『四月物語』考察♯02 | 陽炎の帯の上へちらりと逆まに映る鴉の影―どーすかΩ

陽炎の帯の上へちらりと逆まに映る鴉の影―どーすかΩ

この部屋の中にいるヤツに会いたいのなら もっと、寿命をのばしてからおいで

僕達は一般に物語の中の世界については、その世界の

住人の視点を媒介しないと認識することができません。


『四月物語』においては、

基本的な構造は以下のようになります。


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僕…→僕達の世界

岩井俊二=監督の目

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楡野卯月=主人公…→映画『四月物語』の世界

「生きていた信長」の監督の目

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映画中映画「生きていた信長」



媒介にする視点は一人称の登場人物か、

俯瞰的なカメラレンズの視点=神の視点の

いずれかとなります。

ただし、一人称視点といってもFPSのようにその人の

「視界」ではなくて、観客が自己投影する「対象」という

意味です。


一人称視点でも二種類のLevelがあって、それぞれ

「言語的な水準の視点」と「身体的な水準の視点」です。


『四月物語』世界の全体を覆う、主人公「楡野卯月」自身に

よる大きな擬制の構造は「言語的な水準の視点」上において

観客を映画の冒頭から、その内部に誘い込みます。


うーちゃんがなんだかどんくさくて、失敗ばかりしているのは

「言語的な水準の視点」と「身体的な水準の視点」との

齟齬による歪みが彼女の上に発露しているのだと

捉えることができます。


残酷な現実世界への他愛も無い抵抗。

どこにでもいるありふれた女の子の、些細で気持ちのいい

<物語>のある種の「傾向」を、彼女の世界をみずみずしい

ままに描きあげた岩井俊二の目を通して追体験することで、

Howばかりを重視する<真>の追求以外の道を考えることが

できる作品です。


僕達にとっては、現実世界そのものが「リアル」ではありません。

「リアル」は、僕達に見えるもの、僕達が触れるもの、

匂いを嗅げるもの、味わうことができるもの、聞こえるもの、

僕達が、考えることのできるものです。

そこにはどうしても、恣意的な取捨選択は必要になってきます。

それこそが、人間であり、世界であり、言語であり、「i」ですよね。


世界を、そのいくつかの要素を選び、身体にまとわせるような、

ある「傾向」。それが、Individual-Narrative、<物語>です。


これからは、僕達がそれぞれで個別のナラティブを手に入れて、

あるいは、個別の「リアル」へアプローチしていくことが

必要なのかもしれません。