遠いところに行ってしまって疎遠になったとか、携帯が変わってしまって連絡が取れなくなったとか、残念ながら亡くなってしまったとか、生きていれば誰しもあることだ。でも「海外で失踪した」というのはなかなか無いと思う。今回書く話は、私が通っていた高校の同級生ガミくんの話である。先に書いておくが、彼は、異国の地で忽然と姿を消してしまった。

長崎どころか、九州でもそこそこ名の知れた中高一貫の進学校に通っていた私は、中学2年生の夏休みくらいまでは辛うじて勉強について行けていたものの、そのあとからは真っ逆さまに落ちこぼれていった。何となく受けてみようと思って受かってしまったのが運の尽きで、九州はもちろん、西日本全域から神童と呼ばれる少年達ばかりが集まるその学校では、少々頭が良いくらいでは気を抜けばあっという間に置いていかれる。なんせ、授業で黒板の映像が記憶として脳に残るのでノートを取るくらいなら先生の話を聞いていた方がいいとか、日直日誌をフランス語で書いてみたりとか、そういうヤツばかり集まるところだ。何のアドバンテージも無いごく平凡なデブだった私は、中学の3年間をひたすら教師からの罵倒と成績最下位を争う屈辱に耐え続け、高校に上がった瞬間にドラムと出会い、何とか自分の居場所を確立する。私とほぼ同時にドラムを始めたのが、ガミくんだ。

ガミくんはナチュラルな茶髪と低い身長が印象的で、私のようにバカでは無く勉強が出来て人当たりが良いので、みんなの人気者だった。中学の時は1年と3年で同じクラスになり、頭の悪い私をバカにすることなく、分け隔て無く接してくれた。
本格的に親友となったのは高校に上がる時で、彼はバスケ部を辞め、私は剣道部を辞め、ほぼ同じタイミングでドラムをお互い始めたことがきっかけだった。進学校のくせに隠れてバンドをやる先輩達が非常に多く、学校内にもいくつかバンドがあったが、ライブをやる4日前に2つのバンドのドラマーが足首を捻挫するという悪い奇跡が起きた。そこでなぜか、私とガミくんに白羽の矢が立ったのである。私はデブだったからなんとなくドラムに向いてそうという、デブはキャッチャー的なイメージだけであてがわれた感があったが、ガミくんがなぜドラムに誘われたかはよくわからない。なぜか同じタイミングで音楽室のドラムセットの前にいた、という感じだ。
私はブルーハーツのコピーバンド、彼はBOΦWYのコピーバンドにあてがわれた。

案外、私も彼もごくごく初歩的な8ビートはその日のうちに叩けるようになった。あとは適当に他のタム(ブレイク・オカズに使うスネア以外の太鼓)とシンバルをそれっぽく叩けと足を怪我した先輩ドラマーに言われ、2人ともライブまでの残り3日間を、休み時間の音楽室で、家で、ひたすら練習しまくった。 
1日、2日と経つにつれて、二人ともなんとかカタチになってきた。今思えば他の先輩たちもみんなレベルは低く、2~3日の付け焼刃であっても、ライブ当日にみんなが騒げればそれでいいというレベルだ。 
8ビートのレベルは私もガミくんも大して変わらなかったが、オカズはガミくんのほうが私よりバリエーションが多く、彼はそのコツを私に教えてくれた。勉強がよく出来る彼の教え方はすごくわかりやすく、やっぱり頭の良いヤツは本当に賢いんだとひどく感心した。 
「僕は体重が軽いから、ベードラ(足で踏む太鼓)の音が君の音のように重たくない」 
と、デブの私に優しさ満点の持ち上げ方でをフォローしてくれた。 

迎えたライブ当日。長崎の繁華街から少し離れた路地の地下に「China」というライブハウスがあった。ぎゅうぎゅう詰めにしても客はせいぜい50人くらいのキャパで、ステージも無く、客席と演者が全く同じ目線という、安価でお手軽なライブハウスだ。 
私のドラマーとしてのキャリアはブルーハーツの「Train-Train」と「情熱の薔薇」のコピーで始まった。バンド初心者のお手本のような選曲だ。無我夢中だった。全く覚えていない。ほぼ勢いだけでやり遂げてしまった。上手かったわけが無く当然下手だったとは思うが、それはそれは大いに盛り上がり、一緒にやった先輩や見に来てくれた同級生や先輩達から手放しで賞賛され、おまえ絶対そのままドラムやったほうが良いと褒められたことだけは覚えている。中学時代は本当に鬱屈とした日々しか過ごせなかった私が、小学生以来、ようやく明るい日が戻ってきたように感じた。 
逆にガミくんは、やるのは私と同じで2曲だったが、途中でスティックを落としてしまい演奏が止まってしまった。客からヘイヘイヘーイと煽られながらも、もう一度途中からやり直し、何とか最後までやり遂げて、これまた拍手喝采を浴びていた。 
しかし、彼はスティックを落として演奏が止まってしまったことが物凄く悔しかったらしく、いつものような笑顔が無かった。 

唯一、他の高校にもヒケを取らないコピーバンドが私たちの高校にも1個だけあり、そのバンドはSKID ROWのコピーをやっていた。バンドを齧ったことのある人ならわかるかもしれないが、SKID ROWはどのパートであってなかなか難しい。その先輩達が、私とガミくんを鍛えてくれるということで、課題曲を渡された。それが、「Monkey Business」だった。 
私とガミくんは、Monkey Businessを必死に練習した。SKID ROWの中では比較的簡単な部類に入るが、ブルーハーツやBOΦWYと比べると格段に難しくなった。二人で休み時間に音楽室に走る日々が続いた。 
その前のライブと違って、同じ曲を一緒に練習するというシチュエーションは、私とガミくんの友情を深める絶好の機会になった。 

ガミくんが私に色々と教えてくれる。 
「これって単調な8ビートなんだけど、途中のブレイクで、『リズムを切る』ところがあって、そこをきちんとやれるかどうかが重要だよね」 
とか、 
「ギターソロのところで、どうしても走っちゃう(BPMが早くなる)から、そこをどう我慢してキープするかだよね」 
とか、
「この曲自体はドラムが目立っちゃダメだと思うから、あんまり不要なオカズは入れないほうがいいよね」
だとか、まるで予備校講師のようにわかりやすく教えてくれる。物腰の柔らかさと、冷静に物事を分析してポイントを伝えてくれる彼に、トラムが同じレベルと言えども尊敬の念を抱いた。
「とにかく、もうこないだのような失敗はしたくない。君はそのままの勢いでどんどん練習したら、どんどんうまくなるような気がする」と笑って話してくれた。 
彼は、反省を活かすタイプ、いわゆる、逆境や挫折をモチベーションにするタイプで、私は褒められて伸びるタイプなのだと思う。彼はすぐに私という人間の個性を理解し、君はそのまま突っ走ればいいというアドバイスをくれたのだと今でも思っている。 

結局、私もガミくんも、ライブでMonkey Businessを演奏することは無かったが、二人一緒にそのSKID ROWのコピーバンドの練習に参加させてもらってスタジオの中で演奏した。カセットテープに録音した二人のドラムは似て非なるものだったが、二人ともちゃんと叩けるようになったとドラムが上手な先輩にお墨付きをもらい、ガミくんと私二人でおおいに喜んだ。
同じように練習し、同じ課題に一緒に取り組んだとしても、演奏して音になる段階では全然違う個性が出ることが一つの感動だった。ドラムという楽器は限りなくアナログな楽器である。二人で二人の音を聞き比べしながら、「あー、1回鳴った音は2度と同じ音になって出てくることは無いんだね」と彼がつぶやいたのが印象的だった。
ドラムというのは究極のアコースティックインストゥルメント、とても奥深い楽器なのだ。

