遠いところに行ってしまって疎遠になったとか、携帯が変わってしまって連絡が取れなくなったとか、残念ながら亡くなってしまったとか、生きていれば誰しもあることだ。でも「海外で失踪した」というのはなかなか無いと思う。今回書く話は、私が通っていた高校の同級生ガミくんの話である。先に書いておくが、彼は、異国の地で忽然と姿を消してしまった。

長崎どころか、九州でもそこそこ名の知れた中高一貫の進学校に通っていた私は、中学2年生の夏休みくらいまでは辛うじて勉強について行けていたものの、そのあとからは真っ逆さまに落ちこぼれていった。何となく受けてみようと思って受かってしまったのが運の尽きで、九州はもちろん、西日本全域から神童と呼ばれる少年達ばかりが集まるその学校では、少々頭が良いくらいでは気を抜けばあっという間に置いていかれる。なんせ、授業で黒板の映像が記憶として脳に残るのでノートを取るくらいなら先生の話を聞いていた方がいいとか、日直日誌をフランス語で書いてみたりとか、そういうヤツばかり集まるところだ。何のアドバンテージも無いごく平凡なデブだった私は、中学の3年間をひたすら教師からの罵倒と成績最下位を争う屈辱に耐え続け、高校に上がった瞬間にドラムと出会い、何とか自分の居場所を確立する。私とほぼ同時にドラムを始めたのが、ガミくんだ。

ガミくんはナチュラルな茶髪と低い身長が印象的で、私のようにバカでは無く勉強が出来て人当たりが良いので、みんなの人気者だった。中学の時は1年と3年で同じクラスになり、頭の悪い私をバカにすることなく、分け隔て無く接してくれた。
本格的に親友となったのは高校に上がる時で、彼はバスケ部を辞め、私は剣道部を辞め、ほぼ同じタイミングでドラムをお互い始めたことがきっかけだった。進学校のくせに隠れてバンドをやる先輩達が非常に多く、学校内にもいくつかバンドがあったが、ライブをやる4日前に2つのバンドのドラマーが足首を捻挫するという悪い奇跡が起きた。そこでなぜか、私とガミくんに白羽の矢が立ったのである。私はデブだったからなんとなくドラムに向いてそうという、デブはキャッチャー的なイメージだけであてがわれた感があったが、ガミくんがなぜドラムに誘われたかはよくわからない。なぜか同じタイミングで音楽室のドラムセットの前にいた、という感じだ。
私はブルーハーツのコピーバンド、彼はBOΦWYのコピーバンドにあてがわれた。

案外、私も彼もごくごく初歩的な8ビートはその日のうちに叩けるようになった。あとは適当に他のタム(ブレイク・オカズに使うスネア以外の太鼓)とシンバルをそれっぽく叩けと足を怪我した先輩ドラマーに言われ、2人ともライブまでの残り3日間を、休み時間の音楽室で、家で、ひたすら練習しまくった。 
1日、2日と経つにつれて、二人ともなんとかカタチになってきた。今思えば他の先輩たちもみんなレベルは低く、2~3日の付け焼刃であっても、ライブ当日にみんなが騒げればそれでいいというレベルだ。 
8ビートのレベルは私もガミくんも大して変わらなかったが、オカズはガミくんのほうが私よりバリエーションが多く、彼はそのコツを私に教えてくれた。勉強がよく出来る彼の教え方はすごくわかりやすく、やっぱり頭の良いヤツは本当に賢いんだとひどく感心した。 
「僕は体重が軽いから、ベードラ(足で踏む太鼓)の音が君の音のように重たくない」 
と、デブの私に優しさ満点の持ち上げ方でをフォローしてくれた。 

