伊東三位入道義祐(2/2) | ドリップ珈琲好き

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豪奢な生活を送った日向の戦国大名

伊東三位入道義祐

 

 また奈良から仏師を呼んで三尊の仏体を造らせ、壮麗な釈迦堂に安置し、その梵鐘に「日薩隅三州太守藤原朝臣義祐」と銘をいれた。また、嫡子義益の室には土佐の一條房基の娘(阿喜多)を迎え、公卿と血縁を結び、城内に蹴鞠会を催すなど殿上人のように振る舞った。彼は家臣や民衆には過酷な専制をもってのぞんだが、その反面、千字文を出版したり ”飫肥紀行” の一文を著したりして文化を愛し、 ”戦国日向詩人” の異名さえある。

 義祐の華やかな生活とはうらはらに、山東(伊東の本拠を意味する)の地盤は極めて脆弱なもので、隣国島津氏が内乱を鎮定して日向に力を注ぎはじめると、あっという間にその地盤は崩れはじめる。かれの専横とともに配下将兵の不満は民衆の心とつながって、常に蜂起の機会を狙っていた。いかに日向の人心を失っていたかがわかる。

 元亀三年(一五七二)伊東三位入道は加久藤城(えびの市)攻略のため主力軍を出動させたが、島津義弘の軍と木崎原(えびの市)に戦って大敗し「都於郡、砂土原ノ若キ衆大方残ラズ討死」(日向記)とあるように中堅武士の多くを失い急速に衰退してゆく。

 天正五年、義祐の治政に不満をもつ都於郡周辺の将兵、民衆はいっせいに蜂起した。この都於郡暴動がきっかけとなって島津氏の侵入が始まり、ついに追われた義祐はわずかな近臣と女子供たちを連れ雪の米良山を越え、豊後の大友氏を頼って逃れた。

 翌天正六年、大友宗麟は義祐の乞いをいれ、日向に遠征して島津軍と戦うが、ついに大敗して逃げ帰る。それからの義祐は豊後にも居づらくなり、翌年漂然と旅に出て、伊予、姫路、山口へと流浪した。山口で詠んだ歌に「行末の空知らぬとの言の葉は、今身の上の限りなりけり」がある。

 義祐は勇将ではあったが、決して名将ではなかった。仁愛の心を失った指導者には民衆はついてこない。侵略するよりも民政に意を注ぎ、足元をしっかり固めるべきであった。その天義祐には重大な欠陥があったといえよう。 ”驕る者は久しからず” の教訓はこの義祐の場合にはぴったりである。

 彼の一生のうち二十八年に及ぶ飫肥城攻略は民衆の血と涙の所産であり、膨大な国費を注いで得たものは何であったろうか。義祐は老衰の身を堺に行こうとしたが、船中で発病し、堺の浦に遺棄された。戦国大名といわれた身で行き倒れになったのは、伊東三位入道だけであろう。彼は七日間介抱を受けたのち、天正十三年八月五日、七十三歳の波乱の生涯を終えた。

 

都於郡城跡 とのこおりじょうあと

 

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吉永正春氏の著書「乱世の遺訓より」完全引用・転写(51ページから54ページ)

◇乱世の遺訓 昭和58年7月1日 初版

◇著者 吉永正春氏 大正14年8月東京生まれ福岡市在住