ガミくんと私の友情はそれからも続いた。彼とはドラマーとしてのライバルであり、彼はX JAPANが大好きだったのでツインペダルのドラム、私はツインペダルはハイハットシンバルがおろそかになるのが嫌いでワンペダルのドラムを好んだ。学園祭では完全にお互いをライバル視し、テレ朝よろしく「絶対に負けられない戦いがそこにはあった」。勝った負けたというのは誰も決められないが、お互いに良さがありお互いに拙い部分があり、彼のような聡明な人としのぎを削り合うのがとても心地良かった。
3年生に上がる年、私は頭が悪すぎて留年し、彼はもちろんそのまま進級。彼は受験の年だったのでその間ドラムをやらなくなり、留年して2年生のままだった私がその間に彼を置いていく形になった。 
それでもよくお互いの家に泊まりこみ、あれやこれやと色々な話をした。その話は音楽だけにとどまらず、倫理や世界平和や日本の社会問題やサブカルチャー的な部分までに及び、むしろ2人で色んな本を読み耽ることの方が多かった。特に村上龍や落合信彦の本を二人でひたすら読み漁ったのをよく覚えている。
 
その夏、それこそ彼の家に泊まりに行った時、
「実は、○○高の××ちゃんが忘れられない」
という相談を受けた。××ちゃんはよくスタジオに顔を出すベースを弾いている子で、同じスタジオに通うよしみでガミくんも私も顔なじみになっていた。でも決して美形ではなく、むしろブサイクで、私は全くその××ちゃんが恋愛対象になることはなかった。ぶっちゃけ、どうして××ちゃん?と思った。

「えええ?××ちゃん?マジ?」 
「うん」 
「いや、なんつーか、いいと思うんだけど、××ちゃんのどの辺が好きなの?」 

ガミくんは、私の問いかけの真意を察したかのように、笑いながら答えてくれた。

「確かに××ちゃんは顔は可愛くないよ、でも、雰囲気いいじゃん、何か」
「そうかな・・・、話してておもろい子ではあるけどね、頭悪そうだけど」
「そうそう、なんかあのバカっぽいところも可愛いんだよね」
「へぇ、そんなもんかな。ガミくんには悪いけどオレは無しだわ」
「アリだったら大変じゃん(笑)」
「まぁね(笑)」
「でもさ、」

ガミくんが真剣な顔で続ける。

「たぶん××ちゃん、実は頭良いと思うよ。だってベースけっこううまいじゃん。頭悪かったらあんな短期間でうまくならないよ。んでね、バカっぽいけどベース弾く時すごく真剣じゃん。あの雰囲気と、普段のバカっぽいギャップが好き」

ギャップ萌え、というヤツなのか。その気持ちももちろんわからんでも無いし、その××ちゃんには何の罪も無いが、なんとまぁガミくんには釣り合わん子を好きになったものだと思った。

勉強もたまに教えてくれたり、それ以上にサブカルチャー的な見識を滝のように私に流してくれる彼に対し、クソガキなりに何か恩返しをしなければとずっと思っていた。その時の私とガミくんの境遇の違いは、彼は受験生であり、留年した私はまだガンガンスタジオに行ってるということだ。当時でも今でも私は妙にお節介なところがあり、ああこれは大きなお世話だったのかとしきりに反省することがある。その時の私はやっぱり、何とかガミくんのために一肌脱いで彼に恩返しをしなければと、余計な余計なお節介の虫が頭をもたげ始めていた。

程なくしたある日、スタジオで××ちゃんと鉢合わせた。見つけた瞬間に彼女の腕を掴んで、スタジオの外に連れだした。奥手の私は、好意を持つ女にはなかなかうまく物事を話したり態度に表したりするのが苦手だったが、好きでも何でもない女ならば腕を引っ張って外に連れ出すなんて造作も無かった。あの強引さを好きな女の子にもっと出せればバラ色のティーンエイジを過ごせたのではと今でも思う。
おどろく彼女に、私はまくしたてるようにガミくんの話をした。話してる間も、ガミくんなぜこの女なんだと思いながら彼がいかにお前を好きかを切々懇々と、ドラマチックなストーリー仕立てにして話した。彼女は最初呆気にとられていたが、だんだん反応が右肩上がりになり、顔色は徐々に乙女チックになっていった。

「これ、ガミくんの電話番号!」
「え?ほんとに?」
「ほんとほんと。アイツ、ガチで良いヤツだし超頭良いし、なああああんでも教えてくれるから。絶対付き合ったほうがいいって!」
「そ、そうなのかな・・・・」
「××ちゃん彼氏も好きなヤツもいないんでしょ?」
「・・・・うん、今はいない」
「じゃあいいじゃん!!とにかく電話してみてよ!!」

今は男がいない、じゃあいいじゃん、
冷静に考えれば、脳ミソ筋肉の物凄い理論である。いいわけが無い。
なーんにも見えていない私は、これでガミくんにも彼女が出来たと、すでに大団円を迎えた気持ちでいた。

それから3日ほどしてからだろうか、学校の2年生の教室がある2階のフロアに、3年生のガミくんがわざわざ下りてきて話があると連れ出された。次のお泊り会はいつにしようかとかそういう話だと思いきや、彼がライブでスティックを落として悔しがった時以上に冷たい顔で口を開いた。

「××ちゃんのこと」
「おおおお!!電話来た!?どうだった?」
「・・・・あのさ」
「うん!」
「余計なことはしないでほしい」
「え!?」

当然である。

「どうしてこんなことしたの」
「い、いい、いや、つまりその、あの・・・・」
「なんか、勝手に話が変な方向に行ってる」

その1年でその時が一番困った瞬間だった。尋常じゃ無い冷や汗をかいたのをハッキリ覚えている。取りつく島も無いという言葉は、まさにあの時の私にぴったりだ。
そのあとガミくんからどんなことを言われたか、動揺しきってほとんど覚えていない。ただ、彼独特の綺麗な言葉に直されつつも、実際はふざけんなてめぇぶっ殺す的なことを言われたと思う。

それからと言うものの、彼と私の距離は離れた。学年が違うので校内で鉢合わせることもあまり無かったが、偶然すれ違ったり見かけたりする時でも、彼は微笑みもせず、ただ、おつかれー的なテンションで去っていく。もちろん私に非があるためどうしようも無かったし、彼の怒りは相当なもので、ちょっとやそっと謝ったところで許してもらえそうになかった。


やっと雪解けを迎えたのは、彼が卒業して東京の大学へ進学し、5月くらいに電話がかかってきた時だった。
留年した私は、同い年の連中が一足先に出て行ってしまうことが何となくイヤで、彼らの卒業式は仮病を使って参加せずお別れも言えずじまいだったため、本当に××ちゃんの件でギクシャクして以来、久しぶりにガミくんと長い時間会話した。彼は新しい彼女が東京で出来て、××ちゃんのことがどうでも良くなったから私と話がしたくなったから電話したのだそうだ。
彼には卒業と進学のお祝いと、彼からは私がteensで本当に優勝してしまったことのお祝いと。また彼とこうして話が出来ることに心底ホッとし、純粋にうれしかった。
結局彼は大学に進学してもドラムをやらないままだった。軽音楽サークルも覗いてみたもののソリが合わなそうだと思い、ひたすらバイトに勤しみ金を貯めてたくさん海外旅行をする、とのことだった。

「東京は狭いけど、ある意味むちゃくちゃ広い。長崎とは全然違う」
「そりゃそうだよね、小学校の時行ったっきりだけど、ビルとか高いし電車とかスゲー走ってるもん」
「そうそう、まだどの電車がどこに行くとかあんまり覚えられないんだよね」
「バイトして金貯めてさ、どこ行こうと思ってるの?」
「うーん、まだ漠然としか決めて無いけど、とりあえずまずはアメリカかな」
「そうかアメリカか、オレだったらライブ観に行きまくるなぁ」
「まぁライブとか行くのもいいんだけど、現地の人とたくさん喋ってみたいよね、アメリカって色んな国の人がいるだろうし、日本にいる外国人とは絶対違う感性を持っていると思う」
「ガミくん英語出来るから大丈夫じゃんね」
「いや、受験英語しかやってないし。同じゼミにも留学生いるけどあんまり会話にならないよ。英語も勉強しなきゃ」
「他には?」
「アメリカ以外ってこと?うーん、そうだなぁ・・・・」