迎えたライブ当日。長崎の繁華街から少し離れた路地の地下に「China」というライブハウスがあった。ぎゅうぎゅう詰めにしても客はせいぜい50人くらいのキャパで、ステージも無く、客席と演者が全く同じ目線という、安価でお手軽なライブハウスだ。 
私のドラマーとしてのキャリアはブルーハーツの「Train-Train」と「情熱の薔薇」のコピーで始まった。バンド初心者のお手本のような選曲だ。無我夢中だった。全く覚えていない。ほぼ勢いだけでやり遂げてしまった。上手かったわけが無く当然下手だったとは思うが、それはそれは大いに盛り上がり、一緒にやった先輩や見に来てくれた同級生や先輩達から手放しで賞賛され、おまえ絶対そのままドラムやったほうが良いと褒められたことだけは覚えている。中学時代は本当に鬱屈とした日々しか過ごせなかった私が、小学生以来、ようやく明るい日が戻ってきたように感じた。 
逆にガミくんは、やるのは私と同じで2曲だったが、途中でスティックを落としてしまい演奏が止まってしまった。客からヘイヘイヘーイと煽られながらも、もう一度途中からやり直し、何とか最後までやり遂げて、これまた拍手喝采を浴びていた。 
しかし、彼はスティックを落として演奏が止まってしまったことが物凄く悔しかったらしく、いつものような笑顔が無かった。 

唯一、他の高校にもヒケを取らないコピーバンドが私たちの高校にも1個だけあり、そのバンドはSKID ROWのコピーをやっていた。バンドを齧ったことのある人ならわかるかもしれないが、SKID ROWはどのパートであってなかなか難しい。その先輩達が、私とガミくんを鍛えてくれるということで、課題曲を渡された。それが、「Monkey Business」だった。 
私とガミくんは、Monkey Businessを必死に練習した。SKID ROWの中では比較的簡単な部類に入るが、ブルーハーツやBOΦWYと比べると格段に難しくなった。二人で休み時間に音楽室に走る日々が続いた。 
その前のライブと違って、同じ曲を一緒に練習するというシチュエーションは、私とガミくんの友情を深める絶好の機会になった。 

ガミくんが私に色々と教えてくれる。 
「これって単調な8ビートなんだけど、途中のブレイクで、『リズムを切る』ところがあって、そこをきちんとやれるかどうかが重要だよね」 
とか、 
「ギターソロのところで、どうしても走っちゃう(BPMが早くなる)から、そこをどう我慢してキープするかだよね」 
とか、
「この曲自体はドラムが目立っちゃダメだと思うから、あんまり不要なオカズは入れないほうがいいよね」
だとか、まるで予備校講師のようにわかりやすく教えてくれる。物腰の柔らかさと、冷静に物事を分析してポイントを伝えてくれる彼に、トラムが同じレベルと言えども尊敬の念を抱いた。
「とにかく、もうこないだのような失敗はしたくない。君はそのままの勢いでどんどん練習したら、どんどんうまくなるような気がする」と笑って話してくれた。 
彼は、反省を活かすタイプ、いわゆる、逆境や挫折をモチベーションにするタイプで、私は褒められて伸びるタイプなのだと思う。彼はすぐに私という人間の個性を理解し、君はそのまま突っ走ればいいというアドバイスをくれたのだと今でも思っている。 

結局、私もガミくんも、ライブでMonkey Businessを演奏することは無かったが、二人一緒にそのSKID ROWのコピーバンドの練習に参加させてもらってスタジオの中で演奏した。カセットテープに録音した二人のドラムは似て非なるものだったが、二人ともちゃんと叩けるようになったとドラムが上手な先輩にお墨付きをもらい、ガミくんと私二人でおおいに喜んだ。
同じように練習し、同じ課題に一緒に取り組んだとしても、演奏して音になる段階では全然違う個性が出ることが一つの感動だった。ドラムという楽器は限りなくアナログな楽器である。二人で二人の音を聞き比べしながら、「あー、1回鳴った音は2度と同じ音になって出てくることは無いんだね」と彼がつぶやいたのが印象的だった。
ドラムというのは究極のアコースティックインストゥルメント、とても奥深い楽器なのだ。

ガミくんと私の友情はそれからも続いた。彼とはドラマーとしてのライバルであり、彼はX JAPANが大好きだったのでツインペダルのドラム、私はツインペダルはハイハットシンバルがおろそかになるのが嫌いでワンペダルのドラムを好んだ。学園祭では完全にお互いをライバル視し、テレ朝よろしく「絶対に負けられない戦いがそこにはあった」。勝った負けたというのは誰も決められないが、お互いに良さがありお互いに拙い部分があり、彼のような聡明な人としのぎを削り合うのがとても心地良かった。
3年生に上がる年、私は頭が悪すぎて留年し、彼はもちろんそのまま進級。彼は受験の年だったのでその間ドラムをやらなくなり、留年して2年生のままだった私がその間に彼を置いていく形になった。 
それでもよくお互いの家に泊まりこみ、あれやこれやと色々な話をした。その話は音楽だけにとどまらず、倫理や世界平和や日本の社会問題やサブカルチャー的な部分までに及び、むしろ2人で色んな本を読み耽ることの方が多かった。特に村上龍や落合信彦の本を二人でひたすら読み漁ったのをよく覚えている。
 
