島井宗室(その2) | ドリップ珈琲好き

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主な記事  ①神社 ②書下ろし「秀吉と名乗った男」「徳川末代地獄の争乱」「末裔界からの来訪者」「理想郷の総理大臣」

本能寺の変に居合わせたという

島井宗室

 

宗室の機略を物語る話として、天正十年六月二日信長の招きで本能寺に逗留していた島井宗室は、未明に起こった突然の喚声で叩き起こされ、明智光秀の反逆を知る。とっさに身支度をした宗室は、寺の書院の床の間にかけてあった弘法大師の真筆(一切経千字文)をとりはずし、巻き収めると、燃えあがる本能寺から一目散に脱出した。貴重な文化財が灰になるのを見るにしのびなかったからであろう。

 彼は博多へ帰ると、その「千字文」を博多の名刹東長寺へ寄贈したという。また、このとき本能寺へ泊っていたのは宗室だけではなく、博多の豪商神屋宗湛が一緒であったという俗説もある。宗湛が上方の茶会に出て活動するのは、天正十四年以降であるから、これは疑わしいが、宗室が本能寺の変の際、居合わせたということは、まるっきり架空のこととして片づけられないものがある。

 松山米太郎氏の『評注津田宗久茶湯日記』によれば、

「信長征途ニ就クニ先ダチ廿九日先ヅ本能寺ニ館セシハ、予テ博多ノ富賣(富商)島井宗室ニ所蔵ノ名器拝見ヲ求メラレたりしが故ナリ・・・・・・」とあり、本能寺の変に先立って宗室が信長に会っていたという可能性が全然ないとはいえないのである。

 天下の覇者信長の最後の場所、本能寺に居合わせたという宗室、宗湛の話は真偽の詮索よりも、当時の博多商人の社会的位置を象徴しているものとみられるのである。

 宗室は信長なきあと、秀吉へと接近する。宗室が所蔵していた茶器の名物”楢柴”は当時三千貫(現在の二億五千万円相当)の値打ちといわれていた。これを手に入れようとした大名は多かったが、宗室は手放さなかった。秋月種実もそのひとりであったが、彼はついに実力で奪おうとしたので、宗室も遂にこれを譲ることにした。”楢柴”を受取に来た秋月の使者が茶室を離れるやいなや、宗室はこの茶室を取り崩してしまった。

 天正十五年、秀吉は島津氏を降伏させて九州を平定したが、宗室は博多町衆の代表として戦火で荒廃した博多の復興を秀吉に訴え、許されてその助力を命ぜられた。彼は表口三十間、奥行き三十間の屋敷を拝領し、諸役御免の特権を与えられ、縄張り等も立ち会い、秀吉の奉行小西行長、長束正家などに協力して博多復興に尽力した。

 宗室は貿易を通じて朝鮮国の情勢にも通じていたので、秀吉が計画した朝鮮出兵の無謀を説いて、思いとどまらせようとしたが、「商人のくせに、いらざる広言」と秀吉の不興をかった。宗室が天下人の秀吉を恐れず直諫したことは、武士以上の眼力の持ち主であったといえよう。

 しかし、文禄の役が強行されされるに及んで、宗室は同じ博多の豪商神屋宗湛とともに、食糧物資等の外征への援助を命じられ奔走する。宗室自身はこの外征に終始反対の立場であったという。多くの人命と莫大な国費をついやした外征は結局何も生むことなく終わった。

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吉永正春氏の著書「乱世の遺訓より」完全引用・転写(75ページから83ページ)

◇乱世の遺訓 昭和58年7月1日 初版

◇著者 吉永正春氏 大正14年8月東京生まれ、著作時は福岡市在住

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 楢柴肩衝は、初花・新田肩衝と並んで天下三肩衝と呼ばれた茶器。もともとは足利義政の所有物であったが、その死後持ち主を転々とし、島井宗室が手に入れる。織田信長がこの茶器を欲しがり、商売の保護を条件に献上するように宗室に命じたとされるが、本能寺の変により実現しなかった。その後は、大友宗麟からの再三の断り、のち、筑前国で勢力を伸ばした秋月種実にこの茶器を譲らざるを得なくなった。秋月種実から更に豊臣秀吉へと献上され、秀吉臨終後は徳川家康が所有し、明暦の大火の際に破損し、修繕された後に所在不明になったという。