甲斐宗運(3/3) | ドリップ珈琲好き

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肥後国阿蘇家筆頭家老

甲斐宗運 かい そううん

 

  島津の先鋒に立たされた相良勢八百は娑婆峠を越え、響ヶ原(下益城郡)に陣をとった。宗運はすでに謀者によって敵情を知り、飯田山麓に虚旗を立てて本陣と見せかけ、ひそかに迂回して響ヶ原の敵陣を襲って相良勢を破り、大将相良義陽をはじめ三百余の首をあげた。この時の戦法は甲斐の武田信玄が川中島で用いたのと同じ戦法であったという。

 宗運はこの戦が義滋の本意でないことを知っていたので、その苦衷に同情するとともに「薩軍の馬をわが領内に入れさせなかったのは相良氏であるためであった。その相良を討っては、ここ二、三年を出ずして阿蘇家もまた滅亡するであろう」と言った。

 宗運は天正十一年七月五日、六十九歳をもって死んだ。かれの長子親秀(宗立)の妻が実家の父を殺されたことを恨み、娘に命じて毒殺させたというが、実の孫娘がすすめた一杯の茶が肥後随一の名将といわれた甲斐宗運の命を奪ったのである。

 宗運は死ぬ前、「われ死せば薩兵必ず北上するであろう。つとめて鉾をおさめ、外城を捨て矢部の要害に集まり、民心を得て三円余りを防げば天下定まるであろう。そのご死生を決せよ」と言って、軽々しく兵を出すことを厳しく戒めた。

 だが宗運の死後、その子宗立は父ほどの器量なく、阿蘇家の兵馬の権を握って専横の振舞いがあり、父の遺訓を破って島津の出城を攻撃、城兵を全滅させて得意になったが、ったちまち薩軍の猛攻をうけて破れ、阿蘇二十四城はことごとく奪われた。宗運の言ったように彼の死後、阿蘇家は三年を出ずして滅び去った。

 甲斐宗運の墓は木倉の古戦場近くの永壽寺にあるが「わが墓に銘記すべからず」と遺言したため墓には記銘がない。

 なお宗運死亡の年月については『大日本史料』天正十一年七月十一日の条に「島津義久、肥後竹迫城主合志親重及ビ御船城主甲斐宗運ニ、馬太刀ヲ贈ル」とあり、天正十一年七月五日の死亡と異なっている。

 

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吉永正春氏の著書「乱世の遺訓より」完全引用・転写(132ページから136ページ)

◇乱世の遺訓 昭和58年7月1日 初版

◇著者 吉永正春氏 大正14年8月東京生まれ福岡市在住