高校生を長崎で過ごした私は、バンドを組み、当時ヤマハが主催していたteen's music festivalという、バンドの甲子園みたいなものの県予選で優勝する。その時のメンバーでは無いが、そのバンドに深く関わった、ベーシストのマークンの話を書きたい。私の人生の中でマークンと呼ばれる人は数人いるが、その中では、最も太く短く生きたマークンである。

鮎川誠をそのまま童顔の高校生にした感じの彼との出会いは、実は正直よく覚えていない。なんとなく一緒に同じスタジオにいて、高校生のくせに当時から真っ黒のサングラスをかけていたことだけは覚えている。だから、彼がどんな目をしていたのかほとんど記憶に無い。マークンの顔を思い出す時は、彼は必ずグラサンである。

油性絵の具で、白いボディのベースにfukc(fuck)とsexと赤々と描かれたベースを彼は愛用していた。彼は早くに会社経営をしていた父を亡くしたが、教育熱心な母親の影響で3歳からピアノを学び、音楽的センスは高校生にしては非常に高かった。ベースは普通に弾けたけど、わざとヘタクソに弾くのが彼の中ではカッコよかったのか、ストラップを限界まで下げて、何に対してのアンチテーゼなのか、音はダウォンダウォンという重たいゴム紐をはじくような音しか出さなかった。きめ細かい艶のある粒のベース音を彼から聴くことは出来なかったが、ハードロックとかメタルとか、聴く人にとっては雑音のようなジャンルだったからなのか、彼の音に違和感を覚える人はほとんどいなかった。スタジオでの練習の前にはいつもハイライトのタバコを燻らせて、下顎を出しながら縦にタバコを吸うものだから、火種がいつもサングラスに映っていた。

彼と組んだバンドで、一番盛り上がったライブがある。私が2回目の高校2年生の年明け1月のライブだ。そのバンドでは、昭和の懐メロや演歌の有名曲を無理矢理ハードロックにするという、田舎の高校生のアイデアとしては非常に画期的ではあるものの、日本の名曲を随分と冒涜するような罰当たり全開のパフォーマンスをしていた。それがウケにウケて、狭いライブハウスにぎゅうぎゅうの高校生が集まって、大喝采を浴びたことがある。アレを超えるほど気持ちいいライブは終ぞできなかった。その時彼は、最後のアンコールが終わった後何を思ったのかベースアンプに頭から突っ込み、絵の具で描かれたfukcやsexと同じくらいの赤い血を頭から流して、ゲラゲラ笑っていた。たくさん喋るタイプでは無かったけど、潜在的な「突き抜けた感」はダントツだった。

ある日、彼の母親の異様なまでの反対により、彼はベースを弾くことが出来なくなった。彼の母親も少しサイコな人だったようで、あまりにも言うことを聞かない息子にブチ切れて、マークンのfukcベースに鍋ごとおでんをぶっかけて音楽を辞めて勉強しろと部屋で泣き叫んで暴れまわったそうだ。結局マークンは高校を卒業するまでベースを弾くことはなかったが、違うベーシストで僕らはteensで優勝した。マークンは高校生のくせに酔っ払って会場に来て、嬉しそうに笑いながら手を叩いて喜んでくれた。代わりに入ったイケメンのベーシストに、オレより下手だけどオレよりカッコ良かったから許す、と、サングラスの上の眉毛をハの字にして自分のことのようにはしゃいでいた。

大学に進んだ彼は、入った軽音楽サークルの1年生は全員部室で裸足というわけのわからないルールのせいで、サークルどころか大学を1ヶ月で辞めてしまった。そののちに彼は流しのストリートミュージシャンとして様々な国を旅することになる。

一度、私の大学時代の久留米の部屋に、帰国の折にわざわざ来てくれた。東京から一緒にバンドをしていたギタリストも呼んで、3人で延々とセッションした。その夜したバカ話では、タイで仲良くなった同い年のアメリカンとギターとピアニカだけでストリートで稼ぎ、東南アジアを転々としながら、その次は南半球を目指した話を熱心に語ってくれた。オーストラリアにストリートだけで稼いだ金で渡った上で、なんとオペラハウスでライブまでやったというから、マークン東南アジアはともかくオペラハウスのくだり、さすがにウソは良くないと問いただしてみると、オペラハウスの機材搬入口の脇で30人くらいのルンペンにスキヤキソング(坂本九の上を向いて歩こう)を披露して拍手喝采を浴びた、でもルンペンはマジで金が無いから、酒には困らなかったけど金は本当にたまらなかったという、どないやねんと思いつつも、それはそれでとても素敵なエピソードだった。

