伊東三位入道義祐(1/2) | ドリップ珈琲好き

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豪奢な生活を送った日向の戦国大名

伊東三位入道義祐

 

  春は花秋は紅葉に帆をあげて 霧や霞に浮船の城

 

 この歌は日向の戦国大名、伊東氏の本城、都於郡(西都市)城の栄華をしのんで詠まれたっものであるが、白い城壁が城下を流れる三財川に映じて、鮎がそこからさかのぼれなかったなどの言い伝えがあるくらい、清流に浮かぶ雄大な城の警官が追想されるのである。

 伊東氏の祖に、富士の巻狩りで曽我十郎、五郎兄弟に討たれた工藤祐経がいる。もともと藤原氏の流れで、伊豆の押領使(警察の役)となり、工藤を伊藤に改め、さらに伊東を称した。

 日向との結びつきは建久九年(一一九八)祐経の子、祐時が県荘(延岡周辺)をはじめ、冨田・諸県・田島の”四ヶ所荘”の地頭職を継いでからである。

 戦国末期の南九州では、薩摩の島津、真幸の北原、肥後の相良・日向の伊東、大隅の肝付らの強豪がいたが、とくに伊東、島津の勢力が強かった。この両者は中原の鹿を追って互いにしのぎをけずり、その争奪の中心となった飫肥城(宮崎県日南市)の攻防では、伊東氏三代にわたり八十四年の長期を費やしている。

 永禄十一年(一五六八)伊東家十代、義祐は前後九度に及ぶ攻撃の末、島津忠親を降して飫肥城攻略に成功し、島津領へのルートを開き、貿易港福島(串間)を手中にした。

 伊東義祐は一般には”伊東三位入道”の名で知られている。朝廷に多額の献金をして従三位に叙せられ、入道となったことからの別称であるが、九州戦国大名で、公家と同列の従三位の高位に登ったものは少い。伊東家は義祐の代で最大の勢力となり、また彼の代で没落するが、子の祐兵が秀吉から取り立てられて、のちに飫肥城主となったことで、どうにか諸侯としての体面を保った。

 義祐が活躍したのは天文十年ごろから、元亀三年、島津に敗戦するまでの約三十年間であるが、その全盛期は僅か十年に過ぎない。この間、彼は日向五郡を制圧して、宮崎平野に君臨し、”伊東四十八城”といわれる多くの城を配して武蔵を誇った。

 義祐は自ら佐土原城にあって、嫡孫祐賢を都於郡本城におき、次男祐兵(長子は義益は早逝)を飫肥城に豪奢な生活を送った。彼もまた ”京かぶれ” を志向し、佐土原に条坊をしき、祇園、清水、五条など京の地名を付し、城の内外に小京都を思わせる数々の人工を施した。また、北山の金閣寺をまねて金柏寺を建立、銀柏寺まで造ろうとしたがこれは実現しなかった。

 

飫肥城跡 大手門

 

 

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吉永正春氏の著書「乱世の遺訓より」完全引用・転写(51ページから54ページ)

◇乱世の遺訓 昭和58年7月1日 初版

◇著者 吉永正春氏 大正14年8月東京生まれ福岡市在住