どうにも、記憶がはっきりとしないのだが、これは、
僕がまだいくらか、世界と関わりを持っていた頃の、
確かに、僕の直接の体験であったような迫真さが滲んでいる。
じわりと、したたる、ひかり。
* * *
僕は、最後に一つ寝返りを打って、目を覚ました。
まぶたが涙で開かない。
と、新聞配達のようなそよ風が前髪を揺らす。
この、振り子のような心地よい律動は、扇風機のものに違いない。
じっくりと目を開くと、ぽそぽそっとした、わらのようなものが、
目の前にはあった。
この仄かな香りは…、イグサだ。
僕は、痺れきった腕組みをして、畳の上に転がっていた。
背の下に、ガリバーを留め置くストッパーのように、タオルケットが
丸まっている。
ゆっくりと身を起こして、辺りを見渡すと、八畳ほどの、細長い畳部屋
であった。障子も何も、皆開け放してあって、とても広々と感じられる。
一段、下がって、土間の向こう、アルミサッシを隔てて通りが見える。
道路のアスファルトは日光を反射して、濡れた様に光っている。
僕は、きょろきょろとして、左右に首を振り続ける扇風機のとなりに、
木の、花の彫刻を施したお盆に載せた、麦茶を認める。
氷が解けたのか、味にムラがあって、すっかりぬるくなってしまって
いたが、それでも、酷くのどが渇いていたから、旨く感じられた。
麦茶の最大の利点は、どこでも同じ味が楽しめることだ。
それに加えて、濃くても、薄くても、それなりに、うまい。
僕は麦茶を飲み干すと、大きく伸びと欠伸をして、立ち上がった。
土間においたビーチサンダルの上に下りて、足を動かしてつっかける。
アルミサッシが、からからと、乾いた音を立てる。
* * *
排水溝の石のふたが、ガコンとゆれる。
向かいの魚屋がガコンとゆれ、シャッターは落ちたまま。
この、ちょっとした違和の衝撃は、歩く人間を不安へと、覚ます。
僕は、本当は、右に向って、お寺のほうに行こうと思っていたのだけれど、
何となく、危険を嗅ぎ取って、左を選ぶ。
僕は、排水溝のふたの、中央を歩くことにする。
* * *