私の部屋に来た時にはカンボジアで覚えたあらゆるドラッグにだいぶヤラレてて、話す内容が時折支離滅裂なところもあったが、会話に不自由はしなかった。今回は何一つネタを持ってきていないからつまらないと話していた。彼はなるべくして気持ちの良いほどにジャンキーになっていた。これが後ほどの事件の伏線になる。

私の部屋を出た後東京にギタリストと向かってしばらく日雇いの仕事で金を貯めて過ごし、彼はオペラハウス(の搬入口前)で喝采を浴びた相棒とアメリカ本土での旅を再開するために改めて日本を発つ。前の日に電話もくれた。ブッシュに一発カマしてくると当たり前のテンションで話す彼と再会の約束をした。それが彼と交わした最期の言葉になってしまう。

翌年の梅雨に彼が亡くなったという話を伝え聞いた。原因は橋から転落して身体を強く打ったからだった。旅の途中、幻覚系ドラッグの食い過ぎで、途端に橋の柵を乗り越えて両手でぶら下がり出したのだそうだ。泣き叫んで助けようとする相棒もやっぱりジャンキーでガチガチにキマッていて、精神は正常じゃないし、橋の上から手を伸ばしてもマークンの腕を掴むまでには届かず、腕を触るのがやっとだったらしい。

駆けつけた警察官がとにかく今から助けるからと柵を乗り越えて来た時に、アジア訛りの英語で、汚ねえ手で触るなサノバビッチと叫んで落ちていった、と。

遺体は運良く回収され、大金をかけてアメリカから運ばれて、小さいながら家族と親戚だけで密葬したそうだ。若くしてドラッグに塗れて海外で死んだとなれば、ひっそりと葬式をするのも、今の歳になればわかる気もする。まーくんが骨だけになってしまってから、ようやく事の成り行きが我々のところに降ってきたのだった。

私はその年の夏休みに長崎に帰った際、線香をあげに彼の家に行った。たった一人の家族である彼の母親と会うのは初めてで、ベースにおでんをぶっかけるというサイコなエピソードを持つおばさんは複雑な表情で迎えてくれた。若い頃は美人だったんだろうなと思える、清楚なおばさんだった。当然笑ってなんかいないし、怒っているようでも悲しんでいるようでもない、ただ、もうホントに勘弁してくれというような疲れ果てた顔だったのをよく覚えている。

マークンの母親は、自分の夫には早く先に死なれ、その遺産の一部を彼が世界を旅する資金としてあてがっていた。夫の早死を糧に彼には一生懸命勉強して良い大学に入って良い会社に入って真っ当な人間になって欲しかったなか、我々のようなクソみたいなガキがセックスドラッグロックンロールの世界に引きずり込んでしまったわけで、決して我々のことを良く思っていなかったはずだ。でも、母親は正座のまま、手を揃えて深々と頭を下げてくれた。差し出された冷たいコーラが何の味もしないほどに、我々は恐縮しきりだった。ジャンルはともかく、ただ音を共に鳴らしていただけで何の悪いことをしたつもりは無かったが、子供までも失う未亡人が美しいデフォルメで頭を下げる姿に、私はどんな言葉も浮かんでこなかった。

頭を上げた母親は、兀々と語りだした。私はこの子にベースを辞めて欲しかったこと、でも、この子の部屋から聞こえてきたのは貴方達と一緒に演奏した録音のテープだったこと、家にいる時はいつもいつも、ずっと聴こえていたこと、自分が知っている曲では、特に東京ブギウギがよく聴こえてきていた、ということ。
小さな頃から友達と遊ぶことが得意なタイプではなく、何か一つのことに執着する子だったこと、彼にとっては音楽が最もお気に入りだったようで、ピアノは熱心に練習していたこと、中学生になってから180度性格が変わり、ベースをやり始めたこと。

「あなた方とは、あの子にとっては音楽によって友情が紡がれたものだったのでしょう。こうなってしまった以上、この子からあの時一時的に音楽を取ってしまったのは良くなかったのかもしれません。死んでは何も残らないと言いますが、こうして会いに来てくださるのは、この子にとっての遺産なんです。あなた方は若いから、これから先もっとたくさんの方と出会うのでしょうけど、友人というのは
いなくなっては話が出来ません。あなた方のお友達は、ぜひ大事になさってください。ありがとう」
大切な家族を2人も失った女性の、重たい重たい言葉だった。

