僕達は一般に物語の中の世界については、その世界の
住人の視点を媒介しないと認識することができません。
『四月物語』においては、
基本的な構造は以下のようになります。
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僕…→僕達の世界
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岩井俊二=監督の目
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楡野卯月=主人公…→映画『四月物語』の世界
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「生きていた信長」の監督の目
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映画中映画「生きていた信長」
媒介にする視点は一人称の登場人物か、
俯瞰的なカメラレンズの視点=神の視点の
いずれかとなります。
ただし、一人称視点といってもFPSのようにその人の
「視界」ではなくて、観客が自己投影する「対象」という
意味です。
一人称視点でも二種類のLevelがあって、それぞれ
「言語的な水準の視点」と「身体的な水準の視点」です。
『四月物語』世界の全体を覆う、主人公「楡野卯月」自身に
よる大きな擬制の構造は「言語的な水準の視点」上において
観客を映画の冒頭から、その内部に誘い込みます。
うーちゃんがなんだかどんくさくて、失敗ばかりしているのは
「言語的な水準の視点」と「身体的な水準の視点」との
齟齬による歪みが彼女の上に発露しているのだと
捉えることができます。
残酷な現実世界への他愛も無い抵抗。
どこにでもいるありふれた女の子の、些細で気持ちのいい
<物語>のある種の「傾向」を、彼女の世界をみずみずしい
ままに描きあげた岩井俊二の目を通して追体験することで、
Howばかりを重視する<真>の追求以外の道を考えることが
できる作品です。
僕達にとっては、現実世界そのものが「リアル」ではありません。
「リアル」は、僕達に見えるもの、僕達が触れるもの、
匂いを嗅げるもの、味わうことができるもの、聞こえるもの、
僕達が、考えることのできるものです。
そこにはどうしても、恣意的な取捨選択は必要になってきます。
それこそが、人間であり、世界であり、言語であり、「i」ですよね。
世界を、そのいくつかの要素を選び、身体にまとわせるような、
ある「傾向」。それが、Individual-Narrative、<物語>です。
これからは、僕達がそれぞれで個別のナラティブを手に入れて、
あるいは、個別の「リアル」へアプローチしていくことが
必要なのかもしれません。