しばし沈黙の後、

「インドは行きたいね絶対」
「インド??それまたどうして?」

インドなんてカレーの国くらいのイメージしか持ってなかった私は少し驚いた。

「インドってカースト制度が基本の国だから、それこそ全く日本と違うと思うんだよね。生きて行くことの感覚がまるで違うと思うんだ。そりゃどの国も日本と違うけど、インドはかなり特殊だと思う」
「ああカーストかぁ、世界史の授業の時になんか聞いたな」
「あと、人生観変わるって言うしね」
「あーあれだ世界ふしぎ発見とかで見たことある、タージマハルとか実際見るとすげーらしいね」
「うん、圧倒されるって聞いたよ、行ったことある人に」

彼は一呼吸置いて再び言った。

「東京は狭いけど、むちゃくちゃ広い」
「うんうん」
「んで、世界は莫大に広い。僕らはまだ、何も知らない。日本がいかに小さいか、自分がいかに小さい存在か、わかんなきゃいけないんだよね」
「すげーな相変わらず」
「すごくないよ。でも、僕も君も、このまま何も知らず生きてくのは良くないんだよ。まずは外、そして敵と味方が何なのかを知らなきゃね」

重たい言葉だなと思った。ちょうど彼から借りっぱなしだった落合信彦の「日本が叩き潰される日」という本が目に入った。

その年の冬に、彼は実家に帰ってくることもなく、溜まった金でアメリカとカナダと、そしてインドに行った。その時の旅行の写真を手紙に添えて、わざわざ私に送ってくれた。
特にインドは非常に感銘を受けたと記してあった。タージマハルとガンジス川、エレファンタの石像の写真が入っていた。
すぐに彼に電話をかける。インドヤバいの連呼。彼はすっかりインドに魅せられたようだった。
ドラムも大事だけど、君も色んな経験をすべきだ、世界は本当に興味深く美しいと、相変わらず上手な言葉で語ってくれた。
ただ当時の私は、大学進学はどうあれ必ずプロのドラマーになって周りを見返してやりたいという一心だった。彼との会話は飽きることなく楽しく感じていたが、それと同じくして、百歩二百歩先を行く彼との差が、千歩、万歩と広がっていくような気がして、物凄くさびしい気持ちにもなった。私が尊敬する人は、いつだって遠いところに行き、私の知らない世界を見て、感じて、アウトプットしていく。
ドラムでお互い凌ぎを削ったあの頃が、どんどん薄くなっていくような気がした。


その数か月後、私が大学に入って間もない頃、自分の母親から信じられないような連絡が来た。
ガミくんが失踪した、と。あんた何か知らないかと。
しかも失踪したのは海外で、その国はインドであると。
万が一の希望を持って、ガミくんの母親は、私のところに何か連絡は来ていないかを尋ねてきたそうだ。

彼は4月から大学の単位のことは全く無視して、再び海外を回った。東南アジアが主な渡航先で、最後にインドで1週間過ごしたのちに帰国するというスケジュールだったようだ。
ところが帰国予定日になっても彼が日本に帰ってくることはなく事件が発覚した。
もちろんガミくんの両親はインドに赴き、大使館や警察を回ったが、インドという国は良くも悪くも非常に適当な国で、観光客がいなくなるなんて日常茶飯事なのだ。形式的な捜索開始手続きだけをし、八方ふさがりのまま帰ってきたというのだ。
「失踪」と書いたのは、死んだ証拠が無いからだ。最後に彼が形跡を残したのは、デリーのホテルでのチェックイン。それ以降、全く行方がわからなくなった。

ただ茫然とした。帰ってこないというのはさすがにマズイというか、そんなドジを踏むようなヤツでは無いはずだ。であれば、死んだか、未だにインドに残っている、ということになる。聡明な彼は、色々な思想を持っていたけどさすがに家族を悲しませるようなことは無いはずだ、と。ひたすらに、いくらなんでも死んではいないはずだと自分に言い聞かせた。

このコラムの第一話のマークンに線香をあげに行った夏、私は親に大学がある久留米に帰ると嘘をつき、実はそのまま東京に移動して、成田から一人インドに旅立った。大学時代から住所を久留米に移しており、人生で初めてのパスポートを親にバレることなく作り、バイトで貯めた金を全部投げ打って旅費にした。自身初の海外は、ガミくんが絶賛したインドだった。ひょっとしたら彼に会えるかもしれない、もちろんそういう淡い期待、淡いどころか彼の家族のためにも必ずガミくんを探してみせると、ある程度の覚悟を持っての渡航だった。
少なくとも、及ばずとも、彼の感性だとか習性というものを私なりに理解しているつもりだった。彼の両親には見えていないものが、あれだけ語り合って過ごした沢山の夜によって、私には見えるのかもしれないと思ったのだ。

英語もろくに喋れない当時の私の最初の海外が、一人でインドというのはあまりにも無謀だった。インドの歩き方的な旅行本1冊のみが頼りで、空港で両替するにも、タクシーに乗るのも、そして宿を探すのも、鬼のように苦労した。胡散臭い奴らがひたすら話しかけてくる。道路で普通に牛が横たわっている。腹が空いて入ったマクドナルドはハンバーガーのバンズが上と下で形が違う。40度をゆうに超えているであろう気温。到着して数時間で、私はそれまで経験したことの無い疲労感に襲われた。何とか1週間宿泊出来そうな宿を確保し、ベッドに横になった時、とんでもないところに来てしまったと恐怖感で一杯になり、そこそこの音量で泣いた。
ガミくんが言った通りだ。僕らはまだ何も知らない。デリーの小さなホテルで、私が持つ狭い見識など海外では何一つ役に立たないことを、まざまざと感じさせられた。

ひとしきり泥のように眠った翌日、外に出ることが恐ろしくただ部屋でじっとしていたが、食いしん坊な私は空腹に勝てず、またマクドナルドに行って腹を満たす。その時、偶然スコールのような激しい雨が降って、高い気温が少しだけ下がり、ようやく色んな情報が冷静に目に入るようになった。非現実的だ。非現実的だが、現実に今自分はインドにいて、形がバラバラなハンバーガーと濃いオレンジジュースを飲んでいる。日本人は見当たらない。英語さえほとんど聞こえてこない。自分は一体何をしているのか、いや、何をするべきかを真剣に考えた。ガミくんを探さなければ。 

ただ、本当に何の頼りも無い。彼が冬に送ってくれたタージマハルをバックに映る彼の写真のみが手掛かりで、とりあえずタージマハルまで行き、この写真を現地人に見せて「この日本人を見たことがあるか?知らないか?」を繰り返すしか無いと思った。当然、ガミくんの両親も同じことをして何の情報も得られていなかったが、それでもやらないよりは良いという気持ちだった。

遠目から見るだけでもタージマハルの雰囲気に圧倒された。実際に彼が写真に収まったと思われる位置で改めてタージマハルを見る。力強い太陽に照らされて映えるパーフェクトな白いシンメトリーに再び圧倒される。300年以上前に造られた建造物とはとても思えない。テレビや本や写真でしか見たことがない光景が眼前に広がっているという現実に、ガミくんのことは少し忘れて、妙に気分が高揚してきた。知らないことを知るのはとても気持ちが良いことを実感した。
ただしガミくん探しは一向に進展が無かった。観光客を避けて現地人ぽい人間やガイドにひたすらHave you ever seen this Japanese? He was missing in Delhi.と暗記したフレーズで聞きまくるも、知らねえよというようなネガティブな英語は聴き取れるが、何か知ってるような雰囲気の人を見つけるも、英語なのかヒンドゥー語なのか、何を言ってるのかさっぱり聴き取れないのが悔しくて仕方がなかった。観光客の日本人を探した。英語が喋れれば力になってくれるかもしれないという思いを込めて探した。いた!と思っても韓国人や中国人だったり、ようやく見つけた日本人も英語が全然出来ない人だったりして、失踪した友人を探していると伝えればドン引きされ、ただ途方に暮れるしかなく、夕焼けに照らされたタージマハルを体育座りで見つめるしか無かった。
タージマハルは諦めてデリーの繁華街で聞き取りをした。日本語が一切聞こえない環境にいて数日、少し感覚が麻痺してきたこともあり、奥まったところにも入って怪しい兄ちゃんにも声を掛けてみた。ところがほとんどこちらの話は聞かずだいたいがハシシいるか?とか薬はなんでもあるぞとか、そういう類の話ばかりだった。幸いしたのは、ほとんど自分より背格好が小さくて、万が一喧嘩になっても負けることは無いと思えたことだけだった。ソイツならココにも来たことがあると言った40歳くらいのおっさんがいて、嬉々として中に入って話を聞こうとすると、奥には190cmくらいの明らかにインド人じゃない男が3人いてニヤニヤ笑っていて、その時だけは一目散に逃げた。インド人ウソつかない、という格言はウソだと思いながら、疲れた足を引きずってホテルに帰る日が続いた。

