先日、かつての朋友であるタケダ2000GT氏が演奏するライブに足を運んだ。彼とは同じバンドで都合約5年に亘りライブやレコーディングをおこなった。福岡からはるばる3年ぶりに東京へと来るというので、何とか時間を作ってお会いすることが出来た。彼は当然現役でステージに立つ方で、よくよく聞くと彼とはまた会う機会が今後増えそうなので、この不定期コラムで彼にフォーカスするつもりは無い。

タケダさんと昔話に華を咲かせるうちに、お互いの知り合いはどうしているかの話になった。そこに出て来たのが、今回取り上げる泯比沙子さん、ミンさんである。 
ミンさんと一緒にやったのは、かれこれ10年くらい経つのだろうか、タケダさんと二人で笑いながら当時のことを思い出した。珍道中さながら、よくあれで東京でライブしたものだと二人で笑った。 

当時、私は自分が正式なドラマーとして活動していたバンドがあったが、タケダさんから「百ちゃん、ヘルプでドラム叩いてほしい!絶対悪い話じゃないから!」電話があり、タケダさんが悪い話ではないというのならと話を聞くことにした。打ち合わせがあると呼ばれる場所に行くと、そこにいたのがミンさんだった。 

年齢不詳のその女性は、見事なまでの金髪だったが、非常に物腰の柔らかいお方だった。しかし、一緒に連れていたミンさんの娘さん(当時幼稚園か小学1年生くらい)が、ポータブルDVDプレーヤーで見ていらしたのは楳図かずお先生の代表作「まことちゃん」で、しかも娘さんはそれに完全に心奪われ笑い転げている姿と、そして、ミンさんがその子のために作った夕食という弁当を見れば、ポリスチレンの箱一面に敷き詰められた黄色、いわゆる「白米にオムレツ載せただけオムライス」を見て、ああこの人もやっぱり只者じゃないんだなぁと思った記憶がある。 

何でも、東京にある某大学の学園祭にミンさんがゲストとして呼ばれるというオファーがあったそうで、タケダさんがソロでライブした際に仲良くなったミンさんと意気投合し、今現在は完璧に克服したが当時のタケダさんは見事なアルコール中毒で、「ベース?めんどくさいからいいや、でもドラムは必要だよね、あ、オレちょうどいいドラマー知ってる!」というめちゃくちゃなんだけど彼らからしたら当たり前なテンションで私にお鉢が回ってきたのだ。 
交通費等は何も心配しなくて良い、むしろギャラまで出るとのことだったので、とりえず私は正式にドラマーとして参加することになった。ミンさんからは「ありがとう百万石さん、うれしい!もうこれから百ちゃんって呼ぶね」と、これまた屈託のない笑顔でお礼を言われたのも記憶にある。その時娘さんはまことちゃんの「ぐわしっ」をポータブルDVDプレーヤーに向かってキメているところだった。そのポーズと共に「泯比沙子とハイライトセブン」は誕生したのだ。 

その日のうちに早々と課題音源を受け取り、さっそくコピーとカバーの作業に入った。 変拍子が入っている曲が多く面食らったが、ポップスとパンクを足して2で割ったような感覚。あまり私が通ってこなかったジャンルの音楽だった。同時に、ミンさんのことをネットで検索し、そこで初めて驚いた。 

ミン&クリナメンという、パンクバンドの世界では一世風靡したこと(実際、当時のベースの調さんはのちのハイロウズのベーシストである)、ミンさんご自身は私と初めて顔合わせをしたの印象とは全く異なる異端少女であったこと、なぜならばライブ中に生きたセミを食って喝采を浴びたりヘッドバッキングしながらマイクに頭を強打して血まみれで歌い続けるようなキワモノキャラであったこと、きちんとしたレコード会社と契約して当時としてはかなり稼いでたんじゃないかと想像されたこと等、パソコンの画面から目に入ってくる情報が私にとってあまりにも新鮮で、かつ驚きばかりで、妙に心が躍ったのを覚えている。 
なるほど、東京の大学がわざわざ福岡に住むミンさんにオファーを出すのも頷けた。 


週に2回くらいのアンサンブルの機会を設けてリハに励んだ3人だったが、まず私が変拍子にあまり慣れていないということと、上に書いたようにタケダさんが異様なまでのアルコール中毒で、ほとんど曲構成を覚えず、全て初見みたいなテンションで練習に臨んでくるものだから、なかなかうまくアンサンブルはまとまらなかった。ベースがいないバンドというのが私には初めての経験だったので、曲のリズムは全て自分にかかっているというプレッシャーもあった。この人は単なるお姉さんじゃない、泯比沙子だと思う度に、この人達に比べれば随分真人間にカテゴライズされる私にとってはなかなかキツイ日々だった。 
お二人とも私にとってはファンタジーの世界にいる住人なので、彼らのテンションについていくのが精いっぱいだった。良くも悪くもおおらかなのだ。福岡市内の中心地に位置しながらも、内部改造して音楽が出来るスタジオにした民家の軒先で、練習後に3人でバカな話をするのがルーティンだった。「バルブ全盛期にバブルがはじけたと言い張るスポンジ屋のおじさんの話」とか「ライブ中のお客が全部カラーひよこに見えた話」とか「通りすがりに人一人一人に丁寧に面白いあだ名を付けた人が勝ちゲーム」とか、そんな話やバカなことばっかりやっていた。めちゃくちゃ楽しかったけど。 

ただ、そんなテンションのまま日はどんどん進んでいき、いよいよ東京遠征1ヶ月前という頃になっても、一向にアンサンブルはうまくまとまらなかった。タケダさんも飲み過ぎて体調が悪くなることもしばしばで、ミンさんと私と2人だけでスタジオに入ることも多くなった。私はひたすらに、泯比沙子というビッグネームと、遥かに私より音楽センスの高くて良い経験を積むチャンスをくれたタケダさんの顔に泥を塗るわけにはいかないと、自分のバンド以上に必死になった。その甲斐あってか随分こなれてきた頃、ミンさんが、2人だけの練習の時に鋭い一言を放つ。 

「百ちゃん、すごく良い。最初の頃よりかなりまとまってきてる。ほんと最初はどうなることかとドキドキしたけど、これなら安心よ。リズムさえきちんとしてれば、私は心配ないよ。きっと良いライブになるよ」 

正直驚いた。私はボーカルなんて遊びでしかやったことが無いので、ボーカルというのはメロディを奏でるピアノとかギターを頼りにするもんだと思っていたが、ミンさんはドラムにも気を遣い、そして私が変拍子が苦手だということもきちんと見抜いていたのだ。よく考えればそうだ。私なんかよりはるかに大きなステージを経験し、多くの観客を熱狂させてきた実力者なのだ。単なる狂乱娘なんかではなく、目の前にいるのはマジもんのアーティストなのだと改めて思い知らされたと同時に、自分の実力の無さに悔しい思いをしたのを覚えている。ミンさんの言葉のウラを返せば、「最初はあんたのドラムはクソだったけど今はまぁだいぶまともになったよね」ということなのだ。 

2人だけの練習が終わったのち、民家スタジオの軒先で、ミンさんとゆっくり話をした時のことだ。ミンさんがやんわりタバコの煙を吐き出しながらつぶやいた。 

「ねぇ百ちゃん」 
「はい」 
「百ちゃんは本当に真面目だよね」 
「えー、いやいやいや、そんなことないです、僕が真面目だったら区役所の人達なんてみんな聖徳太子かマザーテレサになってますよ」 
「私はわかるの、百ちゃんはしっかりしてる。責任感のある人よ」 
「なんでそう思うんですか?」 
「私とタケダくんだけじゃ、たぶん、ここまでまとまらなかったと思うの。百ちゃんはちゃんと練習して、ちゃんと仕上げてきたじゃない。タケダくんはすごい人だけど、いつもお酒飲んでるから相変わらず構成もイマイチ頭に入っていないみたいだし」 
「いやいや、良い経験させてもらってます!正直、僕があんまり通ってこなかったジャンルですし。正直僕、ミンさんのことも最初は存じ上げてなかったので、ミンさんやタケダさんに恥かかせるわけにはいきません」 
「区役所の人は、聖徳太子でもマザーテレサでもなんでもないよ」 

ミンさんが私の取り繕った言葉なんてどうでもいいとばかりにつぶやくと、そこそこディープな話を始めた。 

娘さんがいるということは旦那様がいるはずだが、離婚し、養育費もまともに払われないのだそうだ。 
Youtubeの中で見たミンさんはもちろん、その当時のミンさんの風貌であれば簡単にまともな仕事も見つけることはできないことが想像できたし、ミンさんのパーソナリティそのものがなかなか社会に溶け込めそうにない感じだったからだ。不器用という言い方が正しいかどうかは抜きにして、根っからのアーティストなのだ。 
区役所に生活保護の申請に行っても、海千山千の聖徳太子やマザーテレサは一向に許可を出さないらしい。あなたは充分に働ける、と。 
八方ふさがりで、なかなか将来が見えない、娘をこれからどうやって育てて行けば良いか、正直悩んでいるとのことだった。 
私自身当時はもう結婚していたし、一応嫁さんは養えていたし、マンションも買ったばかりの頃だったので、生活保護を申請するという経験ももちろん無く、そのディープな話に対して良い言葉が見つからなかったのが正直なところだ。 

「お役所の人達って、やっぱり真面目なんですよ」 
「そうよね」 
「僕らがバカ話してるテンションで相談に行っても、なかなか話は聞いてくれんでしょうねぇ・・・・」 
「私は真面目に話してるつもりなんだけど」 
「あのー、ミンさん」 
「うん」 
「誠心誠意って言葉があるじゃないですか」 
「うん」 
「誠心誠意の気構えで相談に行ったら、ハンコ、押してもらえるんじゃないですか?」 
「誠心誠意の気構えってなに?」 
「うーん、そうだなぁ、ミンさんが真剣になれることって、例えば何ですか?」 

