死者の観点?(あるいは、「である」という作為) | 陽炎の帯の上へちらりと逆まに映る鴉の影―どーすかΩ

陽炎の帯の上へちらりと逆まに映る鴉の影―どーすかΩ

この部屋の中にいるヤツに会いたいのなら もっと、寿命をのばしてからおいで


強者は無知だ。


無知ゆえに、あるがままの生を肯定することが出来る。


弱者は知っている。

知っているから、正に知っていることによって

ありのままを知らない。

だから、彼らはいつも、ありのままの生を否定して、

生の意味を探している。


生に意味があるとすれば、生そのものだけであるのに。



システム一般の本質が、自己維持だとすると、

システムにとって憎むべきは「エントロピー最大の状態」に

相違ない。だから、システムとは猥雑さに対する<抗力>、

すなわち、猥雑さの否定態に他ならない。


「自然」という言葉を考えてみる。


自ずから、然る。


明らかに、そこにはダイナミズムが存在する。

だから老子の「無為自然」という言葉は

自己矛盾をきたしている。

動性は「為」であり、一切の受容ではない。



すると、世界とは、結局のところ、引き伸ばされた

<抗力>の回路なのではないか?


「あるがまま」という言葉に落とし穴があったのだ。

「あるがまま」には「エントロピーへの抗力」という作為が

含まれている。つまり、あるがままの生の肯定もまた、

ルサンチマンによる産物ではないか。


世界が一つの閉じたシステムであるとすると、

システム自体が<抗力>を忘れなければいけない。

システムがシステムをやめねばならない。


無の否定態としての有を享受する、現状のこのねじれを

克服するためにはエントロピーを受け入れるしかない。

混沌という言葉には「偏り」がある。

混沌ではなく、「エントロピー最大の状態」が必要である。


こうして、生と死が一致し、有と無が一致すれば、

否定の否定もなく、否定と肯定の一致、否定なき肯定が

達成できるだろう。



しかし、生者に死を肯定できるのだろうか?