帰国日の前の日に、何のあても無くガンジス川の沐浴出来るところに来た。沐浴する現地人には英語さえ通じず、もう9割、ほぼ10割諦めて川のほとりに腰掛けた。もう何もかもがどうでも良くなった。川に入ってみた。普通に考えればむちゃくちゃ不衛生で病気のリスクがあるにもかかわらず、何とも思わなかったし幸いにも体調は崩さなかった。明日帰るという日にようやく私はインドに溶け込んだ。
川に入ってサンセットを見ながら、ガミくんはこの広いインドのどこかで生きていると思った。この国は人の思考をあらゆる側面からストップさせる不思議な力がある。ただボーッとしてしまうのだ。日本という狭い国では測れない何かがあって、みんなそれに取り憑かれてしまうのだと。ガミくんはきっとココでビルマの竪琴の中井貴一みたいに僧侶にでもなったのではないかと。はたまた、旅の途中で恋が芽生えて女と一緒に違う国へ行ってしまったのではないかと。いやいや女とは限らず私のような気の合う男と南の方を旅しているのでは、と。マークンだって友達を旅先で見つけたじゃないか。
その一方で、彼は私ほど頑丈じゃないからやっぱりあの怪しい類の連中に殺されてしまったのではないかとも。水嵩が増した日についつい川に入ってしまって流されてしまったのではないかと。ぶっ飛んだ思考が前に出る男だったけど、人、親を泣かせるようなヤツでは無かったから、やっぱり死んでしまっているのかと。

それらしい手掛かりが無ければ、結局、目に入ってくる物に色々な思いを巡らせ、自分の中で産まれては消化していくしかないのだ。もちろんこの時にガミくんがどこでどうしているかはわからないし、20年経った今でももちろんわからない。彼に対する思いはあの頃と何も変わらない。
私の最初の海外旅行は、旅行というより1つの区切りだった。やっぱり自分は何者でも無い単なる平凡な人間であると、事実を突きつけられたのだ。飛行機の窓から離れて行くインドの色はガンジス川と同じ茶色だった。何もかも呑み込んでしまう、恐ろしい茶色の泥沼のように見えた。

別に私じゃなくても良かったが、生きているのなら、ガミくんは日本を捨てることを誰かに伝えるべきだったと思う。何度も書くが彼は親や人が悲しむとわかっていることをするような男では無い。でも、インドには何もかもどうでも良くなる不思議な魅力があることも事実だ。インドで僧侶になるなんてとてもステキなことだし一生モンの友達や女が出来たのなら心から祝福しただろう。

会社で「前向きになろう、前を向いて生きて行こう!」というクソみたいな研修を受けさせられて、今あなたが一番したいことを思うがままに言ってみてくださいみたいな質問に、私は、もう一度インドに行ってデリーの空港を出た瞬間にパスポートをビリビリに破りハローインディアと思い切り叫びたい的なことを話したら、講師からほかの社員から全員ドン引きしたそうだ。いやいやいや、だって一番したいことだろう?一番したいことって建設的に考えた末のことじゃなくて後先考えずに衝動に駆られるまま行動に移すことじゃないのか?金や体裁なんて気にしないのが本当にやりたいことじゃないのか?連中は何を以て私にドン引きするのか?連中が言うところの青山で美味しいスイーツが食べたい、箱根に温泉に行きたい、痩せて魅力的になりたい、簡単じゃないか。食えばいい、行けばいい、身体を動かして食べなければいい、至極簡単なことだ。もしそんな簡単なことを今一番したいことと言うのなら、ソイツは一番だらけの人間だ。何が自分にとって大事で何がいらないのかが見えてないのだ。それこそMonkey Businessだ。
そうかガミくん、君は衝動の赴くままに日本を捨てたんだろう?君は真摯に自分と向き合って、本当にしたいこと、やるべきことが見つかって、誰かに伝えれば止められるのがわかっていたから一人で消えたんだ。私は消えたことが無い、消えたことが無いから消える人の気持ちはわからないけど、消えて結果的に誰かを悲しませるくらいなら、何も言わずに逃げるが勝ちなのかもな。私だってそうするかもしれないな。

なかなかインドに行く機会は訪れないが、次にインドに行く時は寺院をひたすら廻ってみようと思う。
爽やかな顔で笑う坊さんが、案外ガミくんかもしれないという淡い期待を持って。

SKID ROW/Monkey Business
https://youtu.be/2pkpsxEyi-k

男も女も、あらゆる理由で失恋する。フラれる理由はそれぞれだろう。コンプレックスをズバリ指摘されてグゥの音も出ないほど叩きのめされる理由もあれば、相手側の一方的な事情や心変わりによる理由もある。
今回書く話は、大学生時分の私が高校生の女にフラれる話だが、フラれてから日が経つに連れて更にショックが拡大してゆき、その1ヶ月後に夢遊病まで患ってしまうほど落ち込んだ話である。この理由でフラれるのは、老いぼれだろうが若かろうが、男は簡単に立ち直れない。これを読んだ淑女の皆様方は、殿方にこの言葉を言っちゃいけない。
私に一生モンの心の傷を負わせた女、ミドリちゃんの話である。

2つ前のマークンの話でも書いたように、私は高校生バンドマンの甲子園とも言われるteens music festival長崎大会で優勝、九州大会でもベストグルービング賞という、ドラマーとしてはとても名誉で有難い賞を頂いた。長崎なんて田舎だから高校生が出入りするスタジオなんて数えるしか無くて、その後ひとたび練習でスタジオに入ると、他校の男達から「ヤバかったッス!握手して下さい!」とか「半端ねぇッス!一緒に写真撮ってください!」とか、まぁそれはそれは勘違いまっしぐらな待遇だった。ただし、やっぱり集まってくるのはむさ苦しい男達ばっかりで、ッス!ッス!みたいな体育会系のノリで挨拶されまくるのが少しだけ嫌だった。バンドやってたらモテるはずじゃなかったのか。teensで優勝しても男しか寄ってこないなら、何をやったらモテるようになるのか。実績と名誉ばかりが一人歩きし、女が一切付いて来ないもどかしさに、私はそろそろボーカルか弦楽器でも始めるべきではないのかと思っていた。他のメンバーは総じて女にモテていたからである。

高校では頭が悪すぎて留年し、19になる年に迎えた高校3年生の春、いつものように学校帰りにスタジオに行くと、1人の女の子から「ああっ!」と指を差された。それがミドリちゃんである。

「あ、あの、百万石さんですよね!?」
「え?は、はい」
「teens見ました!私ミドリって言います、〇〇高の2年です、百万石さんのteensのドラム見てすっごい感動しました!弟子にしてください!」
「で、弟子?」
「はい!弟子に!」
「え?え?弟子?どういうこと?」
「私もドラムやってるんで、師匠と呼ばせてください!あのドラムはヤバい!」
「つか、なんでオレの名前知ってるの?teens見てたってオレの名前までわかんないでしょ?」
「九州大会まで見に行ったからです!パンフレットに名前乗ってました!高校生でバンド、ドラムやってる人で、百万石さんの名前知らないヤツはいません!師匠!」
「ちょ、師匠て...(笑)」

名前まで知られていることはさすがに驚いたが、オレもそこまで有名になったかと、ぶっちゃけまんざらでも無かった。第一、女の子に初めてドラムをエサに声を掛けられたのである。あぁ、ドラムやってて良かったと思えた瞬間だった。
しかし、残念ながらミドリちゃんは、甚だしいニキビっ面で、ちっとも可愛くなかった。ガリガリで小さなタレ目で、当時は宮沢りえとか観月ありさのようなスタイル抜群の目パッチリ系美女が好みだった私は、女が声掛けてきたにしても、カッコいいとか付き合ってくれとかそんなんじゃ無しに、しかもコイツかと、豆みたいなヤツだなと、すぐにドラムって楽器は本当にモテないと現実に引き戻った。
ただ、ミドリちゃんの目は真剣そのもので、「百万石さんみたいなドラムが叩けるようになりたいんです!師匠お願いします!」と本気で頭を下げてきた。その心意気たるや良し。そういうのは嫌いじゃない。