即答だった。 

「歌うこと」 

ハッとしてしまった。当たり前だ。私のように生業がある一方で音楽をやってる半端モノとは違うのだ。ミンさんに必死に謝った。 

「すんません!ほんとすんません!当然ですよね、変なこと聞いちゃいました」 
「真剣になれることと誠心誠意が、どうつながるの?」 
「いやまぁだから、真剣になれることが歌うことだったら、歌う時のテンションでお役所に相談に行ったらいいかな、と思ったんですよ」 
「それなら」 
「はい」 
「あたし、絶叫しながらカウンター乗り越えて首根っこ掴んでお金ちょうだいって言っちゃうかも」 

二人で大笑いしてその日は別れた。 


ライブ前日に東京入りした私は、先にソロで東京にツアーしていたタケダさんと合流し、最終アンサンブルをおこなった。 相変わらずタケダさんは構成をイマイチ覚えていなかったが、私からのアイコンタクトとサインで何とかなるところまでようやく来た。 
当日、その大学に向かうと、何ともまぁわかりやすい大学のわかりやすい学園祭という雰囲気が懐かしくて、非常にテンションが上がった。 ライブの順番は、金をかけて福岡からゲストを呼んだという大学側の気合いの入り方からか、トリを務めることになっていた。 

随分時間が推した状態でライブが始まった。結果を言うと、まずまずの出来、少し失敗した部分もあったが、やはり泯比沙子のパワーと知名度は相当なもので、昔からのファンだという人の中には、泣いてる人さえいた。 
タケダさんはさすがの腕前で、私からのアイコンタクトとサインでバッチリ構成は補われ、汚くも美しいエレキギターを奏でておられた。やはりタケダさんも只者ではないことを充分味わった瞬間でもあった。 

ライブが終わった後は打ち上げがてら近くの居酒屋に移動して、その昔ながらのファンだと言う人や、当時ミンさんとよくライブしたというお兄さんお姉さんもたくさんいるなかで祝杯を上げた。 
大変失礼な話だが、ほとんどの人がどう見ても社会不適合者だった。私の席の隣りにいた比較的真面目そうなおじさんと話をしたが、「未だにミンさんの歌声でオナニー出来る」と真顔で話していらっしゃったので、ココは東京なんかじゃなくてソマリアとかコソボ自治区とか、そういうところとあんまり変わらないなぁと諦めるしかなかった。 

大団円で東京の大学での学園祭ステージを終えた泯比沙子とハイライトセブンは、福岡に戻ってもう一度ライブをした。 
その頃からか。私のところに、泯さんからスタジオリハの日程摺合せ以外で頻繁に電話がかかってくるようになったのは。 

「百ちゃん、郵便の速達ってどうやって出せばいいの?」 
とか 
「百ちゃん、粗大ごみの出し方を教えて」 
とか 
「金沢のファンの方がカニを送ってくださったの!百ちゃんにもあげるから30分後に警固六つ角の信号のところにきて」 
とか、挙げ句の果てには、深夜2時頃に、 
「百ちゃん、今○○さんのお店で飲んでるんだけど、お料理たくさん頼み過ぎちゃって。百ちゃんってたくさん食べるでしょう?今から来て」 
とか。 

たくさん食べるでしょう今から来てくらいで確信した。ああ、これは、バンドのヘルプメンバーだからとかじゃなくて、あくまで、男性としてロックオンされている、と。 

「泯比沙子」とか「ミン&クリナメン」でワード検索し、このブログに辿りついた方もいらっしゃると思う。 
断っておくが、もちろんミンさんは素敵な女性で、紛れもないアーティストだ。 
至極プライベートな部分をこうやって書くには正直迷ったが、私は確信したのだ。ミンさんは、決して、純粋に私を男として見たのではない。当時のミンさんには、ミンさんが考える「真面目な人・社会に適合できる人」が必要だったのだ。 
しょうがなかったのだと思う。藁にもすがる思いだったと思う。誰しもそう言う時期や、そういう感情になることがある。それが人間。そう思えたから、下手な文章でもこうして書いた。 
当然私は嫁と別れるつもりなんてないし、一方で不倫をキメてやろうなんて気持ちも微塵も無かった。午前2時に余った料理を食べにおいでという電話以降も、色んな理由でしばらく電話は鳴り続けた。 

もはや名物でも何でもない「美味しいお菓子があるの、百ちゃんの家の近くにいるから、今から出てこない?」という電話に対し、いつも断っていた私だが、その時は、「わかりました行きます」と答えて電話を切り、すぐにミンさんに会いに行った。時計は日付が変わる12時を回ろうとしていたころだった? 

「ミンさん」 
「なに?」 
「僕、今、嫁さんに嘘ついて外に出てきています」 
「どうして?」 
「夜中ですから。出てくる理由がありません。夜風に当たってくると言って出てきました」 
「そんな理由で?」 
「はい、今のご時世、夜風に当たってくると言って家を出るヤツなんていません」 
「そうね」 
「ミンさん」 
「なに?」 
「あなたは女です」 
「うん」 
「ミンさんに言わせれば、僕は真面目なんですよね」 
「うん」 
「僕は自分ではそう思いませんし、真面目だって言われるのはあんまり好きじゃないんです。でも、今日だけは生真面目に言わせて頂きます」 
「なにを?」 
「僕が、こんな時間にミンさんに会ってるなんて言ったら、僕の嫁さんは悲しむと思います。ミンさん、あなたは女なんです」 
「・・・・」 
「このお菓子を受け取って家に持って帰ったら、また僕は嫁さんに嘘をつかなきゃならんのです」 
「・・・・」 
「すみません、だから、このお菓子は受け取れません。ごめんなさい」 
「・・・・」 
「それじゃ」 

それじゃまた、と言わずに、それじゃ、と言った。また、と言わなかった。心臓が飛び出るほど緊張した。その辺のおねえさんとはわけが違う。伝説と称される女性・根っからのアーティストである人に、理由はどうあれ好意を寄せてくれているであろうお人を、結果的に傷つけてしまうのはどうなのか。自分はそこまでの男なのか。ファンの方に知られたりしたら「テメー!ミンちゃんを蔑ろにするなんてぶっ殺すぞ!」と怒られたりしないだろうか。振り返らずに、出来るだけ早く家に戻った時の足はブルブル震えていた。自分は今、本当にひどいことをしてるんじゃないだろうかと、突き放してみたもののこれからミンさんはどうやって娘さんを育てていくんだろうと思うと、ひたすら恐怖感に苛まれた。 
でも、自分にとって大切なのは、やはり家族、嫁さんだった。ミンさんが住む世界では私は生きていけない、そんなサバイバル能力は備わっていない、だから、ミンさんが言う「真面目な人」で生きて行く道を選んでいたのだ。もちろん粗大ごみの出し方も知っている。速達だって出せる。クレジットカードの審査だって通ってしまう。私は至極真っ当な「当たり前の人」だったのだ。不本意ながら。 


タケダさんに、「とにかく毎日鬱屈とした仕事の繰り返しで、自分はもともとサラリーマンに向いていないしとりあえず環境を変えたい」と愚痴ってみると、それまで穏やかに笑みを見せていたタケダさんが、一転してわりと真剣な顔で「そうかなぁ」と答えた。無い物ねだりもほどほどにしたらいいんじゃない?というような、タケダさんがたまにしか見せない大人の顔だった。
刺激の無い安定した道を選んだことも事実だが、付き合う人は刺激的な人ばかりで、そんな人たちに会うたびに私はいつもキリキリ舞いにされる。思えば私が普段抱える悩みや苦悶は、ある種贅沢であり、自分へのごまかし、欺瞞でしか無いのかもしれない。

今帰国がてらにこの文章を書いているが、飛行機の窓から見える光は宝石のように街を照らしている。私は宝石には興味がないが、宝石のような人々に色んな刺激をもらって生きている。その中に間違いなく、ミンさんは存在したと懐かしむのである。


Min & Klina-Men - フラッシュ・ザ・ナイト

https://youtu.be/yKi7tp6sM_g

最近とんと更新がご無沙汰である。ひょんなことからTOEICの試験を真剣に受けてみようと思い、英語の勉強に時間を取られてしまっている。 
私自身、全く喋れないわけではないが、日本以外の国に行くことも頻繁にある中で(つってもほとんど中国だけど)、今の英語力では心許ないと思い始めたのがきっかけだ。 
それでも、少しは話せる自分の礎になっているのは、20代半ば頃、スウェーデン人の女の子と2ヶ月ほど懇ろになったことがあるからだ。 
名前はラウラだった。本人が嘘をついていなければ。
彼女は福岡県内の大学に留学生として在学していた。本人が嘘をついていなければ。
日本語はほとんどしゃべれず、英語も適当だったと思う。とりあえず彼女とのコミュニケーションは、お互いカタコトの英語とほんの少しの日本語だった。そこである程度、私のインチキ英語は培われた。
とにかく破天荒な女だった。彼女とは音楽に関して大したエピソードがあるわけじゃないが、自分の人生では彼女と過ごした2ヶ月はなかなかのインパクトだったので、とりあえず思い出として記しておこうと思う。TOEICの勉強が、彼女との記憶を呼び覚ましてくれた。
彼女は本当に「消えた狂犬」だった。でもそんな狂犬に、本来なら私は、頭を下げて謝らなければならない。今でも、それは叶っていない。


彼女との出会いは、ドーベルマンというスカバンドが福岡にライブに来た時、会場で出会った。仲間と立ち上げた番組もあって、ちょこちょこラジオ局に出入りしていた私は、誰かの伝手でドーベルマンのライブを見に行った記憶がある。誰かと行ったとか一人で行ったとかはよく覚えていない。

