひとつには、そのことを言ったものだと

考えられます。


ここで、「見ざる、聞かざる、言わざる」とは、

見ようとするから見るのだ、聞こうとするから聞くのだ、

言おうとするから言うのだ、だから用心しなさい、

ということです。


ⅱ.見ていること、見ていないこと。


見ることについて、拡張しましょう。


ここで、見ることや見ないことについて、四つに分類します。


01)見ていることを見ていること。

02)見ていることを見ていないこと。

03)見ていないことを見ていること。

04)見ていないことを見ていないこと。


それぞれ、説明します。


01)見ていることを見ていること。

これは、簡単です。そのままいつもの「見ていること」。

僕はチョコレートを見るし、お笑い番組を見るし、

女の人の太ももを見ます。


02)見ていることを見ていないこと。

02)は、01)と共に見ることを構成する土台です。

ルビンの壺というものがあります。


帰ってきたKOIするやんごとなきどーすかΩ-rubin

ルビンの壺


それは壺であったり、人の横顔であったりします。

僕たちは何らかの対象を「見る」とき、その「図」以外の部分、

同時にそこに見ている「地」を見ないようにしています*01


それが、見ていることを見ていないことです。


03)見ていないことを見ていること。

03)の見ていないことを見ていることの具体例には、

シャーロック・ホームズの推理があります。


「ワトスン君、今夜はおかしな夜だね?」


「さあ、ホームズ。いつもとなんにも変わらないじゃないか。」


「いや、今夜は、あまりにも静か過ぎるんだ。今夜は、

あのうるさい犬たちが吠えていない。」


「わお、気がつかなかったな。」


あるいは、本屋の風景です。

本棚に、例えば、「名探偵コナン」のマンガが並んでいます。


1巻2巻3巻4巻5巻7巻8巻9巻10巻…。


気づいた?ここには、6巻がありませんでした。

僕たちはここに、6巻が「ない」ことを見ています。


04)見ていないことを見ていないこと。

最後は、04)の見ていないことを見ていないことです。


これが、実は一番厄介なのです。

「見ていないことを見ていないこと」とは、僕たち自身のことです。


僕たちは、僕たち自身の姿を見ていないし、見ていないことをも

見ていない。見ないようにしているのです。

自己自身の姿を見つめることは、非常に難しい。


そんなの、鏡があれば十分じゃないかって?


確かに、僕たちは鏡を使うことなく自分の姿を見ることは出来ません。

しかし、鏡があるのが出発点であり、鏡があっても尚、自分の姿を

見ることは極めて難しいです。


斎藤緑雨という人の言葉に、次のものがあります。


「何人か鏡を把りて、魔ならざる者ある。魔を照すにあらず、造る也。

即ち鏡は、瞥見す可きものなり、熟視す可きものにあらず。」


僕たちが鏡をまじまじと眺めたとき、そこにあるのは

僕たちのありのままの姿ではありません。

もう、僕たちはそこにあまりにも多くのものを見てしまっていて、

混じり気のない僕たち自身は過ぎ去った後です。


僕たちは、僕たち自身について、なんでもわかると思いがちです。

でも、本当は何にもわからない。自分自身を見つめることは、

非常に難しいことです。


デルフォイ神殿の言葉、グノーティサウトン、「汝自身を知れ」とは、

自分のことを正しく見つめなさい、ということではなくて、

自分のことを見つめることは難しい、ということだと、僕は思います。


ここでも、簡単に「わかった」と言ってしまうことは、非常に危険な

振る舞いです。




*01:以下参照のこと。

□客観的事実なんて実在するのだろうか。

http://ameblo.jp/hyorokun/entry-10347426722.html