「わかった!いいよ、今から練習だけど、見ていく?」
「やった!ありがとうございます本当にありがとうございます!練習まで見せてくれるなんて!」
「まぁ、他のメンバーが良いって言ってくれたらね。オレは全然良いよ」
「ひょっとしてteensの時のバンドの練習ですか?」
「いや、ギターがもう卒業して東京の大学行っちゃったからね、今日のはオレがヘルプでやってるコピーバンドね」

teensで優勝すると、事実、上のようにむさ苦しい男達からヘルプでドラムを叩いてくれと呼ばれまくり、スタジオ代もライブにかかるお金も全部負担してもらうというバイトみたいなことをやっていた。スタジオに行かない日は無く、だから私も日に日にドラムが上達していた。その練習を見せてあげた。

休憩時間に、ミドリちゃんにドラムをやらせてみた。8ビートは何とか叩けるというレベルで、やはりガリガリの身体が災いしてか、スネア(メインとなる太鼓)に全く響きが無かった。心意気とは裏腹の、か細いドラムだった。
んんんんと思わず渋い顔になったのを覚えている。どこから教えていこうかと、弟子なんか持ったことの無い私は、どうやったらこの子が上手になるのか、その日から真剣に考え始めることとなる。

ミドリちゃんには私がスタジオに入るときはいつでも見に来ていいということにし、まずは私のドラムを盗みなさいと伝えた。盗むとは人聞きが悪いが、技術を盗まれてもお金や物を取られるわけでは無い。熟達した人から何かを学ぶには、まずはその人を真似をすることからだと今でも思っている。何にしても、だ。真似が出来てから、その人に肩を並べてから、それからオリジナリティを出せばいい。それでこそ、初めて目標とする人を超えられるのだ。

週一でミドリちゃんと一緒にスタジオに入り、実際にドラムを鳴らしてのレッスンも始めた。とりあえず、芯のある響きがいい8ビートだけをまずは叩けるようになってほしいと、オカズ(ブレイク)無しのひたすら地味な練習を課した。スネアは力じゃなくてスティックを振るスピードで鳴らすもの、ベードラは足で踏むんじゃなくて丹田(ヘソの下あたりのこと)で踏む、いわゆる丹田を地面に落とすように身体全体で踏むイメージを持つことをひたすら覚えさせた。

すると彼女は、数ヶ月もすると、見事な8ビートを刻めるようになった。スネアの抜けるような気持ちいい音がスタジオでガンガン響いた。オカズも少しずつ入れて、とても華奢な女の子が鳴らすドラムとは思えないところまで来た。ミドリちゃんは確実に上手くなっていた。案外、自分は人に教える才能があるんじゃないかと、弟子を育てるのはこんなに気持ちのいいものかと、ちょっと違った快感を味わっていた。

ここまで出来るようになったら、そろそろ自分が叩きたいと思うものを叩こうということで、彼女に何がやりたいかを聞いた。

「これ、めっちゃカッコいいんです!知ってますか?シアターブルック!」
「シアターブルック?いやー、知らん」
「コレはマジですよ、この曲です!」

今ではほとんど見なくなったポータブルプレーヤーに刺さったイヤホンを渡されて初めて聴いたのが、シアターブルックの「ありったけの愛」だった。
この曲、シアターブルックの代表曲でもある。彼らのライブでは必ずと言っていいほど演奏される曲で、20年以上前にこれを描き上げたシアターブルックの実力とパフォーマンスは、言うまでもなく聴く人の身体を動かす。

聴き終えた瞬間、鳥肌が止まらなかった。流れるようなグルーヴ感に、佐藤タイジのセクシーな声とガットギターが絶妙にマッチングした、高校生にはハードルの高い一曲だった。

「....ヤバいなこれ」
「でしょ!でしょ!?師匠ならわかってくれると思いました!」
「....これ完璧にやったら......、確かにカッコいい」
「そう!コレが叩けるようになりたいんです!」

師匠と呼ばれて数ヶ月、妙なプライドが産まれてしまった私は、僕も叩けるようになりたいです!とは言えなかった。この曲を教えるには自分も叩けなきゃダメだと。そして、この曲をさらっと持ってくるミドリちゃんへの見方が変わった。相当なセンスをしている。今でも変わらないが、私は、センスの良い女、才能に満ち溢れたポテンシャルが高い女に滅法弱い。ミドリちゃんは相変わらずタレ目でニキビっ面だったが、私は彼女に対して少しだけ女を意識するようになった。弟子であるにもかかわらず。

私も隠れてこのありったけの愛をコピーし、ミドリちゃんに細かい部分まで教え込んだ。もちろん本家には程遠い出来だったが、人前に出せるレベルにはなっていた。
いよいよミドリちゃん、ありったけの愛をライブでやる、と言ってきた。彼女はイエローモンキーのコピーバンドをやっており、そのバンドでこの曲をセットリストに無理やりねじ込んだらしい。
ミドリちゃんにとっては、自分の学校の学園祭でしかライブをやったことがなく、ライブハウスでやるのは初めてだと言う。弟子の晴れ舞台、見に行かないわけにはいかない。ある意味、自分のライブより緊張した。

他のメンバーはともかく、ミドリちゃんはイエモンの曲もこの曲もしっかりこなした。ライブだから心拍数が上がり、多少BPMが上がるのはしょうがないけれど、それを差し引いても、非常に良い出来だった。あのドラムの子すごい!と客側にいた女の子達も騒いでいた。自分が手塩にかけて育てた弟子が褒められるという気分を19歳にして味わった私は、感慨に浸り溢れる涙を抑えきれなかった、というのはもちろんウソで、「あの子にドラム教えたの僕よ僕!褒めて!僕のことも褒めて!」と言うのをむちゃくちゃ我慢していた。

「師匠!やりきりました!けっこうミスったけど気持ち良かったです!」
「いや、冗談抜きで良い出来だった。みんなザワついてたよ、お前のドラム。あれだけやれれば充分だと思うよ」

的なことを話していると、ミドリちゃんのバンドのボーカルが声を掛けてきた。

「あ、リョウジさんですよね?どーもー、teens見ましたよー」
「あ、師匠!彼氏です!私の!」
「〇〇って言いますー、今日はありがとうございました、コイツがいつも教えてくれてるってんで、リョウジさんのこと、オレ、けっこう知ってるんすよー」
「はは、あぁ、どうも」

甘いマスクの、いけ好かないお兄ちゃんだった。当然名前も覚えていない。
ミドリちゃんに彼氏がいることを初めて知り、私は少なからず心が曇った。なんだ、豆みたいなヤツにしては、こんなイケメンの彼氏がいるのか、まぁ別にコイツは弟子だし、彼氏がいようがいまいが、オレには関係の無いことだ、と自分に言い聞かせた。

それからも弟子と師匠の関係は、私が高校を卒業するまで続いた。私にもようやく、友人の紹介で、なぜか23歳の歳上の彼女が出来ていた。ミドリちゃんに対して妙な恋心みたいなものは産まれなくなった。純粋に、コイツを良いドラマーにしてやりたいと、当時の私が持つ全てを彼女に注ぎ込んだ。私が長崎を出て久留米に行く頃には、彼女はほぼ私と変わらない実力のドラマーになり、方々から一目置かれる存在になった。

大学1年の頃、長崎に帰省する際には、ミドリちゃんのライブを観に行ったりもした。彼女は3つのバンドを掛け持ちするまでになっていた。ミドリちゃんはそこそこ頭の良い高校に通っており、しかも学年で常にトップ3に入るという才女だった。東大は無理だが、一橋くらいには行けそうと本人が言っていた。受験生という立場にも関わらず、彼女は相変わらずメキメキと力を付けていた。
その冬、彼女は、自分のバンドで、ありったけの愛のコピーでteensに出るという。ちょうど私はその頃、23歳の歳上の彼女と長崎と久留米という微妙な遠距離恋愛に終止符を打った頃だった。当然誰でも良かったとは言わないが、男たるもの現金なもので、別れた後はすぐにミドリちゃんの顔が浮かんだ。絶対優勝します!師匠みたいになります!と電話で息巻くミドリちゃんに、私は長崎に一時帰省し、teensの晴れ舞台を観に行く約束をした。