ちょうどその頃はダイエットにハマっていた時期で、1年間で体重が50kg(120→70kg)落ちきった時だった。自分の身体の変化に対応するのに苦労していた。もちろん有酸素運動や筋トレはしていたが、どちらかと言うと食う物を徹底的に減らすダイエットだったので、筋肉が追いついていない時期だった。
ドーベルマンのように激しいバンドのライブになると客側はのっけからみんな暴れまくり、私もその輪の中にいた。120kgあった頃は当たり負けなんか一度もしたことなかったが、50kgも落ちると単なる「常人」であり、少しガタイが良い兄ちゃんに体当たりされるとヘナヘナとよろけた。
それでも、一際当たりの強いヤツがいて、ソイツから左の脇腹あたりに体当たりを喰らった私はフロアに転がってしまった。そういう暴れるようなライブの時は、体当たりを食らって倒れても文句を言うのは野暮な話で、むしろ当たって倒したほうは手を差し伸べて起こしてやるのが作法というものだ。差し出された手は真っ白で大きな手で、それを掴んで起き上がった時に、ビックリした。金髪の女、外人だったからだ。それがラウラだった。 

ライブ中は何度も彼女と衝突した。衝突どころか、ラウラは手を拡げて暴れるもんだから、顔に一発裏拳も喰らった。フロアにいる他の男達も喰らっていた。それでも彼女は悪びれることなく、好き勝手暴れまくっていた。
ライブが終わった後、フロアにモッシュが起こるようなライブというものは客どうしに妙な連帯感みたいなものが生まれるもので、そこで仲良くなったりもする。ラウラは他の外国人の女と二人で、終わってしばらく膝に手をついて肩で息をしていた。
もちろん私は英語が流暢ではないし、話しかける気もなかったのだが、ラウラは肩で息をしながら「オエエエエエエエエッ!」ととても女とは思えない様で苦しんでいたので、私は何気なく自分が持っていたペットボトルの水を差し出した。彼女は相変わらずはぁはぁ言いながら、静かに水を受け取り、残りを一気に飲み干して、また「オエエエエエエエエッ!」と言った。 
飲み干した後、「オマエイイヤツ」とまるでロボットのように日本語を喋るラウラが、ようやく笑顔を見せた。化粧は汗でボロボロに落ちていて、目の瞳孔はパックリ開いていた。 
ドーベルマンは好きか?と聞くと、「ドーベルマン?知らない」という返答が来たので、こちらの英語が伝わってないと思い、もう一度丁寧にドーベルマンは好きか?と聞くと、知らないと答える。 
彼女は、ドーベルマンの存在を知らずに、ドーベルマンのライブで嗚咽するほど暴れまくっていたことになる。知らないバンドで暴れられるヤツ、ある意味ブッ飛んでいる。面白いヤツだと思った。 
よく見ると、身長は私とあまり変わらないか少し低いくらいで、スタイルはボンキュッボンの抜群だった。お尻星人の私としては、下のボンは魅力的だった。彼女が外人であるとか、人となりはともかく、仲良くなっておこうと思い、とりあえず連絡先を交換しないかと聞くと、no problemと返事が返ってきた。とりあえず彼女と私は友達になった。 

これは今でもよく覚えているが、そのライブの後地下鉄で安普請へと戻り、寝転がってウトウトしていると電話が鳴った。なんとラウラだった。電話に出たが、彼女は一方的に凄い勢いで喋っているので全く何を言ってるかわからなかった。私は彼女にとりあえず落ち着けと、ゆっくり喋れと言うと、少しずつ意味が理解できてきて、笑ってしまった。暇だから今から来い、という意味だったからだ。
安普請から再びライブがあった福岡市内の中心地である天神へと逆戻りする。終電だった。なぜオレが知らなくないとは言えさっき会ったばかりのヤツ、しかも外国人、言葉はほぼ通じない、そんなヤツに会いに行かなきゃならんのかとも思ったが、まぁあのケツをショートパンツ越しにもう一度拝めるならというわかりやすいスケベ心と、ある種醸し出される風変わりな雰囲気に興味を持ったからだ。まぁ、面白くなかったら満喫にでも逃げるか歩いても2時間くらいで帰れるかと思っていた。地下鉄の中では、どういう方法であのケツを長い時間眺められるかしか考えていなかった。
彼女はドーベルマンのライブがあった場所からホントに100mくらいしか離れていないところに座って一人でタバコを吸っていた。私もたいがいだが、彼女も肩幅が広いガンダムスタイルなのですぐにわかった。近づいて行くとようやく女の子らしい笑顔で笑ってくれた。デカいけど。

「あら?もう一人の子は?」
「男とどっか行った、知らない」
「その子と一緒についてけばよかったのでは?」
「知らない女だから」

知らない女とライブで一緒に暴れていたのかと思うとまた笑えてきた。

「とりあえずどこかに行こう、外は暑い」
「あなたの家に行こう、私の家は遠い」
「はぁ?オレの家?あなたはどこに住んでいるの?」
「TOBATA」
「戸畑?北九州?」
「あなたの家に行こう」
「いや、ちょ、なんで?朝まで空いている店はこの辺にもあるよ」
「あなたの家に行こう!!」
「まぁ落ち着けよ、戸畑ほど遠くはないが、僕の家も遠い。もう電車は終わった」
「タクシー」
「はぁ?」
「we can get TAXI, right?」

なんだこいつ、なんなんだこいつ、すげー食い込んでくる、
と動揺しながらも、これは美味しい展開なのかとも当然思った。天神から自宅がある姪浜までタクシーで帰ったことなど無かったが、たぶん5000円もあれば帰れるだろう、朝までどこかの店に入って変に金を使うくらいなら、タクシーで帰っても変わらないかも、家に行こうってことはそういうことか?そういうことなのか?と色々計算した。

彼女はタクシーの中で好き勝手に喋っていたが、何を言ってるのかほとんどわからなかったので、私は適当に相槌をうって笑っていた。日本人の悪い癖だ。今思えば彼女の英語も適当だったと思う。彼女はスウェーデンから来て3ヵ月だけど日本語難しいと言っていた。でも日本は面白いと、特に神社が面白いと、それだけは理解出来た。
部屋に入ると安普請よろしく、あまりの狭さに彼女はケタケタ笑っていた。私のベッドにドスンと腰を降ろすなり、いきなりタンクトップを勢いよく脱ぎ始めた。こちとら目が点である。呆気に取られていると、デニムのショートパンツまでおもむろに脱ぎ始めて、瞳孔がパックリ開いた目で私に向かってカモンファッキンガイと来たもんだ。もう色々わけがわからず、でも目の前にはボンキュッボンの女が次々に服をポイポイ投げ捨てている。AVでも見ない世界が、ボロアパートの一室で繰り広げられている。上げ膳据え膳食わぬは恥と言うものの、よくわからないまま、でも鮮明に、私はラウラとファックした。洋物のAVのそのまんまの反応が返ってきた。予想外だったのは、長く伸びた彼女の爪が私の背中に食い込んでいたらしく、終わった後のシャワーが痛すぎて声をあげてしまったことだ。
私がシャワーから上がると彼女は大きなイビキをかいてすでに寝ていた。身長が私より少し低い彼女がベッドで轟々と眠り貪る姿を見て、安普請の狭いベッドを根城にする自分が少しだけ情けなくなった。

ヘイ、ヘイ、と揺すられて起きると既に太陽は高々と昇り切り、シャワーを浴びて髪が濡れっぱなしになったラウラが笑っていた。すっぴんの彼女はそばかすがまだ残っていて、初めて幼気な表情を見ることが出来た。上げ膳据え膳のついでにともう一度ヤッておくかと彼女を抱き寄せようとすると、待て待てと言われ、彼女は、持っていたバッグからおもむろに何かを取り出した。

レッツイートディストゥギャザーとニヤニヤしながら言われて差し出されたのは、ピンクの錠剤だった。ワッツディス?と問うても、ラウラはとにかく一緒に食おうよとしか言わない。明らかに怪しい。いや待て、コレはたぶん薬だろう?お前がコレは何か言わない限り、オレはコレは食えないよと言うと、イリーガルと言って彼女は笑って、その錠剤を口に放り込んでボリボリと音を立てて食い始めた。裸のまま、エロいケツをプリプリさせながら台所の水を飲みに行った。
後からわかったことだが、それはMDMAという違法薬物だった。押尾学が女に食わせてお縄を頂戴したアレだ。なんだこいつ、とんでもない地雷を踏んでしまったとひどく後悔した。食わないよバカお前一体なんなんだよ!と怒ると、彼女はニヤニヤしながら服を着始めて、じゃあ帰ると言って颯爽と出ていった。まるでキツネにつままれた気分だった。彼女の瞳孔がやたらと開いていたのは、そういうことだったのだ。