その夏、それこそ彼の家に泊まりに行った時、
「実は、○○高の××ちゃんが忘れられない」
という相談を受けた。××ちゃんはよくスタジオに顔を出すベースを弾いている子で、同じスタジオに通うよしみでガミくんも私も顔なじみになっていた。でも決して美形ではなく、むしろブサイクで、私は全くその××ちゃんが恋愛対象になることはなかった。ぶっちゃけ、どうして××ちゃん?と思った。

「えええ?××ちゃん?マジ?」 
「うん」 
「いや、なんつーか、いいと思うんだけど、××ちゃんのどの辺が好きなの?」 

ガミくんは、私の問いかけの真意を察したかのように、笑いながら答えてくれた。

「確かに××ちゃんは顔は可愛くないよ、でも、雰囲気いいじゃん、何か」
「そうかな・・・、話してておもろい子ではあるけどね、頭悪そうだけど」
「そうそう、なんかあのバカっぽいところも可愛いんだよね」
「へぇ、そんなもんかな。ガミくんには悪いけどオレは無しだわ」
「アリだったら大変じゃん(笑)」
「まぁね(笑)」
「でもさ、」

ガミくんが真剣な顔で続ける。

「たぶん××ちゃん、実は頭良いと思うよ。だってベースけっこううまいじゃん。頭悪かったらあんな短期間でうまくならないよ。んでね、バカっぽいけどベース弾く時すごく真剣じゃん。あの雰囲気と、普段のバカっぽいギャップが好き」

ギャップ萌え、というヤツなのか。その気持ちももちろんわからんでも無いし、その××ちゃんには何の罪も無いが、なんとまぁガミくんには釣り合わん子を好きになったものだと思った。

勉強もたまに教えてくれたり、それ以上にサブカルチャー的な見識を滝のように私に流してくれる彼に対し、クソガキなりに何か恩返しをしなければとずっと思っていた。その時の私とガミくんの境遇の違いは、彼は受験生であり、留年した私はまだガンガンスタジオに行ってるということだ。当時でも今でも私は妙にお節介なところがあり、ああこれは大きなお世話だったのかとしきりに反省することがある。その時の私はやっぱり、何とかガミくんのために一肌脱いで彼に恩返しをしなければと、余計な余計なお節介の虫が頭をもたげ始めていた。

程なくしたある日、スタジオで××ちゃんと鉢合わせた。見つけた瞬間に彼女の腕を掴んで、スタジオの外に連れだした。奥手の私は、好意を持つ女にはなかなかうまく物事を話したり態度に表したりするのが苦手だったが、好きでも何でもない女ならば腕を引っ張って外に連れ出すなんて造作も無かった。あの強引さを好きな女の子にもっと出せればバラ色のティーンエイジを過ごせたのではと今でも思う。
おどろく彼女に、私はまくしたてるようにガミくんの話をした。話してる間も、ガミくんなぜこの女なんだと思いながら彼がいかにお前を好きかを切々懇々と、ドラマチックなストーリー仕立てにして話した。彼女は最初呆気にとられていたが、だんだん反応が右肩上がりになり、顔色は徐々に乙女チックになっていった。

「これ、ガミくんの電話番号!」
「え?ほんとに?」
「ほんとほんと。アイツ、ガチで良いヤツだし超頭良いし、なああああんでも教えてくれるから。絶対付き合ったほうがいいって!」
「そ、そうなのかな・・・・」
「××ちゃん彼氏も好きなヤツもいないんでしょ?」
「・・・・うん、今はいない」
「じゃあいいじゃん!!とにかく電話してみてよ!!」

今は男がいない、じゃあいいじゃん、
冷静に考えれば、脳ミソ筋肉の物凄い理論である。いいわけが無い。
なーんにも見えていない私は、これでガミくんにも彼女が出来たと、すでに大団円を迎えた気持ちでいた。

