表現の両価性について | 陽炎の帯の上へちらりと逆まに映る鴉の影―どーすかΩ

陽炎の帯の上へちらりと逆まに映る鴉の影―どーすかΩ

この部屋の中にいるヤツに会いたいのなら もっと、寿命をのばしてからおいで


 表現とは「私」による非「私」の否定であり、

君に向けた呪詛の投げかけである。


「私」の権益が不当に損なわれている現状に対する

異議申し立てが、表現の一義的な性格である。

クレームということは、Noと言うことであり、「私はここにあって、

君を受け入れない」という、拒否の態度の提示となる。


僕と君とが未分割で、連綿と続く流れの中にたゆたっている

とき、表現は発生しない。表現とは外に対して「表し現す」ことであり、

外部のないところに現象することはない。


僕は僕である。僕は僕のことを考える。いかにして僕を発展せしめるか。

僕は僕が拡大・再生産されていくことを望む。僕の内部空間が拡張し、

外部空間が縮減することを望む。君が損なわれることは相対的に

僕の価値を増大させる。僕が利益を得、君が不利益を被ることを望む。

僕が幸福になりますように。君が不幸になりますように。


かくして、僕は声を上げる。それが、表現ということ。



 表現とは、非「他」である「私」による、「他」の肯定であり、

君に向けた祝福の投げかけである。


君のいないところに僕はいない。僕と君とが未分割で、連綿と続く流れの

中の揺らめきでしかないとき、そこには、僕も、君もいない。


世界はまず、映像である。そこは、爆発と、渦と、暴走する色に

満ちている。全ては線的に、剥き出しに、ありのままに、たゆたっている。

そこには全てが溶けていて、反って何もない。

そこには歴史がない。そこには、色がない。そこには、君がいない。

世界が目まぐるしく巡っていって、終らない。


そのとき、ふっと、僕は目を留める。

その、何でもない、あまりにもささやかな、淀み。


僕は、そこに、見る。世界への、最初の一撃。


世界が真っ二つに割れ、僕は自分が何を考えているのか、

まだわからない。しかしそのとき、僕は為し、僕は成る。

僕は、そこに、君を見る。僕は自分が何をしているのか、いや、自分が

何をしようとしていたのか、わからない。


僕はそこにまなざしを投げかけ、そこに君を見る。

僕は君に、声を投げる。

表現が始まり、世界が始まる。君が始まり、僕が始まる。


そこには無限の肯定がある。

僕は僕のいたところから身を引き、君に与える。

拭えないリアルが、そこに始まる。


かのように、僕は声を上げていた。それが、表現ということ。