2週間ほど経った週末に、またラウラから電話が鳴った。私はイリーガルな地雷女はまっぴら御免と電話を無視していたが、電話は何回も鳴った。相変わらず出ないと、今度はショートメールが入ってきた。退屈だから遊ぼうと。
私のお尻また見たくない?と。
あの時瞳孔がパックリ開いてギンギンにキマッていたわりには私がお尻星人であることをきちんと見破っていることに、不本意ながら笑ってしまった。ガンダムスタイルだけど、あの身体は絶品だなと、また男のどうしようもないスケベ心がむくむくと起きてきた。私はたまたま取っておいた英語の辞書と自分が伝えたいことを照らし合わせながら、丁寧に彼女に返信した。あなたが違法な薬物をオレの前で使わないのなら、また遊びましょう、と。OKOK今からあなたの家に行くとすぐに返信が来た。不安だった。だがしかし身体は勝手に部屋を片付け始め、急いでコンビニにコンドームを買いに行った。男というものはひたすらに悲しい生き物である。女の柔肌の前には銃も剣も意味は無いのだ。
秒速でOKOKと返信してくるラウラを私は信用するはずが無かった。彼女を駅まで迎えに行く。改札口越しに階段を降りてくるデカい彼女は一目でわかったが、私は出来るだけ彼女と目を合わせないようにした。家に入っても、ベッドですぐに服を脱ぎ始めて素っ裸になって開脚されても、私はひたすらに彼女の身体しか見なかった。隣から壁ドンされるほどに彼女は獣のような声で叫び続けた。目を合わせまいとドギースタイルでファックしつつも、悲しいかな狭い部屋の窓に映る彼女は完全にイッた顔をしていた。それはファックによるものでは無く明らかにMDMAだった。もういいやどうにでもなれと思ってしまうと、私もようやく吹っ切れて、痩せて軽くなった自分の身体を楽しむかのように高速で突き倒してやった。濁音の混ざったよくわからない言葉で彼女は何度も昇天していた。

もちろん彼女は翌朝も私にコレを食えと錠剤を勧めて来たが、ひたすらに私は断った。今度は私の家に遊びに来なよと言って、彼女はまた走って出ていった。このコラムの第一回に書いたマーくんよろしく、どうして私の周りにはこんなエキセントリシティでジャンキーなヤツばかり集まるのだろうと少しだけ凹んだ。今になって思うのは、きっとみんな、私に無いものを持っているからだ。人は無い物ねだりの渦の中で生きている。同じ趣味嗜好の人どうしが集まるのも悪く無いが、それでは所詮その域は出ないのだ。馴れ合いの中で底が見えてしまうよりも、掘り下げて行くほうが生きていて面白いのだ。それがたまたまイリーガルに塗れた連中が寄ってくるだけだと思っている。

夏も終わり秋になり、たまたま、当時の昼の仕事で北九州にしばらく通わなければいけないことになった。戸畑に住んでいるというラウラの顔が浮かんだ。何度も書くが、彼女は身体は絶品だった。火遊びだと知りつつも、火遊びこそ大人の嗜みかと自分に言い聞かせ、私は彼女にメールした。OKOK no problemとすぐに返信が来た。
世界共通の言語であるメイクラブだけで異文化コミュニケーションするのももちろん悪く無いが、私はラウラと同じ土俵で肌を合わせたいとも思った。彼女は甚だしいジャンキーで、きっとシラフでファックすることなんか無いのだろうと。そんな彼女と同じ土俵に立つ方法を考え、ネット上で色々なことを調べた。その時ヒットしたのが、市販の風邪薬だった。今でも日本で毎日一生懸命その風邪薬を製造・販売している方々に敬意を表し、その具体名は伏せておく。
その風邪薬は普通なら1回3錠飲むと咳が止まる効用があるのだが、ちょっと間違って15錠くらい一気に飲んでしまうと、咳が止まるどころか多幸感に包まれ、穏やかな時間の流れを感じることが出来ると書いてあった。私が尊敬してやまない故人である中島らも先生もその風邪薬を大いに推奨しておられ、いっそのことラウラとコイツで遊んでみようと思ったのだ。イリーガルでは無い。2人で、ちょっと間違って15錠くらい一気にその風邪薬を飲んでしまうだけだ。私のポリシーも守られて、本当にネットに書いてある通り多幸感に包まれるのなら、それはそれでハッピーかな、と。

ラウラに会う事前にMDMAは食うなよと言っておいたが、やっぱり彼女は瞳孔が開いていた。まぁしょうがない。言うだけで期待なんかしていない。でも、それならこれも飲んでもらおうと、私は風邪薬の瓶を彼女の前にトンッと音を立てて説明した。

ラウラ、君はせっかく日本に来たのだから、「WABISABI」を知るべきだ。「侘び寂び」だ。僕は英語が上手に話せないしスウェーデンの言葉も喋れないから、上手に侘び寂びを説明出来ない。君はいつもすぐにファックしたがる。MDMAを食いながら貪るファックは楽しくて仕方がないだろう。でも僕にとっては、それはあまり楽しくないんだ。雰囲気だよ。君は人生で初めてファックした時も、何の前触れなく唐突にファックしたのかい?ノーだろう?せっかく身体を重ねるのだから、ゆったり男と女の雰囲気を味わうといいと思うんだ。これは風邪薬だけど、たくさん飲むとハッピーになるらしい。僕はこの薬を飲んだことは無いけど、インターネットで調べると、コレはきっと侘び寂びを知る素敵な道具なはずなんだ。

よくわからないと彼女は言った。私の下手な英語と、言ってる意味が理解出来ないと。当たり前だ。風邪薬で侘び寂びがわかるのなら、侘び寂びは日本のものだけでは無くとうの昔から世界中千利休だらけになっていたはずだ。ラウラお前はオレに薬を勧めてきてオレは飲んだことがないけど、お前はオレが勧めるこの薬を飲んでくれるか?日本の侘び寂びを知りたいか?と聞くと、彼女は案外ノリノリでやってみようと言い出した。シメタと思った。私自身経験したことのない、パラレルワールドでのファックが絶品の身体で味わうことが出来る。イリーガルでは無いが、私も大悪党になって魂を売った瞬間だった。

ところがである。2人でひとたび15錠風邪薬を身体に流し込み、しばらくすると、ファックなんかどうでもいいほどの多幸感に包まれた。それはあまりに強烈で、自分が見るものや触れるものが全部違う世界のものであるように錯覚した。まさにパラレルワールド。お互い裸になって抱き合う。それだけで呻き声が漏れた。とてつもない世界に引きずり込まれたと思った。彼女も同様だったらしく、ずっとコレチガウハカゼグスリと言っていた。こんなものを風邪薬として売っている日本は本当に侘び寂びの国なのか、全然違うじゃねーかとパラレルワールドの中で1人突っ込みした。
僕らは人間で良かったね、人間だからこのような幸せが味わえると言うと、彼女はイェースイェースと幸せそうに目を閉じて笑っていた。

絶好の玩具を手に入れたと大悪党に成り下がった私は思っていたが、その風邪薬を使う遊びにもルールがあり、一回15錠飲むと、出来れば1週間、少なくとも4日くらいは開けないと同じ快感は味わえないとネットに書いてあった。それを守らない奴が中毒化してしまい、飲む量が増えて抜け出せなくなると。それが誤算だった。一緒に使う相手を間違えてしまった。
最初はきちんとルールを守っていたが、しばらく北九州、ラウラの部屋に住み着いてしまった私は、お互いの甘さに心と身体を委ねてしまい、開ける期間が3日、2日と短くなっていき、量も20、30、と増えていった。慣れてきた2人はパラレルワールドの中でファックすることも覚えて、それはそれは侘び寂びに満ち溢れたメイクラブを楽しんだ。相手の感情だとか嗜好だとか考えていることだとかを一切気にしなくていいけれど、それでも相手を思いやるスロウなファックが、私にとってすごく楽で天国のようだった。昼間の仕事の給料は安く、将来がまともに見えなかった当時の私にはうってつけの玩具だったのだ。何事にも変えられない将来の不安を、白くて大きくて美しい身体と、見た目には何の変哲も無い白い錠剤が全部忘れさせてくれた。

部屋のフローリングに白い錠剤が1つ2つ転がっていても何の感情も湧かないほどに、私とラウラはその風邪薬に全てを持っていかれ始めていた。まるで夏の暑い日にビールを喉に流し込むかのように、2人で瓶から直接ザラザラと音を立てて風邪薬を飲んだ。量が増えれば増えるほどに強烈で、完全に私とラウラは廃人になり掛けていた。

たくさん飲んでも現実世界の記憶まで無くすことはそれまで無かったが、ついにその日はやって来た。
ラウラはもともと生粋のジャンキーだったので、イリーガルだろうがその風邪薬だろうが、「寸止め」を知っている。これ以上やると大変なことになるというのを、脳というより身体が知っているのだ。ところがだ、酒もろくに飲めない上に、頑なにイリーガルな薬物を固辞してきた私は、とどまるところを知らなかった。もうその頃は、一瓶飲むのは当たり前になってきていた。戸畑にある量販店のその風邪薬は、私とラウラの爆買いでいつだって欠品していた。買い込みまくっていた私達は廃人そのものだった。でもその時は私のほうが遥かに廃人だった。一瓶飲んですぐに、もう一瓶蓋を捻って、ザラザラと流し込んでみた。都合二瓶だ。毒を食らわば皿までというが、そんな優しい感情じゃなかった。毒だろうが皿だろうが地球ごと食ってやる感情だった。そこまでは鮮明に憶えている。
その後消化を良くするために水を飲もうとキッチンに立った瞬間から記憶が朧気になる。コップに水を注いで飲み干し、ラウラのもとに行こうと歩いた時、目の前が真っ暗になった。耳だけがまだ生きていて、ドーンと自分の身体がフローリングに叩き付けられる音と同時に、ラウラの叫び声が聞こえた。カムバックカムバックとしきりにラウラは叫んでいたのがわかった。何言ってるんだラウラ、僕はココにいると、きっと私は夢の中で呟いていたのだろう。ラウラが発狂しているのがわかった。でも、私はひたすら多幸感を貪っていた。ラウラ泣くなよ、どうして泣くことがある?僕らはこんなに幸せだ。ヘイ!ヘイ!!ヘイ!!!と1秒おきにラウラが私を呼び戻そうとしていたのがわかったが、それさえも次第に聞こえなくなっていた。

