生命の本質が「生きんとする意思」(=「エントロピーに抗する力」)
であるならば、「生者」に死を選ぶことは出来ません。
食物連鎖ということを考えます。
生き物は自らの秩序を守るために、
エントロピーを排出し続けます。
しかし、その抗力はどんどん失われていきます。
(エントロピーの増加傾向)
その為に、システム外部の秩序を取り入れることで
抗力を回復します。全ての生命がこれを
行うので、「食物連鎖」が起こるわけです。
食物連鎖を一つの潮流として眺めたとき、
それ自体が秩序形成の運動ではないかという
発想が生まれます。
それは、世界システムの<抗力>ではないか。
しかし、システムの自己保存の条件の一つに、
位相的な領域の指定が必要です。
そして、エントロピー最大の状態、すなわち死が
システムの究極的かつ必然的な結末であるならば
世界の出自は、外部の措定なしには考えることが
できません。完全なエントロピーの中からは、
秩序が生まれ得ないからです。
その、最初の力を与えたものは世界の内部には
存在しません。「有」という状態が「無」から生まれ得ない
のと同様です。更に言えば、「有」は「無」の否定態に過ぎず、
「無」という状態は「有」の視座から否定されなければ
生まれません。
仮に、「有」をなくしめる事が可能だとして、「有」が
「あること」をやめる、すなわち世界システムが<抗力>を
失ったとき、「有」空間全体のエントロピーが最大になった
ならば。その、最早どうにもならない「それ」は外部を取らず、
解釈が消滅し、「有」でも「無」でもない真の<無>が
回帰するのです。
同様の議論によって、意味という概念は「有」空間にしか存在せず
意味一切が失われるべき「無」非空間では意味自体がないので
意味の不在は否定されることになります。
世界とは、それすなわち意味の不在の否定ということになります。
ニーチェのいうありのままの生の肯定とは、意味の存在が
根拠にあり、これこそが世界内存在である生命にとって、
世界の出自というルサンチマンの代償ではないでしょうか。
意味は意味の不在の否定なくしてはありえず、
無意味は正に無意味であり、
有は無の否定なくしてはありえず、
無は正に、どこにもないのです。