それから3日ほどしてからだろうか、学校の2年生の教室がある2階のフロアに、3年生のガミくんがわざわざ下りてきて話があると連れ出された。次のお泊り会はいつにしようかとかそういう話だと思いきや、彼がライブでスティックを落として悔しがった時以上に冷たい顔で口を開いた。

「××ちゃんのこと」
「おおおお!!電話来た!?どうだった?」
「・・・・あのさ」
「うん!」
「余計なことはしないでほしい」
「え!?」

当然である。

「どうしてこんなことしたの」
「い、いい、いや、つまりその、あの・・・・」
「なんか、勝手に話が変な方向に行ってる」

その1年でその時が一番困った瞬間だった。尋常じゃ無い冷や汗をかいたのをハッキリ覚えている。取りつく島も無いという言葉は、まさにあの時の私にぴったりだ。
そのあとガミくんからどんなことを言われたか、動揺しきってほとんど覚えていない。ただ、彼独特の綺麗な言葉に直されつつも、実際はふざけんなてめぇぶっ殺す的なことを言われたと思う。

それからと言うものの、彼と私の距離は離れた。学年が違うので校内で鉢合わせることもあまり無かったが、偶然すれ違ったり見かけたりする時でも、彼は微笑みもせず、ただ、おつかれー的なテンションで去っていく。もちろん私に非があるためどうしようも無かったし、彼の怒りは相当なもので、ちょっとやそっと謝ったところで許してもらえそうになかった。


やっと雪解けを迎えたのは、彼が卒業して東京の大学へ進学し、5月くらいに電話がかかってきた時だった。
留年した私は、同い年の連中が一足先に出て行ってしまうことが何となくイヤで、彼らの卒業式は仮病を使って参加せずお別れも言えずじまいだったため、本当に××ちゃんの件でギクシャクして以来、久しぶりにガミくんと長い時間会話した。彼は新しい彼女が東京で出来て、××ちゃんのことがどうでも良くなったから私と話がしたくなったから電話したのだそうだ。
彼には卒業と進学のお祝いと、彼からは私がteensで本当に優勝してしまったことのお祝いと。また彼とこうして話が出来ることに心底ホッとし、純粋にうれしかった。
結局彼は大学に進学してもドラムをやらないままだった。軽音楽サークルも覗いてみたもののソリが合わなそうだと思い、ひたすらバイトに勤しみ金を貯めてたくさん海外旅行をする、とのことだった。

「東京は狭いけど、ある意味むちゃくちゃ広い。長崎とは全然違う」
「そりゃそうだよね、小学校の時行ったっきりだけど、ビルとか高いし電車とかスゲー走ってるもん」
「そうそう、まだどの電車がどこに行くとかあんまり覚えられないんだよね」
「バイトして金貯めてさ、どこ行こうと思ってるの?」
「うーん、まだ漠然としか決めて無いけど、とりあえずまずはアメリカかな」
「そうかアメリカか、オレだったらライブ観に行きまくるなぁ」
「まぁライブとか行くのもいいんだけど、現地の人とたくさん喋ってみたいよね、アメリカって色んな国の人がいるだろうし、日本にいる外国人とは絶対違う感性を持っていると思う」
「ガミくん英語出来るから大丈夫じゃんね」
「いや、受験英語しかやってないし。同じゼミにも留学生いるけどあんまり会話にならないよ。英語も勉強しなきゃ」
「他には?」
「アメリカ以外ってこと?うーん、そうだなぁ・・・・」

しばし沈黙の後、

「インドは行きたいね絶対」
「インド??それまたどうして?」

インドなんてカレーの国くらいのイメージしか持ってなかった私は少し驚いた。

「インドってカースト制度が基本の国だから、それこそ全く日本と違うと思うんだよね。生きて行くことの感覚がまるで違うと思うんだ。そりゃどの国も日本と違うけど、インドはかなり特殊だと思う」
「ああカーストかぁ、世界史の授業の時になんか聞いたな」
「あと、人生観変わるって言うしね」
「あーあれだ世界ふしぎ発見とかで見たことある、タージマハルとか実際見るとすげーらしいね」
「うん、圧倒されるって聞いたよ、行ったことある人に」