目が覚めて、まず思ったのは、酷いアンモニア臭と、それ以上に更なる不快な臭いだった。そして、ベッドしかない1DKのフローリングの部屋だった。
パンツの中がいつもと違う感覚で、ようやくそこで私は自分が脱糞していたことに気がついて驚愕した。頭がボーっとする。それでもこの異様な事態にひたすら焦った。携帯を見ようと当時のパカパカ式の携帯を開いたが、電源が切れていた。外は夕暮れだった。なんだこれ、ラウラは?充電器で携帯の電源を確保し、オンにしてみると、おびただしい量の着信とメールがあった。一番驚いたのは、ブっ倒れた夜から自分は36時間近く眠っていたことだ。もちろん仕事関係の着信がほとんどで、ついには実家からも何回も着信があった。大量の風邪薬を消化しきれていない白い下痢状のクソとションベンは乾き果て、1人味わう地獄絵図である。
ラウラはどこに行った、私はラウラに電話した。しかしラウラの携帯は電源が入っていないとアナウンスが流れる。メールも送ったが、アドレスが変わっていた。想像でしかないが、きっと彼女は私が死んだと思ってパニックになったのだろう。部屋の中のものはあらかた無くなっていた。
すぐに電話が鳴る。昼間の仕事の上司だった。しまったと思った。電源を入れてしまっているので、目が覚めたことが向こうにはわかっているはずだ。当然着信音は鳴り止まない。事の重大さが身体と脳に染み渡っていき、私は恐怖でブルブル震えだした。電話に出て何と言えば良いかわからない。でも、電話には出なければならない。大量の汗が噴き出てきた。電話はずっと鳴り止まず、観念して電話に出た。大丈夫か!大丈夫か!良かった今どこだ!まくし立てるように上司は話す。私は精一杯のウソをついた。よくわかりません、今、知らない部屋にいます、とだけ答えた。上司は心底ほっとしたの声で良かった生きてた、と呟いていた。また落ち着いたら電話します、よくわかりませんが、僕は無事ですと言って電話を切った。

運が良かったのは、遠のく意識の中で倒れて行く時、頭をフローリングに打ち付けてケガをしたのが大ラッキーで、北九州で暴漢に襲われていたというストーリーが出来たことだ。しかも、その電話が繋がらなければ警察に届けようというタイミングで、まだ警察沙汰にはなっていなかったのも超絶ラッキーだった。当然ながら仕事関係の人々には大きな迷惑をかけた。土下座して謝り倒してもお釣りが来るシチュエーションなのに、逆にみんな心配してくれた。心がひどく痛んだ。一生分の幸運をココで使ったかもしれないと思った。暴漢に襲われたことを警察に届けるかと実家の家族や会社から言われたが、自分はそれを望まないし今生きているからそれで良いと冷静に固辞したが、心中は死ぬほど焦りまくった。
ラウラにはそれから何度も電話したが、終ぞ繋がらないままだった。彼女にも謝らなければならなかったし、私は生きていると直接伝えたかった。メアドは変わってしまったし、携帯の電源はずっと入っていないから、彼女は未だに「あの頃一緒に遊んだ日本人の男は死んでしまった」と思っているかもしれない。彼女はあの部屋に戻ったのだろうか。クソやションベンは一応片付けておいたが。

だいたいいつも何かにキマッている彼女だったが、ほんの少しの隙間に、シラフで話をしたことももちろんある。そんなにドラッグにハマると抜け出せなくなるぞ、と。言っても私もその時ブロンにドップリだったから全く説得力が無かったが。
彼女は虚ろな目で、just fantasyとだけ答えた。直訳すれば「だだの空想の世界」だ。その意味を深く理解することは出来ないけど、ファンタジーはファンタジーであり現実の世界とは違う、私はいつか抜け出せるわと言いたかったのだと思う。
ただ、大きなきっかけでも無い限り、抜け出すのは難しいはずだ。私はあの時は人生の中である種のご褒美的な期間だと割り切ることが出来た。ご褒美こそファンタジーなのだ。ファンタジーと同じくらいのインパクトが無いとご褒美にはならない。皆、与えられたご褒美に目を輝かせるのは、そこに普段とは違う特別な感情を抱くからだ。褒美が当たり前になっては、褒美で無くなってしまう。

薄れて行く意識の中で見た彼女が私の中では最後になったが、ラウラも尋常じゃないほど焦っただろう。彼女が未だに私が死んだと思っているのなら、それに懲りて真っ当な人生を歩んでいてほしいと思う。本当に短い時間しか知らないが、瞳孔が開いていない彼女は、普通の女の子で、可愛らしく愛嬌のある子だったからだ。ドラッグやろうとやるまいと、それはソイツの勝手だが、まだ現実の世界に戻るチャンスがあるのならずっとそっちがいい。
世間は世知辛いが、たまにやってくる幸せを、世知辛さが隠し味になってちょっぴり幸せレベルを上げてくれる。それが人生を楽しむということなのかもしれない。
ずっとドラッグ塗れで、たまにやってくるシラフが幸せなんてのはなかなか有り得ない。なぜならやはり世間は世知辛いことに変わりはないからだ。皆、現実と闘わなければいけないのだ。

Fantasy is beautiful, 
but the reality is much more beautiful.

TOEICで高い点数取ってドーパミンをドバドバ出すために、私はまた夜な夜な机に向かう。



ドーベルマン/消えた狂犬
https://youtu.be/-rHMDPw4Yjk
「サイコパス」という言葉がある。

読むと、
反社会的人格の一種を意味する心理学用語であり、主に異常心理学や生物学的精神医学などの分野で使われている。 その精神病質者をサイコパス(英: psychopath)と呼ぶ、
とある。

社会性に乏しく、人の気持ちをあまり理解せず、基本的には自己中心的な考えの塊のような人を指す。
私はまだ完全なサイコパスに遭遇したことは無いが、それに近しい特性を持つ人ならば2人知っている。1人は音楽に全く関係無い人なので触れないが、もう一人は、今回書こうと思う「カワキタさん」である。実質的には私のドラムの師匠にあたる。

サイコパスに近しい2人に共通しているのは、

・自分の考えに絶対の自信を持っている
・目的達成のためには手段を選ばない
・観測、分析、予測、表現の精度が非常に高く、だいたい本人の発言や見立て通りに事が運んでいく

というところだ。ほぼ神通力に近いものを持ち、やもすると教祖になれる資質がある。
その人を好む好まないは別にして、少し離れたところから人間として見る分には非常に興味深い人たちだ。
カワキタさんには感謝してもしきれないほど世話になったが、最終的には、私は彼と離れることを選んだ。
カワキタさんに関する思い出の曲というのは、無い。彼とは2つの楽曲を作ったが、その曲を描いたのは彼で、歌詞こそあれど題名が無く、その曲を作り上げるまでに私はノイローゼになるほどクリック(電子メトロノーム)を聴きまくった。だから彼とのエピソードを書こうと思った時に、「ピイッツカッツカッツカッツと」いう、リズムマシーンによって作り上げられた電子音が真っ先に思い浮かんだ。


3回前に書いたイイチロウさんが長崎を突然出てしまってからすぐ、私はカワキタさんに出会う。出会った場所はスタジオの休憩場所だったことは覚えているが、どうやって話すようになったかは覚えていない。彼は最初気さくなお兄ちゃんという感じで、色んな楽器が出来るが一番得意なのはドラムだと言うのを聞いて話が盛り上がり、仲良くなったのがきっかけだ。
身長が185cmを超える大柄な体格のカワキタさんは、こちらもイイチロウさんと同じ当時25歳くらい。イイチロウさんが東京に行ってしまい、兄貴分がいなくなった失恋状態の当時の私にとって、偶然にも次の良いお兄ちゃんを見つけたという感じだ。

「あー!聞いたことある!北島三郎の『与作』をカバーしてteens優勝したバンドでしょ?あれのドラム、君だったの?」
「ですです!へへへ・・・」
「なんだよそーだったの、で、今どんなことしてるの?今もそのバンドやってるの?」
「いやー、もうギターが東京に行っちゃったので、今は色んなバンドのヘルプやってます」
「へいへいへーい、なになに、もう職人みたいなことしてんじゃーん、すごいね!」
「いやー、まだまだです、実は、イイチロウさんっていう人についこないだまで色々教わってたんですが、その人いなくなっちゃって。その人にもっといろいろ教えてもらってもっと上手くなりたっかったんだけど・・・・、もったいなかったです」

イイチロウさんの名前を出した瞬間、カワキタさんの顔は真剣になった。

「あー、イイチロウね。知ってるよ。あいつ東京行ったんだってね」
「おおおおお!やっぱり知っておられるんですね!!イイチロウさんは東京のどこに行ったかご存知ですか?」
「いやー、会ったらちょっと話すくらいだったし、連絡して会ったりするような仲では無かったからそこまでは知らない」

今思えば、ニコニコしながら調子の良い言葉を発するカワキタさんに、違和感があったと言えばあった。 
だからこそ、イイチロウさんの名前を出した時、なぜかカワキタさんの顔がマジになったのを覚えている。 

会話を交わしてまたお互いのスタジオに戻り練習した。その日の練習中に、私が入っているスタジオの窓からカワキタさんが私のドラムを覗いているのがわかった。
イイチロウさんを知る人、おそらくイイチロウさんと同じレベルくらいのドラマーだと思われるカワキタさんに、私は精一杯アピールした。確かに、すでに「街の高校生レベルのドラマー」ではなく、そこそこ叩けるドラマーくらいにはなっていた私は、どうだこれがオレのドラムだ兄貴見てくれ!的なテンションで叩いた。
練習後、カワキタさんが笑いながら「良いドラム叩くじゃん、ちょっと電話番号教えなよ」と声をかけてきた。嬉々として私は電話番号を渡した。

