島井宗室(その3) | ドリップ珈琲好き

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主な記事  ①神社 ②書下ろし「秀吉と名乗った男」「徳川末代地獄の争乱」「末裔界からの来訪者」「理想郷の総理大臣」

全文十七ヵ条にわたる遺書を残した

島井宗室

 

秀吉が死に、やがて徳川の世になり黒田長政が筑前に入って福岡城の築城にかかると、宗室、宗湛は協力して献金し、黒田家を助けた。長政は宗室に対し箱崎村のうち三百石の知行を与えたが、宗室は五十石だけを崇福寺の瑞雲庵に寄附し、その他は辞退した。

 宗室は元和元年八月二十四日、七十七歳で没し崇福寺に葬られた。彼が慶長十五年(一六一〇)養嗣子徳左衛門信吉にあてた全文十七ヵ条にわたる遺書は、彼の一生の締めくくりにふさわしい、博多商人の処世訓であった。原文十七条のうちから数条をつぎに抜粋してみよう。

 貞心、律儀を第一に、はしたないことや勝手な振舞いをしてはいけない。人をけなしたり中傷するようなことには一切耳を傾けてはいけない。

 五十歳までは後生願いなど必要ない。老人は別だ。信仰にうつつをぬかして寺まいりなどは家人にとって災いともなる。来世のことを願うより、在世中の信用を失わぬよう分別することが第一である。

 賭け事をしてはいけない。碁、将棋も四十歳までは無用のものである。どんな芸能であろうとも五十歳になってからならよろしい。

 身分不相応なことをしてはいけない。衣装など目立つような華美なものは無用である。質素を旨として奢侈はいけない。

 酒をつくるとき米は自分で量り、人に量らせるときは、少しも目を離すな。下人、下女にいたるまでみな盗人と思え。

 少しでも貯金がある時に生活に心掛け、商売油断なく稼ぐことを専らにしなければならない。資金が多ければ欲しいものを買い、姿態ことをして万事華美にはしり、やがて使いへらしてしまい、そのときになって、驚き後悔してもはじまらない。普段が大事である。袋の中に儲けたものをいくらいれても不必要なものにむざむざ費消しては、底のない袋に物を入れるようなものである。何事も分別が第一である。

 ざっとこんな風で、時間の節約、食料品の消費、交友などにも及び、最後に夫婦の和合を説いている。現代では通用しないものもあるが、日常生活の指針となるものが多く、武将の遺訓とはまた違った現実的なものがある。

 佐賀の「葉隠」は武士道とは”死ぬことと見つけたり”と記しているが、宗室の言葉をかりれば、町人道とは”普段の日常生活と見つけたり”ということになろう。宗室のように自分の生活に強い信念と卓見をもった人は、当時の武士の中でもそれほどいなかったろう。養嗣徳左衛門から誓詞をとった宗室は、それを棺の中に入れて安らかな眠りについた。現在の当主嶋井安生氏は島居安之助氏の長男で、博多区吉塚で印刷業をされているが宗室より数えて十七代目に当たる。

 

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吉永正春氏の著書「乱世の遺訓より」完全引用・転写(75ページから83ページ)

◇乱世の遺訓 昭和58年7月1日 初版

◇著者 吉永正春氏 大正14年8月東京生まれ、著作時は福岡市在住

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以下、端翁宗室居士肖像の文面

其行其操、始を克くし終を克くす。江河の浩渺たるを慈潤し、山獄の穹崇r¥たるを仰高す。六藝の喉襟を誦し了りて、之を関西の孔夫子に譬へ、十五の餘席を坐断して、謂ひつべし汝南の載侍中なりと。学を好みほとんど志有り、経を解きて又窮まらず。紫府に隣を接して、

詩思を一夜の梅樹に覃ぼし、鳥津に隠を卜して、吟興を十里の松風に馳す。喫茶去底郝真際を奴視し、囲棋の悟処遠録公を笑倒す。肩に枘衣を塔せ形容卓尓たり、俗にして僧々にして俗、身几案に停まりて工夫綿密なり、同中の異々中の同。覩る者は十日を明かにし、聴く者は四聴に達す。花、色即空(兮)空即色、画成りて冬日瑞雲紅なり。

居士は筑の前州冷泉津の一故人なり。昔時吾竜宝諸老の門を扣き、道のために志深し。寔に嘉尚すべきのみ。この故に横嶽山裡に一字を創建す。開山国師の塔所は、庵を瑞雲と曰ふ。厥の旧名を改めずして瑞雲庵と号す。しかのみならず山野廿年以降の耐久なり。今茲仲秋念四日、俄然として簀を易ふ。其親眷工に命じて幻容を描かしめ、讃を余に徴す。遠く此の一●を寄せ来る。展べて之を寄せ来る。展べて之を視れば、則雪鬢天資猶ほ余に対して朝挨暮拶の時の如し。感慨の責むる所、黙して辞すべけんや。口に信せて乱道し、書して以て之を瑞雲庵に還す者なり。

元和元年乙卯蜡月両十四日(十二月二十四日)

 前大徳江月叟宗玩竜光の室に書す。