彼は一呼吸置いて再び言った。

「東京は狭いけど、むちゃくちゃ広い」
「うんうん」
「んで、世界は莫大に広い。僕らはまだ、何も知らない。日本がいかに小さいか、自分がいかに小さい存在か、わかんなきゃいけないんだよね」
「すげーな相変わらず」
「すごくないよ。でも、僕も君も、このまま何も知らず生きてくのは良くないんだよ。まずは外、そして敵と味方が何なのかを知らなきゃね」

重たい言葉だなと思った。ちょうど彼から借りっぱなしだった落合信彦の「日本が叩き潰される日」という本が目に入った。

その年の冬に、彼は実家に帰ってくることもなく、溜まった金でアメリカとカナダと、そしてインドに行った。その時の旅行の写真を手紙に添えて、わざわざ私に送ってくれた。
特にインドは非常に感銘を受けたと記してあった。タージマハルとガンジス川、エレファンタの石像の写真が入っていた。
すぐに彼に電話をかける。インドヤバいの連呼。彼はすっかりインドに魅せられたようだった。
ドラムも大事だけど、君も色んな経験をすべきだ、世界は本当に興味深く美しいと、相変わらず上手な言葉で語ってくれた。
ただ当時の私は、大学進学はどうあれ必ずプロのドラマーになって周りを見返してやりたいという一心だった。彼との会話は飽きることなく楽しく感じていたが、それと同じくして、百歩二百歩先を行く彼との差が、千歩、万歩と広がっていくような気がして、物凄くさびしい気持ちにもなった。私が尊敬する人は、いつだって遠いところに行き、私の知らない世界を見て、感じて、アウトプットしていく。
ドラムでお互い凌ぎを削ったあの頃が、どんどん薄くなっていくような気がした。


その数か月後、私が大学に入って間もない頃、自分の母親から信じられないような連絡が来た。
ガミくんが失踪した、と。あんた何か知らないかと。
しかも失踪したのは海外で、その国はインドであると。
万が一の希望を持って、ガミくんの母親は、私のところに何か連絡は来ていないかを尋ねてきたそうだ。

彼は4月から大学の単位のことは全く無視して、再び海外を回った。東南アジアが主な渡航先で、最後にインドで1週間過ごしたのちに帰国するというスケジュールだったようだ。
ところが帰国予定日になっても彼が日本に帰ってくることはなく事件が発覚した。
もちろんガミくんの両親はインドに赴き、大使館や警察を回ったが、インドという国は良くも悪くも非常に適当な国で、観光客がいなくなるなんて日常茶飯事なのだ。形式的な捜索開始手続きだけをし、八方ふさがりのまま帰ってきたというのだ。
「失踪」と書いたのは、死んだ証拠が無いからだ。最後に彼が形跡を残したのは、デリーのホテルでのチェックイン。それ以降、全く行方がわからなくなった。

ただ茫然とした。帰ってこないというのはさすがにマズイというか、そんなドジを踏むようなヤツでは無いはずだ。であれば、死んだか、未だにインドに残っている、ということになる。聡明な彼は、色々な思想を持っていたけどさすがに家族を悲しませるようなことは無いはずだ、と。ひたすらに、いくらなんでも死んではいないはずだと自分に言い聞かせた。

このコラムの第一話のマークンに線香をあげに行った夏、私は親に大学がある久留米に帰ると嘘をつき、実はそのまま東京に移動して、成田から一人インドに旅立った。大学時代から住所を久留米に移しており、人生で初めてのパスポートを親にバレることなく作り、バイトで貯めた金を全部投げ打って旅費にした。自身初の海外は、ガミくんが絶賛したインドだった。ひょっとしたら彼に会えるかもしれない、もちろんそういう淡い期待、淡いどころか彼の家族のためにも必ずガミくんを探してみせると、ある程度の覚悟を持っての渡航だった。
少なくとも、及ばずとも、彼の感性だとか習性というものを私なりに理解しているつもりだった。彼の両親には見えていないものが、あれだけ語り合って過ごした沢山の夜によって、私には見えるのかもしれないと思ったのだ。