その2日後くらいに、本当にカワキタさんから電話がかかってきた。
今、2つ曲を書いていて、歌詞も完成している、その曲を本格的にレコーディングして色んなレコード会社や事務所に持っていこうと考えているが、どっちか一つでもいいし、何なら二つとも叩いていいから、レコーディングでドラムやってみる?というものだった。
音速で「よろしくお願いします!!」と返答し、その数日後に私はカワキタさんとスタジオに入ることになった。


だいたいスタジオに入る時は、個人であれば1~2時間、アンサンブルであれば2~3時間、というのが自分のルーティンだったが、驚いたのは、カワキタさんは7時間もスタジオを押さえていた。金の心配はしなくていいからとのことだったが、ドラムだけで、しかも7時間、一体何をするのか最初はよくわからなかった。

当時としては画期的だったマッキントッシュのパソコンをスタジオに持ち込み、PA(スピーカーと音楽機材を繋ぐ大元の機械のようなもの)に繋げて音を鳴らした。やってもらうのはこの曲だ、と。「題名はまだ無い」と言われ驚いたが、そんなもんかとも思った。 
2曲ともドラムはパソコンによる打ち込みで機械的な音だった。というより、どのパートも全てパソコンによって打ち込まれ、ボーカルだけはカワキタさんの低い声だった。ドラムは全く難しくなかった。正直、え?こんなもん?これやればいいの?ってな感じだった。 

「どう?やれる?」と言ったカワキタさんに、「これをこのままやればいいんですよね?たぶん楽勝です!」と自信満々に答えた。 
カワキタさんがアコースティックギターを取り出してアンプに繫ぎ、「じゃあオレのアコギと声と君のドラムでやってみようか、オカズ(ブレイク)は適当に簡単なヤツで良いよ」と私に声をかける。私は自分仕様のドラムにセットを組み直し、至極シンプルなアンサンブルが始まった。 

とりあえず走らない(BPMはキープする)ことだけに注意した。あまりにも単調な曲だったので、オカズは自分なりに凝ったオカズを組み入れた。新しい兄貴分に気に入ってもらいたくて、必死にアピールしたつもりだった。 

ところが、である。 

すでに曲の途中から、カワキタさんは鉄仮面のような顔になっていった。私はその時、この人は歌う時は真剣な顔になる人なんだくらいにしか思わなかった。しかしそうでは無かった。 
1曲やり終えた後すぐに、カワキタさんはマイク越しに私に語りかける。「ねぇ、お前さ」と。呼称が「君」から「お前」に変わった瞬間だった。 

「ねぇ、お前さ」 
「は、はい?」 
「真剣にやってる?」 
「え?」 
「いや、だから真剣にやってるか?って聞いてんの」 
「え?え?いやもちろん真剣です」 
「本当に?」 
「・・・・は、はい、真剣にやってますけど、あの、何か・・・・」 
「わかったいいや、もう一回ね」 

なんだこの人急にすげぇ雰囲気変わったとビビった。185cmを超えるガタイの良い体格が一層デカく見えて、カワキタさんが持つアコギが小さく見えた。 
もう一回同じ曲を2人でやる。ただ、カワキタさんの顔は、鉄仮面のように冷たいままだった。 

「あのさ」 
「・・・・はい」 
「真剣にやってる、つったよな?」 
「は、はい・・・」 
「じゃあなんでさ、スネア(最も主となる太鼓)の音がバラバラなわけ?」 
「・・・え、えーと・・・・、バラバラ・・・・ですかね?」 
「なんで余計なオカズ入れるわけ?」 
「え・・・・?」 
「さっき聴かせたじゃん、んで簡単でいいって言ったじゃん、そんな複雑なブレイク入ってた?」 
「い、いい、いいえ、入ってませんでした」 
「だよな?」 
「はい・・・・」 
「スネアはバラバラ、オカズはダサい」
「・・・・」
「あと、なんで左足のカカト(ハイハットシンバルを踏む左足)は動いてないの?」 
「え・・・?」 
「ずっとハット踏んだまんまじゃん、左足動かさないで、どうやってBPMをキープするの?」 
「・・・・すみません、気にしたことなかったです・・・」 
「これがteensで優勝?」 
「・・・・」 
「今の高校生はこんなもんか?もうちょっと真剣にやったらどうなの?」 

何なんだこの変わり様。 
私はカワキタさんが怖くなったというより、気持ち悪いという印象に変わった。ゲームのボスキャラが最終形に進化するような、本当の人間性を見た。 

真剣にやるというのはこういうことだと、私のセットに座ったカワキタさんが叩き始めた。同じ曲を。 
正直、むちゃくちゃ上手くて驚いた。目が点になった。イイチロウさんとは全くタイプの違うドラムだった。イイチロウさんのドラムをセクシー系とすれば、カワキタさんのドラムは清純派系だった。一寸の曇りも無い真っ直ぐなパワードラムだった。スネアの音は本当に一定で、全ての太鼓とシンバルの音の粒が綺麗に揃っていた。気持ち悪い人だとは思ったが、実力は本物だと思った。 
ただそのあとに、カチンと来ることを言われる。 

「真剣にやってますってんならそれはそれでいいけど、イイチロウみたいなヤツから教わるからそんな変なドラムになる。考えを改めろ」と。 

頭に来た。イイチロウさんをバカにされるのは許せなかった。許せなかったがしかし、カワキタさんのドラムはガチだった。イイチロウさんと同じレベルの衝撃をカワキタさんから受けた私は、黙ったまま何も言い返せなかった。 
ここまで1時間。まだその日のスタジオは6時間残っていた。そこからの6時間は、その「クリック」を使っての特訓が始まった。私がクリックに出会った初めての時だ。ドラムセットは、ハイハットとベードラとスネアだけを残され、他は全部外せと言われた。ひたすら8ビートだけを延々と刻むことを命じられた。 

まずは、これからドラムをやるにあたって、ルールがある、と。 
・脇を締める
・左足のカカトはクリックに合わせて踏む 
・スネアは常にリムショット(太鼓の縁を咬ませて叩く)


結局、それまでに色んな人からそれなりの手解きを受けてきたものの、吹奏楽をやる人々が基礎練習でやるようなメトロノームを使った練習をしたことがなかったこともあり、クリックを使ってBPMをキープすることに非常に苦労した。課題曲と同じBPM120(0.5秒に1拍)を5分崩さずに叩けるようになるところまでで、残りの6時間は過ぎてしまった。クリックに付いていくのが精いっぱいで、BPM120を自分で操るなんて夢のまた夢だった。 
帰りのバスの中で、カワキタさんの狙いは何かを必死で考えた。一体あの人はなぜ自分に声をかけたのか。おそらく、もうすでに最初に出会った日に見た私のドラムの粗(アラ)を見つけ出し、もともとスパルタレッスンを施すつもりだったのは間違い無いと思った。ではなぜ私なのか。そこがわからなかった。別にカワキタさん自身がレコーディングの時に叩けばいいだけの話で、わざわざ私のような下手なドラムじゃなくてもいいはずだ。確かにクリックを使ってドラムを叩いたことなんて無かったし、貴重な体験ではある。ただ、クリックに塗れて刻む8ビート、私がクリックを支配するのではなく、クリックにキリキリ舞いにされながら刻むドラムはひたすら苦痛だった。
貴重な経験ではあるが、苦痛。美味しいんだけど値段が高い料理と向き合っているような気持ちになり、どえらい暖簾をくぐってしまったと思った。 

それからしばらく私はやはり頭がおかしくなるほどにカワキタさんとクリックに支配され続けた。余計な音楽も聴くなと言われ、そのクリック音が120分延々と録音されたMDを渡され、通学中に好きな音楽を聴く時間があるのならこのクリック音をひたすら身体に刻み込めという指示だった。頭の1拍目はホイッスル(笛)の音で「ピィッ」という音、それ以外はオモテ拍に本物のアナログメトロノームのような「カッ」という音、ウラ拍には無機質音の「ツ」という音が、1分間に120拍のペースで、延々と流れ続ける。 

ピィッツカッツカッツカッツ
ピィッツカッツカッツカッツ
ピィッツカッツカッツカッツ
ピィッツカッツカッツカッツ
ピィッツカッツカッツカッツ
ピイッツカッツカッツカッツ

ずっとこれを通学中と家での練習で聞き続けた。そりゃ頭もおかしくなるというものだ。我が家は仏教徒で真宗大谷派なのだが、その念仏が可愛く聴こえるほどクリックに悩まされ続けた。 
カワキタさんとのスタジオレッスンでは、クリックになんとか付いていけるようになったものの、今度は最初にルール設定された「脇を締める」や「左足のカカトをクリックに合わせて刻む」がおろそかになった。否応なくカワキタさんの罵声とスティックが飛んでくる。真剣にやろうとしていないから出来ない、というのがカワキタさんの言い分だった。

同じ人間なのになぜ出来ない、出来ないのなら真剣にやってない、だからお前は不真面目だ。

ああこれか、本で読んだことがある。これがサイコパスか。
バカとか変態とかとは全然違うと聞いていたが、何を言ってもダメだと思った。ひたすらクリックにしがみつくしかなかった。

最初のスタジオから1ヶ月ほど経った頃、ようやく私は8ビートだけならクリックを操れるようになってきた。その次は最初のスタジオの時の課題曲に戻り、オカズを入れつつクリック通りに叩けと指示が来た。ハイハットとスネアとベードラ以外の太鼓とシンバルをセットに加えることを許された。久しぶりに自分仕様のセットで椅子に座った時は「多いな太鼓」と思った。決してたくさん太鼓を置かない自分のセットでさえ豪勢に見えた。久しぶりに鳴らす他のシンバルや太鼓の音が気持ちよく、テンションが上がった。
そのテンションのおかげか、案外8ビートだけよりも簡単にクリックに合わせてオカズが入れられるようになった。 
するとカワキタさんは、更に恐ろしいことを言い始めた。 