久しぶりにあった彼女は、「うっとうしくて嫌だから」という理由だけで、なんと頭を坊主にしていた。しかも高校球児並のガチ坊主。でも、全体的に妙な色気が出て来ていて、タイトなベルボトムのジーンズから見えるヘソがめちゃくちゃ色っぽかった。ニキビっ面も、細いタレ目も、坊主頭も霞むほどに、すごくいい女だと思ってしまった。

彼女はありったけの愛を、自身のオリジナリティをふんだんに盛り込んで完璧にやり切った。バンドの音のバランスも決して悪くなかった。彼女は本当に本当にうまくなっていた。これはひょっとするとひょっとしてしまうかもしれないと、私も結果発表の時は心臓がバクバクだった。
しかし、彼女のバンドは優勝出来なかった。優勝どころか、何の賞にも引っかからなかった。アカペラのオリジナルをやった5人組に優勝を掻っ攫われた。コピー曲だとよほど突き抜けていないと評価されない。この曲にも、彼女のバンドにも罪は無い。本来、勝ち負けの無い音楽の世界で、それでも優劣を付けなければならないのだから、結果を受け止める側としては、残酷になることがほとんどなのだ。

肩を落とす彼女をマクドナルドに連れ出して、話をすることにした。もう心は決まっていた。長い間の師弟関係に終止符を打とうと。私のドラムに惚れて弟子になったのであれば、私自身にも惚れて、私の女になってもいいじゃないかと。彼女にきちんと告白をしようと。
とりあえず残念だったけど、別にこれが全てじゃないし、一橋に行けばもっといいバンドが組める、どこに行ってもお前なら色んなバンドから引く手数多の待遇を受けるだろうと慰めた。
ズズズーっとコーラをストローで飲み干して、本題に入る。

「あのさ」
「はい」
「オレもう明日帰っちゃうんだけどさ、福岡に」
「うん、はい」
「付き合ってよ、オレと」
「え....?」
「遠距離つってもさ、久留米と長崎なんて、案外近いし、オレが長崎に来るし」
「.....」
「もういいじゃん、師匠とか弟子とか。もはやお前、オレより上手いかもしれん」
「.....」
「なんつーかもう、そういう目でしか見れなくなっちゃったんだよね、頭から離れんつーか、一緒にいたいとか、そういう感情がどうしても....」

とまだ私が喋ってる途中に、お前が東京に行っても金貯めて遊びに行くからこれからもドラムを通じた素敵な愛を一緒に育んでいって欲しいぜ的なキメのセリフを吐こうとした途中に、

「それはムーリー!」
「えっ!?」
「いやムーリー!無理」
「ええっ!?」
「すんません師匠!それは無理!ごめんなさい!」
「....ああ、そう...」
「無理、ごめんなさい」
「....アイツとまだ付き合ってんの?あのイエモンのコピーのボーカルと」
「いや、アイツとはもう別れました!ってか、そうじゃないんです!」
「え、何、何がそうじゃないのよ」
「あのね師匠、師匠って、」
「は、はい、」

「セックス下手そうだし!」

「ええっ!?」
「なんか力任せにガツガツ来そうで、合わなそう!」
「.....ええ......?」
「ごめんなさいだから無理!」
「.....そんなんやってみなきゃわからんじゃん!!」
「間に合ってます!」
「間に合ってるって?彼氏いるってこと?」
「いるにはいます、でも、いたって別に抱かれたいと思ったらセックスしてもいいんだけど、師匠はぶっちゃけ無理!」
「.....彼氏誰よ」
「え何?聞こえない」

ショックで声が小さかったらしい。

「いやだから彼氏誰よ!?」
「新聞記者!35歳!」
「し、新聞記者!?さ、ささ、さ、35歳!?」
「そう、セックス超上手いよ!」

期間は短い片想いだったが、散り方は自分の中ではなかなかのインパクトだ。
相手は35歳でセックスが上手いらしい。もうそれだけで充分な敗因だ。35歳新聞記者が女子高生を垂らし込む、それこそ新聞沙汰じゃないか。イリーガルな甘美の関係に私は屈したのだ。
しかし腑に落ちないのは、お前はセックスが力任せにガツガツ来そうで下手そう、というフレーズだ。下手かどうかは手合わせした相手が決めることだ。でも、力任せ、というのはあながち間違いでは無い気が少しだけしてしまって、次の一声が出なかった。
たじろいだ。彼女の鋭さに。なぜわかる。抱かれてもいないのにオレのセックスがなぜわかる。確かに当時の私は、セックスの教科書と言えばアダルトビデオで、女優さんがガンガン攻められて絶叫して昇天するのを見るのがたまらなく好きという、若かりしゴリラの教科書通りの性癖だった。それをいとも簡単にイメージだけで言い当てたのだから、裸になるよりよっぽど恥ずかしくて情けなくて、しかも新聞記者とか35歳セックス超上手いとかのフレーズが頭にグサグサ刺さってきて、しばし呆然とし、マクドナルドのポテトはすっかり冷め切ってしまった。
後にも先にも、ミドリちゃんが私に敬語で話さなかったのは、このフラれた時だけである。

その数ヶ月後、ミドリちゃんが受験に失敗したという話を伝え聞いた。一橋どころか、滑り止めの慶応も法政も後期のお茶の水も全部落ちたらしい。やはり親は大激怒で、それこそ両親と取っ組み合いの喧嘩までになり、彼女は浪人をすることもなく、高卒として東京に出てしまったのだそうだ。

私が大学4年の頃、携帯に非通知で着信が来た。今ほど非通知を訝しがることも無かったので電話に出てみると、あなたは誰ですか?的な女の声がした。

「いや、誰ですかてあなたこそどちらさんですか?かけてきたほうが名乗るのが普通でしょ?非通知だし」
「まぁその、携帯おかしくなっちゃって、登録してた人が全部番号で表示されるんです、なので、一個一個電話して聞いてるんですけど....」

声でなんとなくピンと来た。ミドリちゃんだと。

「お前、ミドリだろ?覚えてっか?師匠だよお前の!」
「!!!百万石さん!?百万石さんですか!?」
「おう久しぶり、元気にしてるか?今どこに住んでるの?東京?」
「そう東京!百万石さんは福岡ですか?」
「うんそうよ。相変わらずドラムやってるよ」
「すごい!良かったです!」
「お前どうしてんの今、東京でやってんの?」
「あの、また必ずゆっくり電話します!とりあえず今はどの番号が誰か急いで確かめないといけないので!」
「わかった、必ずな」

それからミドリちゃんから電話は無かった。彼女がまだドラムを叩いているか、今でもシアターブルックを聴いているかどうかもわからないままだ。
シアターブルックのライブには何度も足を運んだし、そのライブ会場にミドリちゃんがいるんじゃないかと、ちょっとネジが外れかけたような小さくて華奢な女を見ると顔を見てしまったりもした。今でもこの曲を聴くと彼女のことを少なからず思い出す。私もコピーバンドで何度もこの曲を叩いた。終ぞ、私のありったけの愛を彼女に見てもらうことは出来なかった。

彼女もずいぶん良い歳になっている。さすがに坊主頭では無いだろうが、結婚してようがしてまいが、一本筋の通った彼女のようなタイプには、どうあれ幸せな人生を歩んで欲しい。
一度惚れた女には、どんな最悪な別れ方だったり、一方的なフラれ方だったとしても、今この時は幸せであってほしいと願うのが、男の悲しい性なのだ。


ミドリよ、元気でやってるか、おい?
オレはなるはずが無いと思っていたサラリーマンやってるぜ。

theatre brook/ありったけの愛


今回書く話は、私の高校生時分の頃のエピソードだが、実は20代のころにバンドのHPのブログに記載した記憶がある。 当然ながらアカウントはもう残っていないが。
高校生からは20年以上、そのバンドのHPのブログに記載してから15年以上が経ち、さすがに記憶も随分おぼろげになってきているが、思い出せるだけ殴り書きしようと思う。 
ある意味私のドラムスタイルの道筋を立ててくれた、イイチロウさんというお兄さんの話だ。 