英語もろくに喋れない当時の私の最初の海外が、一人でインドというのはあまりにも無謀だった。インドの歩き方的な旅行本1冊のみが頼りで、空港で両替するにも、タクシーに乗るのも、そして宿を探すのも、鬼のように苦労した。胡散臭い奴らがひたすら話しかけてくる。道路で普通に牛が横たわっている。腹が空いて入ったマクドナルドはハンバーガーのバンズが上と下で形が違う。40度をゆうに超えているであろう気温。到着して数時間で、私はそれまで経験したことの無い疲労感に襲われた。何とか1週間宿泊出来そうな宿を確保し、ベッドに横になった時、とんでもないところに来てしまったと恐怖感で一杯になり、そこそこの音量で泣いた。
ガミくんが言った通りだ。僕らはまだ何も知らない。デリーの小さなホテルで、私が持つ狭い見識など海外では何一つ役に立たないことを、まざまざと感じさせられた。

ひとしきり泥のように眠った翌日、外に出ることが恐ろしくただ部屋でじっとしていたが、食いしん坊な私は空腹に勝てず、またマクドナルドに行って腹を満たす。その時、偶然スコールのような激しい雨が降って、高い気温が少しだけ下がり、ようやく色んな情報が冷静に目に入るようになった。非現実的だ。非現実的だが、現実に今自分はインドにいて、形がバラバラなハンバーガーと濃いオレンジジュースを飲んでいる。日本人は見当たらない。英語さえほとんど聞こえてこない。自分は一体何をしているのか、いや、何をするべきかを真剣に考えた。ガミくんを探さなければ。 

ただ、本当に何の頼りも無い。彼が冬に送ってくれたタージマハルをバックに映る彼の写真のみが手掛かりで、とりあえずタージマハルまで行き、この写真を現地人に見せて「この日本人を見たことがあるか?知らないか?」を繰り返すしか無いと思った。当然、ガミくんの両親も同じことをして何の情報も得られていなかったが、それでもやらないよりは良いという気持ちだった。

遠目から見るだけでもタージマハルの雰囲気に圧倒された。実際に彼が写真に収まったと思われる位置で改めてタージマハルを見る。力強い太陽に照らされて映えるパーフェクトな白いシンメトリーに再び圧倒される。300年以上前に造られた建造物とはとても思えない。テレビや本や写真でしか見たことがない光景が眼前に広がっているという現実に、ガミくんのことは少し忘れて、妙に気分が高揚してきた。知らないことを知るのはとても気持ちが良いことを実感した。
ただしガミくん探しは一向に進展が無かった。観光客を避けて現地人ぽい人間やガイドにひたすらHave you ever seen this Japanese? He was missing in Delhi.と暗記したフレーズで聞きまくるも、知らねえよというようなネガティブな英語は聴き取れるが、何か知ってるような雰囲気の人を見つけるも、英語なのかヒンドゥー語なのか、何を言ってるのかさっぱり聴き取れないのが悔しくて仕方がなかった。観光客の日本人を探した。英語が喋れれば力になってくれるかもしれないという思いを込めて探した。いた!と思っても韓国人や中国人だったり、ようやく見つけた日本人も英語が全然出来ない人だったりして、失踪した友人を探していると伝えればドン引きされ、ただ途方に暮れるしかなく、夕焼けに照らされたタージマハルを体育座りで見つめるしか無かった。
タージマハルは諦めてデリーの繁華街で聞き取りをした。日本語が一切聞こえない環境にいて数日、少し感覚が麻痺してきたこともあり、奥まったところにも入って怪しい兄ちゃんにも声を掛けてみた。ところがほとんどこちらの話は聞かずだいたいがハシシいるか?とか薬はなんでもあるぞとか、そういう類の話ばかりだった。幸いしたのは、ほとんど自分より背格好が小さくて、万が一喧嘩になっても負けることは無いと思えたことだけだった。ソイツならココにも来たことがあると言った40歳くらいのおっさんがいて、嬉々として中に入って話を聞こうとすると、奥には190cmくらいの明らかにインド人じゃない男が3人いてニヤニヤ笑っていて、その時だけは一目散に逃げた。インド人ウソつかない、という格言はウソだと思いながら、疲れた足を引きずってホテルに帰る日が続いた。