「よし、オモテはOK。ここまでは誰でも出来る」 
「お、オモテはOK?ってどういう意味ですか?」 
「今までお前がやってきたのは、打楽器やる人間ならだれでも出来るようになる、オモテのクリック」 
「・・・・はい?」 
「だから、お前がやってきたのは『オモテ』なの、オ・モ・テ!」 

言っている意味が理解できなかった。 

「今度は『ウラ』で叩けるようになること。期限は2週間」 
「・・・・ウラ???」 

説明書きするとこうだ。 
オモテのクリックでは、ピィッツカッツカッツカッツの、「ピィッ」と「カッ」の時に太鼓の音を鳴らすが、ウラのクリックで音を鳴らす場合は、ピィッツカッツカッツカッツの「ツ」で太鼓を鳴らさなければならないということだ。 
文字に起こしても理解出来ない人がほとんどだろう。物凄く砕けた言い方に替えると、ずっと今までカラスは黒だと思っていたものを、これからは白だと思うようにしてください、今日から黒は白なんです、と言われたようなものだ。 
延々と流れ続けるクリック音を逆にして頭で数えながら8ビートを刻もうとしても、結局オモテになってしまったり、クリックの容赦ない波に飲まれたりと、ここでもカワキタさんの罵声とスティックが飛んできて、挙句には蹴りまで入れられるようになった。なぜわざわざ認識しにくいウラで刻まなければいけないか私には理解不能だった。 

しかしながらスパルタというものは不思議なものだ。普通に考えればモチベーションを下げるようなことしか言われないはずなのに、追い込まれると自然に出来るようになってしまうのだ。コツを掴むのにはそれほど時間はかからなかった。ピィッツカッツカッツカッツの、一番最後の「ツ」を、頭に持ってくれば良いことに気付いた。ゆえに、頭の中では「ツピィッツカッツカッツカッ」と聴き取るようにした。 
するとどうだ、今まで味わったことの無い音の世界がスタジオの空間を包み始めた。クリックのけたたましい電子音が太鼓と混じることなく、太鼓の音と音の間に綺麗に入り込み、プラスチック定規の目盛のように頭の中で刻まれ続けた。止めない限り目盛はずっと刻まれていく。そして、左足のカカトを踏むリズムと、自分の首と頭を揺らすリズムが綺麗にシンクロした。ビックリだ。なんだこの世界。私は今リズムの波の中にいて泳いでいる。今までの8ビートは何だったのかと、全ての感覚がリライトされた瞬間だった。 
さらに慣れてくると、ピィッツカッツカッツカッツの「ピィッ」の「ピ」が、実は「ンピ」という風に、若干タメ(意図的に遅れさせている)ているのがわかった。最後の「ツ」と「ピ」に行くまでの空間が、他の空間より僅かに長いことに気付く。戦慄である。自分の勘違いなのか、本当にそうなのか、カワキタさんに投げかける。 

「へぇ、わかった?気づいたか。それが真剣にやるっていうこと。真剣にやってりゃ聞こえてくるんだよ」 

と、気持ち悪い顔でニヤニヤ笑っていた。 

クリック音の最初の音をホイッスルにし、わざと遅らせることによって、ベードラとスネアが真っ直ぐに伸びる(カワキタさんの表現。音の出方が伸びる、という意味)ようになる。脳の意識さえ変えてしまえば、外にでてくる音が変わるという、カワキタさんのロジックだった。

2週間の期限通り、私はウラ拍でもそれなりにしっかりした8ビートが刻めるようになった。カワキタさんと出会って約2ヶ月ほど、ドラムはこんなにも損で面白くない楽器かと思った時もあったが、終わってみれば力が付いたと思えるレッスンだった。この時のドラムが自分のキャリアハイだったと思う。この時から先、真っ直ぐなストレートの8ビートであれば相当に気持ちいい音を鳴らすと方々にて評価された私の礎となるレッスンだったのだ。 イイチロウさんのことをバカにされて頭に来たこともあったが、あのままイイチロウさんを師事していたとしても、クリックを駆使した真っ直ぐな8ビートが叩けるようになったかどうかはわからない。
結局、私はカワキタさんに拾われ、救われたのだ。 

どういう感じでレコーディングが進んでいくのかビデオで見せてやるとカワキタさんが言うので、初めて彼の家にお邪魔した。市内中心地から路面電車で10分ほど走った1ルームマンションが彼の棲家だった。
独り暮らしにしては広い。おそらく15畳の1ルームだったと思う。でもそれが3畳一間に見えるほど、パソコンと音楽に関する機材がびっしり並べられていた。ドラムセットや他の楽器は入りきれないので、馴染みの楽器屋やレンタルルームに全て置いていると言っていた。
そう、カワキタさんは色んな楽器が出来るが、家にある楽器はアコギが1本だけ。 どちらかというと、ミュージシャンというより、ディレクターやプロデューサーの部屋のように感じた。 

最初にスタジオに入った時にケチョンケチョンに言われて以来、私の中でカワキタさんはおっかない人でしかなかった。人間らしい話というか、クリックを使った8ビート以外の話をほとんどしたことなかった。他のレコーディングの様子のビデオを見て色々レクチャーを受けた後、カワキタさんに聞きたかった話をぶつけてみた。

彼はなんと3歳の頃からピアノをやり始めたそうだ。中学を卒業するころには、ピアノだけではなく、ドラムもギターもベースもひとしきり出来るようになっていて、一番得意なのはドラムだったそうだ。
それだけ色んな楽器が出来たのならば、高校の時はさぞかし良いバンドも組めたんじゃないのかと聞くと、

「お前も何となくわかってると思うけど」
「はい」
「オレは馴れ合いが嫌いなの」
「・・・・はい」
「同い年くらいの連中のなかで、馴れ合いじゃなくて、本気で音楽をやりたいと思うヤツがいなかった」
「・・・・はい」
「だから、一人でやるしかないかな、と思った」
「・・・・そうなんですね」
「オレはさ、本気で音楽でメシが食えるようになりたいの」
「・・・・はい」
「でも、楽器だけで言うと、オレはまだプロになれるレベルじゃないし、もう25だから遅いんだよね、楽器でメシを食おうと思うのは」
「・・・・そんなもんなんですかね」
「オレは3年前くらいにもう間に合わないかなと思ったから、制作側に回らないと音楽の世界では生きていけないな、と思った」
「・・・・なるほど」

かつてないシリアスな顔で、

「曲を作って、世の中に乗せて。そして、どんなメシが食えるか。どんな車に乗れるか。どんな部屋に住めるか。どんな良い女が抱けるか」
「・・・・」
「オレは、それにしか興味が無い」
「・・・・」
「お前、プロになりたいんだろ?ドラムで」
「・・・・はい」
「お前、ドラムしか出来ないじゃん、ギターもピアノも、他の楽器何も出来ないじゃん、曲も歌詞も書けないだろ?」
「・・・・はい」
「だったらこれまで以上に真剣にやらないと、たぶんプロになれないぜ?お前よりうまいヤツなんて、世界中探せば腐るほどいるだろ」
「・・・・だと思います」
「と思ったから、誘ったわけよ」

カワキタさんがニヤニヤした顔に戻った。

「まぁ、レコーディングした曲が、本当に世の中に乗るかどうかはわかんないよ、まだ」
「はい」
「色んなレコード会社とかオーディションに出してさ、それでチャンスをつかむしかないんだよ、オレもお前も」
「・・・・はい」
「お前誘ったのはさ、最初に見た時に、ベードラの音だけは良かったんだよね。リズムはぐちゃぐちゃだったけど、ベードラの音は響いてた」
「・・・・デブですから(笑)」
「そう(笑)」

久しぶりに、二人で声を上げて笑った。


迎えたレコーディングの日。与えられた時間は4時間。予算の都合で2曲を4時間で完璧にやらなければいけなかった。もし私がミスして4時間以上かかってしまうと、次のベースの人のレコーディングから後が全て狂ってしまうことになる。ある意味プレッシャーだった。急いで自分仕様のセットにドラムを組む。ライブの何倍も緊張した。マイキング(セットしたドラムにマイクをセッティングすること)が終わった時点で1時間、残りは3時間。

「いいかー、もう3時間しか無いから」

別ブースからマイクでカワキタさんが話しかける。

「でもさ、お前、この2曲だったら、3時間あれば大丈夫だから。今までやったことを信じて、とりあえず思いっきりやれよ」

もうこの時点で泣きそうになった。鉄仮面のように冷たい人が、そっと差し出してくる優しい言葉。こうやって教祖は信者を洗脳していくのか。

「じゃあクリック流すぞ、オモテとウラ、好きなほうでやれよ」

すぐさまヘッドホンを通してピィッツカッツカッツカッツとクリックが流れてくる。数えることなど出来ないが、おそらく何万回と聴き明かした電子音だ。ゲロを吐いても泣いてもMDプレーヤーをぶっ壊しそうになっても、私は今こうしてレコーディングに挑むことが出来ている。私はウラを選ぶことにし、「ツ」からベードラを踏んで基本通りの8ビートを叩き始めた。ウラから入った私を見たカワキタさんが、ニヤリと笑ったのが見えた。