私が生まれ育った長崎市では、今でも路面電車が市民の足としてバリバリ動いている。 
思案橋という名前の電停があり、そこから繁華街とは逆の方向に向かって歩くと、ちょっと小洒落た雰囲気のレンガ調のタイルが敷き詰められた街があり、その街の裏路地に小さな古着屋があった。 

当時の私はドラムを始めて3年くらいで、同じ世代のバンドをやる高校生からドラムが上手いとチヤホヤされている時期だった。 今思えば、高校生の学園祭の域を抜けない程度のレベルだ。井の中の蛙の典型である。
チヤホヤしてくれるのは男臭い野郎ばっかりで、女にはモテず、古着屋の洋服を着こなせるほどの器量も無かった。すげぇデブだったし。 

そんな百貫デブの私がなぜその古着屋が目に留まったかというと、ショーウィンドウに、桃の缶詰の空き缶だけで作った小さなドラムのミニチュア(シンバルは缶詰の蓋)が飾ってあって、面白いと思いながら眺めていると、中からテンガロンハットを被ったお兄さんが出てきて、わざわざ声をかけてくれた。それがイイチロウさんである。 
当時はお互い甚だしい長崎弁で喋っていたが、そのまま書き起こすと絶対に読めないと思うので、とりあえず標準語で書く。 

「これ、面白いでしょ?オレが作ったんだ」 
「あ、はい、ですね、割箸だったら本当に叩けるみたいです」 
「そうそう、割箸とか鉛筆でやったら良い音するんだよ」 
「はは、本当に叩いたんですか」 
「お兄ちゃん、ドラムをしてるの?」 
「はい、大好きです。バンド3つやってます」 
「へーすごいね。どんなのをやってる?ジャンルは?」 
「ガンズ(Guns N' Roses)とかのハードロックです。ああいうのが好きなんで」 
「ガンズのドラマーだったら、スティーブンアドラーとマットソーラム、どっちが好き?」 
「えーと、ガンズのYou Could be Mineが一番ハマったきっかけだったので、マットのほうですね」
「そうか、オレ達の世代はさ、がっつりスティーブンのほうなんだよ。あいつちょっとキチガイだよね」 
「ははは、薬で捕まったか何かでしたよね。お兄さんもドラムをしてるんですか?」 
「うん、下手くそでさ、全然うまくならない。でもさ、やってたら面白いよね、ドラム」

そんなやり取りがイイチロウさんとの出会いだった。 
桃の缶詰の空き缶だけでドラムのミニチュアを作っちゃうような人だから、もちろんその人がドラムが好きなことだけはわかった。 
俄然その古着屋は営業中だったが、イイチロウさんはそのショーウィンドウの前にうんこ座りし、どこぞの少年とドラムの話を15分くらいしてくれたのである。単純に、どのバンドのドラムは好きか嫌いか、という話だけで。 
当時のイイチロウさんは、25歳前後だったと記憶している。 25歳は嘘だったのかと思えるくらい、顔にいい感じにシワが入っていて、テンガロンハットが少しも嫌味が無くガッツリ似合っていて、むちゃくちゃ渋いお兄さんだった。 

ひとしきり話を終えると、 
「ねぇ、あのさ」と、店の中に向かって「今度のチケット持ってきてー」とイイチロウさんが声をかけた。 
中からは、美人では無いけど、どこか影のあるような、でも何となく艶っぽい、こちらはベレー帽を被ったお姉さんが出てきてくれた。 
「こいつもさ、一緒にバンドしてるんだ。土曜日ライブするから、見にきなよ。夜だけど来れる?」 
「えー!いいんですか?タダでくれるんですか?」 
「いいよいいよ、そのかわり中に入るときに、1ドリンク頼まないといけないから、それだけ払ってくれればいいよ」 
お姉さんが笑いながら、「高校生でしょ?お酒頼んだらダメよー」とオレに釘を刺した。 
「大丈夫です、オレ酒飲めないから。コーラでべろんべろんに酔っ払えるんです」 
イイチロウさんもお姉さんも、ケタケタ笑っていた。 

その週末の寒い冬の夜に、息子が夜中に出歩くことを苦々しい顔で文句を言う母親を颯爽とかわしながら私は街へ走る。
古着屋のお兄さんやお姉さん達がやるライブなんて間違いなくお洒落な大人ばかりが集まるので、自分も出来る限りのお洒落をしなければならないという妙な脅迫観念に囚われ、結局、父親が持っていた渋いバーバリーのマフラーをぐるぐるに首に巻いての参戦である。 
お洒落とは値段では無い。高校生にバーバリーは似合わない。とんだ履き違えならぬ巻き違えである。 

チケットに書かれた場所に着くと、そこはライブハウスではなく、10席くらいのバーカウンターと形が全部バラバラのテーブルが6つくらい置いてあるレストランバーみたいなところで、 奥がちょっとした小上がりになっており、そこがステージになっていた。 
当然そういう店に足を運んだことがあるはずもなく、薄暗い店内にはそれこそ当時イケてるお兄さんお姉さん方が酒を片手に談笑していて、完全な場違い感を頭のてっぺんからつま先まで味わう。百貫デブの高校生が来るところでは無い。間違い無く。 
それでも、宣言どおり混じりっ気無しの本物のコーラを片手に、とにかく目立たない場所、でも、イイチロウさんのドラムは見えるところを何とか確保した。 

やがてステージがパッと明るくなり、ライブが始まった。 
小上がりに上がったイイチロウさんとお姉さんは、こないだ古着屋で合った時とはまた別のお洒落な衣装だった。 

ステージで音が鳴るまで、私は結局、 
イイチロウさんが本来はどんなジャンルのドラムをたたくのか、そして本当のところは、ドラムがうまいのか下手なのか、半信半疑だった。 
なんでもそうだが、自分で自分のことを下手だと謙遜する人に限ってだいたい上手い。おそらく上手い人なんだろう。でも、どのレベルで上手いのかが全く見当がつかなかった。 
本当にアホみたいな話だが、その時の私は妙な自信があった。私にとっては、長崎という田舎の狭い狭い小さな高校生バンドのコミュニティの中が「プロを除いた全世界」だった。自分より上手いドラマーなんてほんの一握りしかいないと本気で思っていた時だ。
アマチュアの大人のドラムをマジマジと見たことはなかったし、これでイイチロウさんが全然大したことなかったら、場違いだし、コーラを一気に流し込んですぐに帰ろうと思っていた。 


のちに思い返せばそのライブの最初の3曲は、キザイアジョーンズのコピーだった。 
キザイアジョーンズと言えばその時代は、ブルースとファンクを融合させて、聞く人の身体を自然とユラユラ動かす新進気鋭の若手実力派ミュージシャンみたいな存在。 
その頃に、キザイアジョーンズの曲を事もなげにかつかっこよく演奏するのだから、イイチロウさんのバンドは間違い無く実力があった。 
当然、私はキザイアジョーンズなんて知らなかった。聴いたことも、人が演奏するところを見たことが無いファンクというジャンルの音楽に、最初っから私は頭を持っていかれた。 

なんだこれ。 
すげぇ。かっこいい。この人たち、マジもんだ。 
場違いな場所に場違いな高校生がたたずむバーの隅っこで、私は、その場繕いの腕組みをほどき、 熱くなっていく身体に邪魔なバーバリーのマフラーをほどいた。 
人間、本当に驚くと腕なんか組んでいる余裕は無いのだ。 

3曲立て続けにキザイアジョーンズのコピーを演奏し終えたところでMCが入り、 ボーカルの人が声をあげた。 
「今度はこの人が歌いまーす!」 
うぇーい! 
「みんな大好き紅一点、コーラスのハルちゃんが、メインで歌っちゃいまーす!」 
うぇーい!
「歌詞がややうろ覚えらしいので、詰まったらみんな笑ってやってくださーい!」 
うぇーい! 
的なやり取りがあり、私はその時初めてお姉さんがハルちゃんという名前だと知る。 