マークンは常々、商業音楽はクソだと、カラオケに迎合する今(当時)の音楽シーンは間違っていると、ボソボソ語っていた。私の久留米の部屋に来てくれた時も全く同じ話をしていて、そこにドラッグが何も無いのと同じくらいの不満をサキイカをにちゃにちゃさせながらビールで腹に流し込んでいた。響かない、耳にも脳ミソにも響かない。だったら、下手でも音が悪くても、自分で弾いた(はじいた)ほうが自分の脳に響く。楽しい。楽しければ、人に自ずと伝わるし、人は自ずと集まってくる。
私は目の前に起こっていることにしか興味が無いし、格言的なものにもあまり感化されないが、当時からこれは真理だと思っていた。40代になった今、いろんなシチュエーションで「響く」「響かない」という言葉を使うことがあるけれど、まーくんから教えてもらった表現方法だと今でも思っている。

私はその久留米の大学では、本当にとんでもないダメ学生で、卒論も4回生の年末まで何にも手をつけずゼロの状態という中、約2週間で、手書きで原稿用紙約200枚の「日本の商業音楽」というテーマで卒論を書き上げた。
時代が進めば盤面(CDやMD)はいずれ姿形を変えつつ、違った形で音楽が消費者に届けられるようになるだろう、まだそれがどのような形になるかは想像がつかないが、市場は縮小し、ただひたすら流行音楽を供給し続ける今のやり方はいずれ崩壊する、という内容だ。手前味噌だが20年弱経った今、どうだ、案外当たっている。これほどまでにシュリンクするとは思わなかったが、もう何を聴いても同じ音にしか聴こえないということはなくなった。今の商業音楽は、握手券が付いたような少し歪なビジネスモデルもあるし、まだほんの一握りのミュージシャンしか食えないかもしれないが、それなりの実力の人が、実力と正比例した成功を収めることができる、20年前と比較すれば随分と正常な世界になったように私には見える。

卒論の最後の10枚くらいは、このマークンのエピソードを書かせていただいた。ドラッグとか転落死とか際どい内容も織り交ぜつつであったが、大して話をしたことが無いゼミの教授からなんとAA判定をもらった。結果他の単位落として留年したけど。
牛乳瓶底のようなメガネをかけた連中が一年以上も費やしてパソコンで作り上げた卒論でさえ取れなかったAA判定を手書きで2週間ほどで作ったのだから、もちろん痛快だった。

その夜、留年したことを自分の両親に電話で伝えてこっびどく叱られた後、部屋では本家笠置シヅ子の東京ブギウギも、奥田民生の東京ブギウギも交互に流しながら、普段吸わないハイライトを下顎を出して燻らせつつ、留年に乾杯したのである。

笠置シヅ子/東京ブギウギ
https://youtu.be/9FCmuZXLt9g

15歳の春に徹夜で2曲のドラムを練習してから初めて人前で演奏をし、30歳に福岡天神の西鉄ホールで少ない観客の前でしょっぱいドラムを叩くまでの15年間、私は音楽に少なからずとも関わった。
その最後の西鉄ホールでの演奏は散々たるもので、アマチュアのくせにあれほど客を集めて盛り上がった若い頃の小さな栄光と比較をしておおいに落ち込み、もう二度と音楽とは関わるものかと心に決めてスティックを置いた。

それから10年以上が経ち、もういい加減に音楽にかつてほどの拘りが無くなり、あれだけ憎んだモーニング娘だろうが浜崎あゆみだろうがジャニーズであろうがkpopであろうが、過去に自分がこよなく愛した数々の音楽と比較をしても、なんの感情も産まなくなった。それくらい私にとって音楽は空気となり、生活に溶け込むことはほとんど無かった。
あの時と今の大きな違いは、私には4歳になる娘がいて、東京に妻と娘と3人で暮らしていることだ。
家族を養い、仕事と子育てに追われる日々を送れば、音を楽しむ隙間などほぼ皆無なのである。

ただ、スティックを置いてから干支が一周しようとする今、吸い寄せられるように、音楽に直接触れる機会が2つ訪れた。

1つ目は、今の仕事でよく中国に行くのだが、臨海という海沿いの田舎町にある取引先の社長の息子さん(小学3年生)がドラム教室に通っており、商談室の隣には、息子さんの練習用のドラムがあった。商談合間の雑談の中で、かつて私も若い頃はドラムを叩いてた時期があることを話すと、是非やってみてほしいと言われ、社長と社長の息子さんの前で、本当に30歳の西鉄ホール以来、人前でドラムを披露した。
彼らは目を丸くして私のドラムに見入り、息子さんからは羨望の眼差しを感じた。単なる父親の得意先の日本人のおっさんから、突如現れた日本人のスーパードラマーに見事格上げされたのである。その眼差しはダイヤの如くキラキラと輝き、私は、本当にドラムに魅せられた15〜6歳の頃の自分と重ね合わせた。あの頃私が見ていた大人達は、私からこのような眼差しを浴びていたのかと初めて知った。なんともむず痒く、照れ臭い感情だった。