1曲やり終える。

「いいよそのままそのまま。それでいい、次のテイク行こうか」

カワキタさんが笑っている。うれしい。teensで優勝した時より喜びは大きかった。

レコーディングではあるものの、クリックをウラに取りながら刻む8ビートは、練習の時以上に私の脳を泳いだ。クリックの合間に太鼓の音が鳴り続ける。何度刻んでも不思議な感覚だ。脳から出される信号によって手足が動くのは間違いないのだが、クリック音と自分の太鼓の音と自分の手足が完全に機械化されたような、脳とは別のところで自分がロボットにでもなったような、初めて味わう感覚が広がる。すると今度は、クリックも太鼓の音も鳴っていない無音空間にまで意識が及び始める。思わず声が出る。あまり大きな声を出すとマイクが拾ってしまうので、そーっと「ぬおおおおお・・・・・」みたいな声が出たのを覚えている。
クリック音とドラムの音以外に音は鳴っていないはずなのに、その何もない空間に、世の中に存在しないような音を脳が勝手に作りだして、空間を埋めるように脳全体に響き始める。すげえええ!と声に出しそうになるのをひたすら我慢する。
「無音という音が鳴っている」のだ。
ランナーズハイならぬドラマーズハイだ。ドーパミンが死ぬほど溢れている時間だった。

結局、私は無事に残された時間の中で、世に出してもOKレベルのドラムを合計8テイクほど残した。最初にしては上出来、よくやったと、カワキタさんは初めて私を褒めてくれた。
日を跨いで、ベースギターキーボード、最後の声(ボーカルとコーラス)に至るまで、全ての楽器のレコーディングを見学した。他の楽器の人々は、年はバラバラだがみんなオモテもウラも自由に操る職人ばかりだった。ギターに至ってはなんと当時中学2年生の少年だった。リズムバランスとグルーヴの取り方が独特で、完膚なきまでに打ちのめされた気分だった。残念ながら名前を忘れてしまった。彼はどうしているのだろう、プロになっていないのだろうか。狭い狭い長崎であっても凄いヤツはゴロゴロいるんだなと、長崎を出る直前の数ヶ月の間に隠しキャラがどんどん現れてきた感覚だった。そんな職人達が、私が叩いたドラムに乗せて演奏するのを見るのは非常に不思議な感覚で鼻高々の気分だった。ベースが乗り、ギターが乗り、少しずつ曲としてのカタチになっていくのが面白くて、レコーディングとはなんと贅沢なものかと思った。 

全員の音が録り終わり、今度はカワキタさんの家の機材を使ってミキシングに入った。ミキシングとは実際に録った音を編集することで、音そのものに少しずつ効果を加えて綺麗な音にしていく。ミキシングし始めてから4日目を迎えようとした朝に、ようやく2曲仕上がった。BOSEのヘッドホンから流れてくる曲は美しかった。すごい、本当にこのドラムは自分が叩いたのか。全く実感が無かった。でもまぎれもなく自分のドラムなのだ。窓の外に見えるのは小さい頃に見た初日の出なんかよりずっと綺麗な朝日だった。その朝日が入りこむカワキタさんの部屋で聴く自分の音、自分が関わった楽曲は、とてもとても大切だと思った。 
だがしかし、すぐに不安も抱えた。この2曲のドラムはあまりにもシンプルで全然難しくない。他の楽器はグイグイ動いていて、職人達の技が随所にちりばめられている。私は、難しくないから、簡単だから出来たのだ。私が当時憧れていたプロのドラマー、マットソーラムもロブアフューゾも沼澤尚も椎野恭一もマヌカッチも、みんな簡単にクリックを操り、ウラとオモテの波の中を、難しいフレーズを叩きながら泳いでいるのだ。カワキタさんがドラムでプロになるのをあきらめた年が22歳ならば、19歳の私に残された時間はすでに3年しかなかった。3年でどれだけ成長出来るのか。果たしてこのテンションについていける同世代のミュージシャンと大学で出会う事が出来るのか。完全に日が昇って、通勤や通学でいそいそと歩く人々を缶コーヒー片手に交わしながら、私はこの先もずっと緊張したテンションの中でドラムを続けられるのか、正直、すがすがしい気持ちばかりでは無かった。 

「三流と言えど大学の合格祝いとレコーディングのギャラ替わりに、オレが使っていたペダル(ベードラを踏む楽器)をお前にくれてやる。楽器屋の倉庫に預けているから明日取りに来い」とカワキタさんに電話で言われ、約束通り翌日に私はその楽器屋に向かった。約束は確か昼1時だった。 
しかし、待てども待てども、カワキタさんは来なかった。おかしい。公衆電話から彼の家に電話しても出なかった。ポケベルにメッセージを送っても返事が無い。やはりおかしい。夕方まで待ってもカワキタさんが来なかったので、しょうがないので家まで言ってみた。呼び鈴を鳴らしても、誰も出なかった。 
明日と明後日の聞き間違いかと思い、改めて次の日も昼1時に楽器屋に行ったが、やはり彼は来ない。楽器屋のおじさんに聞いても、そう言えば最近見ないと言っていた。もう一度家に行ったがやはりいなかった。そのマンションの1階の植え込みのところに座り込んで、バスや路面電車が終わる時間くらいまで待ってみたが、やはり彼は現れなかった。一体何があったのか。

カワキタさんに連絡が取れなくなって1週間ほど、行きつけのスタジオで、一緒にレコーディングに参加したベースのおじさん(つっても当時30歳くらいだったと思うが)とバッタリ会った。おおおこないだはお疲れ様でしたみたいな挨拶をしてすぐに、その人から信じられない言葉が飛んできた。 

「カワキタ、しばらく出られないみたいよ」 
「え!!!カワキタさんどこにいるんですか!?連絡取れなくなっちゃったんですよ!」 
その人は、何の事情も知らない私を手招きし、スタジオの外でこっそりと話を始めた。 

何と彼は、闇金、いわゆるヤクザから金を借りまくっていたそうだ。 
そして、取り立てに来たヤクザを半殺しにしてしまったのだ。それで捕まった、と。 
半殺しにしたという事実には、正直言うとあまり驚かなかった。ドラムが下手だという理由だけでスティックを顔にめがけてブン投げてくるような人だったし、実際それで私はメガネ1個割られたし、彼は格闘家のようにガタイが良かったから、喧嘩では誰にも負けないだろうと思っていたからだ。殺していないだけまだいい。 
むそろ、金に困っていたというほうが驚きだった。当時の私はまだバイトもしたことがなく、得られる金は親からの小遣いのみ。ヘルプで色んなバンドのドラムを叩いている時も、ギャラを貰うというより練習にかかる費用を負担してもらっていただけ。「大人の金銭感覚、大人の懐事情」がよくわかっていなかったのだ。 
思えば、カワキタさんとのレッスンのスタジオ代も全部カワキタさんが払っていたし、ワンルームといえど綺麗なマンションだったし、機材を運ぶためのボックスカーも持っていたし、あの人と食うメシはまずかったけど全部奢ってくれたし。
何よりあの部屋にびっしりと置かれた音楽機材だ。いくらかかっているかわからない。そもそもカワキタさんは普段何を生業にしているかも聞いたことがなかったし、平日の昼間も常に音楽に関わっていたような気がする。今になって計算すると、あの部屋にあった機材だけで、おそらく4ケタ(1千万円レベル)は行ってたのではないか。 

そもそもがまやかしだったのかと思った。 

よく考えれば、いきなり私のようないい気になったクソガキドラマーが、自分の懐は一円たりとも痛むことなく、技術やノウハウだけを習得し、挙げ句レコーディングに参加し、楽曲になり、それが世に出るなんて夢のまた夢、やはりまやかしだったのだ。
彼は刹那的に生きるにも程が過ぎた。彼はもともと金銭的に破綻していたのだ。それでも彼は「どんなメシを食って、どんな車に乗って、どんな良い家に住んで、どんな良い女を抱くか」を最優先にした。音楽というツールを使って。 
ただしやはり、凡人の私には理解が出来なかった。出来る範囲のことで出来ることをやるのが自然な形だと思ったのだ。恋愛やビジネスだって一緒だ。同じ目線で話が出来て身の丈にあった相手、ビジネスパートナーを見つけないと、どちらかがいずれ耐え切れなくなって破綻していく。私が今から起業してアマゾンやグーグルやトヨタに切り込んでいったところで話にならないのとおんなじだ。その様は切ない。まさにカワキタさんは破綻して、ブタ箱の中で切ない思いをしているに違いなかったのだ。

一時の感情で人を傷つけてしまうのは当然良くないことだが、気持ちはわからないでもない。ただ、何かをジャッジする時はいつだって冷静でないとダメだ。
そのヤクザを本当に殺して見つからないように隠して完全犯罪にしたか、もしくは口八丁手八丁で取り立てを華麗に切り抜けていれば、彼は本物のサイコパスだったと思う。本物なのか本物じゃなかったのかの違いでしかなかった。であれば、今のうちに彼からは逃げたほうが良い。単なるドラムが上手いめんどくさいお兄さんでおしまいに出来ると思った。感謝こそすれど、もうこれっきりにしよう。カワキタさんとこれから先も同じ目線で話をするのは無理だと思うから。
両親には「カワキタさんという人から電話がかかってきても、オレの久留米の連絡先は隠してほしい」と伝えておいた。それから彼から電話はかかって来なかったそうだ。


悔いが残るとすれば、その時のレコーディングした正式音源を手に入れていないことだ。その後私は自主制作で4枚のアルバムにドラマーとして関わり、アマチュアレベルでは笑いが止まらないほどCDは売れたが、あれほど完璧なドラムを叩くことは出来ていない。重ねて書くが、あの時がキャリアハイだったのは間違いない。
でも大学以降は、身の丈に合った自分の世界が広がり、ゲロを吐いたりドラムが嫌いになることもなかった。自分の範疇で笑ったり泣いたりした。彼の言うことは当たっていた。私は厳しさよりも楽しさを選んだ。だからプロになれなかったのかもしれない。でもそれでいい。しがみついてケツに火が点いて生きていくよりも、楽しい思い出が多い方が面白いだろうから。

まやかしはまやかしでしかなく、目の前の現実は自分の立場で作り上げた作品でしかない。
だったら私は、自分の身の丈に合った世界で、これからも笑ったり泣いたりしながら生きて行く。