イイチロウさんの8ビートに乗せて、のっけから力のある声でハルさんが歌い始めたのが、 UAの情熱だった。 
この曲を知る人なら何となくわかると思うが、 普通の平たいリズムとはやや異なる、ハネる(跳ねる)感じのグルーヴが独特な曲である。 
ベードラ(足で踏んで鳴らすセットの中では一番口径が大きい太鼓)を踏む感覚が、 これまでに私が聴いたり演奏したりするドラムとは絶妙な違いだった。 
私が知る小さな小さな世界の中では、ハネるという感覚を知らないので、どうやってその音が鳴っているのか、 
どうやってベードラを踏んで(鳴らして)いるのか、全然わからなかった。 

それでも曲はあっという間に演奏され、私に強烈なインパクトを残して終わった。 
そして、UAの情熱の不思議な8ビートをほぼ完璧に刻むイイチロウさんの実力に、心から平伏した。 
この人はガチだ、と。 

ライブが終わった後、魔法でも解けたように急に私は自分の場違い感を全身に再び感じたので、イイチロウさんに話しかけることさえせずに、また走って家に帰った。 
なんなんだあの人たち、何なんだイイチロウさん、そして、あの、ハルさんが歌っていた曲は、誰の何という曲で、あのドラムはどうやって叩くんだ。 
私の頭には、音と、かっこいい大人たちのパフォーマンスが、鮮明な映像で駆け巡っていた。 
走って走って血が全身を駆け巡る中に、さっきまで聞いて見た音や出来事が染み渡っていった。バーバリーのマフラーはそのレストランバーに忘れてきた。 

翌日の昼に、古着屋にカチコミでもかけるかのように、私はイイチロウさんに詰め寄った。兄さんあんた何者だ!と。 
「そんなに大げさじゃないよ、自分では全然まだまだだと思ってる」 
自分より下の少年からそんなテンションで詰め寄られたからか、若干ドヤ感が入った顔で、 イイチロウさんはゆっくりとドラムについて色々と話をしてくれた。 
そして、肝心なことを聞かなければならない。

「あの4曲目、ハルさんが歌っていた曲、あれ、あれは何なんですか?誰の曲なんですか?」 
「あー、えー、あん、えーと、あれ、誰だっけ、んーと・・・・確か、ユーエー」 
「ユーエー?」 
「そうそうそう、アルファベットのUとAで、ユーエー」 
「へええええ、そんな人がいるんですね、知らなかったです」 
「うん、オレも本当のところ、よく知らない」 
「曲名は?」 
「あーごめんわかんないははは」 

「ユーエーじゃなくて、ウーアよ」 
ハルさんがニヤニヤしながら割り込んできた。 

「ウーアの情熱という曲。最近の人。大阪の人」 
「わかんねぇよ、UとAでウーアって読むかね普通」 
「ユーエーでもウーアでもどっちでもいいです、あれ、どうやって叩いてるんですか?」 
「えー?どうやってってそりゃ、勢いよ勢い。気合と根性ね」 
「あんたなんでもかんでも全部勢いって言うじゃん、ちゃんと教えてあげなよ(笑)」 
そこで初めて私はイイチロウさんから、「ハネる」というグルーヴを学ぶ。 

それから1週間くらい、学校帰りにスティックを持ち込んで古着屋に通い詰めた。 
結局、私はその古着屋に一銭も金を落としていない。 
それでも、奥のレジの隣りに2つ椅子を持ってきてくれて、イイチロウさんはシャドー(エアドラム)でハネるグルーヴを教えてくれた。 
営業中にも関わらず、嫌な顔一つせず丁寧に教えてくれた。 
ハルさんは、情熱の音源をカセットテープに落としてプレゼントしてくれた。 
そもそも私が長年敬愛するUAとの最初の出会いは、イイチロウさんとハルさんからもたらせれたものだ。 
あの時、案外論理的で一つ一つ細かく区切って教えてくれるイイチロウさんには、今でも感謝しかない。 
イイチロウさんの勢いや気合と根性は、言葉とは裏腹に、とてもきめ細やかで優しかった。 

あらかたシャドーで感覚を掴んだ私は、小遣い銭全てを投げ打って毎日1人でスタジオに入り、UAの情熱のビートをとにかく刻みまくった。 
初めて手に豆じゃなくて「血豆」が出来たのもその時で、ドラム用に履いていた靴はボロボロになった。 

2週間くらい経って、やっとそれなりのカタチのドラムになった。 
オカズ(ブレイク)の部分はともかく、8ビートはほぼ音源通りにコピー出来た。 
自分のドラムをスタジオで録音したカセットテープを持って、 私は古着屋へと走った。 

「あ、ハルさんこんちわ!!あら、イイチロウさんは今日はお休みですか?」 
その時のハルさんの顔は忘れられない。 
生気が無いとはまさにあの顔で、あんな顔した人が古着屋の店員をやってはダメだろうというような、今にもいなくなりそうな顔をしていた。 

ここは長崎弁で書く。 

「あのね、おらんくなったとよ。5日前に。家ば出ていったとさ」 
「はぁぁぁぁ!?」 
「・・・・」 
「・・・・えぇ・・・・?どうして・・・・?」 
「・・・・」 
「どこに行ったかわかっとっとですか?」 
「・・・・、たぶん、東京」 
「東京!?」 

聞くと、 
イイチロウさんは、2日連続で古着屋を無断欠勤し、アパートに電話しても繋がらず、さすがにおかしいと思った古着屋のオーナーがアパートに赴き、人が住んでいる気配が無いことを知り、アパートの不動産屋を訪ねてみると、 すでに引き払って出ていってしまった後だったそうだ。 
当然、当時は携帯電話なんて一部の金持ちしか持てなかったので、連絡を取る術がなく、行方知らずになってしまったらしい。 
どうもこれは計画的だったようで、イイチロウさんは堂々と不動産屋に退去手続きをしてから引っ越していた。 
手続きな退去日から1ヶ月前だとすると、私が桃の缶詰で出来たミニチュアドラムを目にしていた時にはもう、 
イイチロウさんはすでに長崎を出る決心をしていたということになる。 

「ずっと、こんまんまじゃだめ、前に進まんばだめ、って、本人は言いよったとさ・・・」 
「はぁ・・・」 
「東京に行かんばだめ、長崎におっても、どげんもならんって」 
「まぁ・・・そげんもんですかね・・・」 
「言い出したら聞かん性格やったけんがさ、どげんしようも無かたいね・・・・」 

生返事しか出来ない私は、ハルさんが、イイチロウさんと付き合っていたか、好きだったか、どちらかであることはわかった。 
男に置いてけぼりにされた女の目というのはこんなにも寂しげで切ないもので、あんなにパワフルな声で歌うハルさんのその時の声は無機質な小さな音でしかなくて、クソガキなりに身につまされる思いだった。長い沈黙に耐え切れず、とても残念ですとだけ言って、私は古着屋を出た。 

もちろんその後、イイチロウさんには会っていない。 
もし著名なドラマーになっていれば耳に入るはずだが、 
今でもそういう話は聞かない。どこかで、ひょっとしたら東京というこの街で、今でもドラムを叩いていらっしゃるのだろうか。 
少しでも、音楽に関わっているのだろうか。  
私は、自分の記憶の映像に残っているイイチロウさんを、最後まで超えることは出来なかった。

大学3回生の時実家に帰省した際に、ハルさんと最後の会話をして以来、初めてその古着屋に行ってみたが、違う店に変わってしまっていた。 
行ってみた理由は、ちょうどその時大学の軽音サークルで組んでいたバンドで情熱をコピーしていたからだ。サークルのバンドなんて遊びみたいなもんだ。でもこの曲だけは、他のメンバーに、とかくクオリティを求めた。 
あの寒い冬の夜の、イイチロウさんとハルさんのバンドに、少しでも近づくために。 

街中でいきなり思うがままに歌いだすと職務質問を食らいかねないので、 
出来るだけ低い声、そして小さな声で、 
とぼとぼ歩きながら、レンガ調の路地に向かって、歌う。 


きっと涙は 音も無く 流れるけれど 赤裸々に 
頬を濡らし 心まで 溶かし始める 
壊れるくらい 抱きしめて ほしかったけど  
せつなさに さらわれて 冗談が やけに虚しい 


私にとって大事な、思い出深い歌だが、 
これはそれ以上に、とてつもなく、イイチロウさんとハルさん、二人の歌である。 

UA/情熱