2つ目は、妻の無茶ぶりで、今住んでいる街の自治体が開催する文化振興イベントに妻が少なからず仕事の一環で関わっており、ピアノとカホン(木の箱のような打楽器)の演奏を急にやることになったことだ。
カホンは持っていたが、カホンを人前で演奏するなんてほんの数回だけしか経験が無く、今更人前に出るのはゴメンだと最初は頑なに断ったが、よくよく妻の話を聞くと、対象となる観客は娘と同じ同世代の保育園児とか幼稚園児であり、演奏するのは、おとぎ話の桃太郎にバックミュージックを即興で付けるというものと、近代版ドラえもんのテーマソング「夢を叶えてドラえもん」と、忍たま乱太郎のテーマソング「勇気100%」の3つだ、というものだった。一緒に演奏するのは同じ街に在住するピアノソングライターの三浦鯉登さんで、観客から金を取るわけでもないし、あくまで三浦さんがメインだし、娘も私が演奏するのを見たい見たいと連呼するので、それならばと一転して引き受けたのだ。
演奏当日はステージでライトを浴びる寸前まで緊張も何もしなかったが、いざ始まると大量の汗が噴き出てくるのがわかった。1つの即興と2つのアニメソングはあっという間に三浦さんの手と歌声により美しく爪弾かれ、私はそれに必死に両の手で冷や汗とともに食らい付き、それでも、たくさんの子供達がステージ前に集まって、娘が満面の笑みで私を見ていたのがとても嬉しくて、出来はどうでもよく、とりあえずやって良かったと心から思った。もちろんココを見ていないと思うが、三浦さんには心からお礼を言いたい。そして、娘や、娘の友達からとてもカッコよくて楽しかったと言われたのが、2018年の中で最も嬉しかったエピソードになった。

だからと言って、あの頃と同じテンションと責任感を持って楽器と向き合えるかと問われれば、今の状況では土台無理な話だ。絶望的に時間が無い。その三浦さんとのアンサンブルに向けての練習でさえ相当な神経を使ったし、本来なら、もっとカホンを研究し、ピアノに食らいつくだけではなく、ピアノを引っ張るくらいでないと、人前に出る意味は無いのだ。

それでも、中国人の少年と、娘を始めとした小さな日本人の子供達が、私にくれた笑顔や眼差しは、私にまた音楽とは何か?音楽でどれだけの人々と関わり、どれだけのエピソードやドラマを生みだしたか?を考えさせられた。

別に音を鳴らしたり聴くことだけが自分と音楽の関わりではなく、過去に、音楽によって、こんな出来事があった、こんな人と出会ってこんな話をした、それを備忘録の如く記し、それをどこぞの知らない人によって読まれて、私が書く文章でその人の心の中に何かを残せれば、それはそれで私の中では大きな価値があるのかな、と思うようになったのだ。
スマホ1つでポチポチやれば、これを読むあなたの心に何かを刻めるかもしれない、仕事と家庭に追われる私に唯一残された表現方法だと思い、便利になった世の中に感謝をし、ひたすらすごい時代になったものだと感じずにはいられない。カセットテープをボロボロになるまで聴き回し、傷だらけになるまでCDを鳴らしていた時代からは、考えられないほど、今は表現方法が増えている。あらゆるツールが、今の世の中にははびこっている。

年始の休日に、音楽を辞めてからの趣味になった将棋の聖地千駄ヶ谷まで出てきて、この文章を書いている。私は、将棋の、終盤に描かれる収束に向かう美しい棋譜を眺めるのが大好きなのだが、本当に美しい音楽は、頭から爪先までドラマが詰まっていて、聴く人の脳ミソを圧倒していく。将棋と音楽は美しさが異なるものと私は思っている。
この後は新宿まで出て、約一週間後に再会する、その中国人の少年ドラマーのために、ノッカータイプのスティックを買いに行こうと思う。先端のチップが無い特殊なスティックを、きっと彼は見たことが無いだろう。彼がこれからもずっとドラムを続けて、喜びも悔しさも味わうことになると思うが、新しい感情に音楽や楽器を通して出会うことは、その子にとって一生残るものだと私は信じている。

きっと私は、思い出せるだけのエピソードをココに書き連ねて、自分自身が再び心を動かすのだろう。もう亡くなってしまった人や、これから先に会うことは無いだろうと思う人々のことを描こうと思う。
それにこれを読むあなたも何かを感じてくれれば幸甚である。