帰国日の前の日に、何のあても無くガンジス川の沐浴出来るところに来た。沐浴する現地人には英語さえ通じず、もう9割、ほぼ10割諦めて川のほとりに腰掛けた。もう何もかもがどうでも良くなった。川に入ってみた。普通に考えればむちゃくちゃ不衛生で病気のリスクがあるにもかかわらず、何とも思わなかったし幸いにも体調は崩さなかった。明日帰るという日にようやく私はインドに溶け込んだ。
川に入ってサンセットを見ながら、ガミくんはこの広いインドのどこかで生きていると思った。この国は人の思考をあらゆる側面からストップさせる不思議な力がある。ただボーッとしてしまうのだ。日本という狭い国では測れない何かがあって、みんなそれに取り憑かれてしまうのだと。ガミくんはきっとココでビルマの竪琴の中井貴一みたいに僧侶にでもなったのではないかと。はたまた、旅の途中で恋が芽生えて女と一緒に違う国へ行ってしまったのではないかと。いやいや女とは限らず私のような気の合う男と南の方を旅しているのでは、と。マークンだって友達を旅先で見つけたじゃないか。
その一方で、彼は私ほど頑丈じゃないからやっぱりあの怪しい類の連中に殺されてしまったのではないかとも。水嵩が増した日についつい川に入ってしまって流されてしまったのではないかと。ぶっ飛んだ思考が前に出る男だったけど、人、親を泣かせるようなヤツでは無かったから、やっぱり死んでしまっているのかと。

それらしい手掛かりが無ければ、結局、目に入ってくる物に色々な思いを巡らせ、自分の中で産まれては消化していくしかないのだ。もちろんこの時にガミくんがどこでどうしているかはわからないし、20年経った今でももちろんわからない。彼に対する思いはあの頃と何も変わらない。
私の最初の海外旅行は、旅行というより1つの区切りだった。やっぱり自分は何者でも無い単なる平凡な人間であると、事実を突きつけられたのだ。飛行機の窓から離れて行くインドの色はガンジス川と同じ茶色だった。何もかも呑み込んでしまう、恐ろしい茶色の泥沼のように見えた。

別に私じゃなくても良かったが、生きているのなら、ガミくんは日本を捨てることを誰かに伝えるべきだったと思う。何度も書くが彼は親や人が悲しむとわかっていることをするような男では無い。でも、インドには何もかもどうでも良くなる不思議な魅力があることも事実だ。インドで僧侶になるなんてとてもステキなことだし一生モンの友達や女が出来たのなら心から祝福しただろう。

会社で「前向きになろう、前を向いて生きて行こう!」というクソみたいな研修を受けさせられて、今あなたが一番したいことを思うがままに言ってみてくださいみたいな質問に、私は、もう一度インドに行ってデリーの空港を出た瞬間にパスポートをビリビリに破りハローインディアと思い切り叫びたい的なことを話したら、講師からほかの社員から全員ドン引きしたそうだ。いやいやいや、だって一番したいことだろう?一番したいことって建設的に考えた末のことじゃなくて後先考えずに衝動に駆られるまま行動に移すことじゃないのか?金や体裁なんて気にしないのが本当にやりたいことじゃないのか?連中は何を以て私にドン引きするのか?連中が言うところの青山で美味しいスイーツが食べたい、箱根に温泉に行きたい、痩せて魅力的になりたい、簡単じゃないか。食えばいい、行けばいい、身体を動かして食べなければいい、至極簡単なことだ。もしそんな簡単なことを今一番したいことと言うのなら、ソイツは一番だらけの人間だ。何が自分にとって大事で何がいらないのかが見えてないのだ。それこそMonkey Businessだ。
そうかガミくん、君は衝動の赴くままに日本を捨てたんだろう?君は真摯に自分と向き合って、本当にしたいこと、やるべきことが見つかって、誰かに伝えれば止められるのがわかっていたから一人で消えたんだ。私は消えたことが無い、消えたことが無いから消える人の気持ちはわからないけど、消えて結果的に誰かを悲しませるくらいなら、何も言わずに逃げるが勝ちなのかもな。私だってそうするかもしれないな。

なかなかインドに行く機会は訪れないが、次にインドに行く時は寺院をひたすら廻ってみようと思う。
爽やかな顔で笑う坊さんが、案外ガミくんかもしれないという淡い期待を持って。

SKID ROW/Monkey Business
https://youtu.be/2pkpsxEyi-k