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さや侍

「自分で設計して満足できるのは3件目。」
家を建てる時の事なのですが、何処のどなた様が3件も家を建てられるんだ、と思いました。

松本人志の3本目。「さや侍」
松本人志が松本人志ではなかったら、この3本目の話は企画としてありえただろうか?でも松本人志は松本人志なのでこの議論は不毛。
純粋に作品だけを観る(一番のハードルかも)必要も無いとは思うし、松本人志を読み取る必要も無い。
最近では、スクリーンで観る舞台ゲキシネやお笑いライブの中継にもスクリーンを使う。

思いのままに我がままに

松本人志が映画を撮る。
それは笑いという表現媒体を変えてきただけで、映画を撮るという従来の物とは意味が違うと思っていた。笑いというステージはまだ降りていない。

この3作目でオーソドックスといっていい作品を作って来た。
可もなく不可もなく。学生の作品を見せられた。そんな印象もあるが、
ひとりで創っている、孤独な作品(想念)。垣間見せる。勝手に覗いたんですけどね。

松本人志は3作ともに「ノスタルジー」をそのまま乗せてきている。今作は「子連れ狼」がベース。推論。
大筋の流れで最後まで突き進む物語の中で、目先をくらませるような事をしないつくりは王道だけれども、物足りなさを感じる場合がある。それは芝居に噛み締めるだけの力がない時ではないでしょうか。どうでしょう。

役者を自分の世界に抱え込めない。許容範囲が無い。のが監督 松本人志。
見た人ならパッと思いつくのは、殺し屋の3人組かもしれない。
確かに存在が効いていない。物語性に。でも気になるのは・・・・

板尾演じる見張り番にさや侍が罵倒されるシーンがある。
娘は不甲斐ない父を気にしながらも素知らぬふりをしている。
見張り番は娘の本心を曝け出させるために罵倒し続ける。
娘は堪らず父をかばう。

このシーンがまだろっこしい。娘が異様に頑ななのだ。
確かに映像はこういう場面で予定調和になってしまうきらいがある。
松本が撮ったこのまだろっこしさはリアルな感情(間)であり、そう簡単に切り替えられない人(子供)の心理である。松本の経験した譲れない間。
頭のいい子はここで空気呼んで直ぐ合わせる。ホントはいらない。
芝居で真実見せたきゃ空気読んじゃいけない。でも、心変わりするためには凄いパワーがいる。

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サクッといく為には板尾の芝居を変えればいいのだけれども、松本は明らかに子供自身による変化を観たがっていると思われる。それはアリ。

ただ、このこだわりの芝居は何の複線にもなっていないのが残念。ここで完結。
この拘りが結果として作品だったり、物語りに繋がると違う印象(手触り)があるはず。泥臭いとか。
これは全体的にもいえて、断片的で連続性がない構成になってしまっている。
クレッシェンド(感情の加速)になってない。リセットボタンは押しちゃダメなのです。

今作は松本人志の世界(作品)観に他人(観客)が入っていけない。は払拭してあるが、逆に全部説明してある。
子供への想い、子が親を思う気持ちへの理想(想像)も、あまりにも自分が投影されすぎていて、松本人志(大げさに言うと思想)を感じてしまうし、その感じたモノが物語の結果(展開)として出てきてしまうと、自伝度(投影度)が加速するだけで、観ている側に入り込む余地がなくなる。有名人の物語はそうなりがち。
ハズレとは言えないけども・・・。
見終わって、答え合わせした雰囲気に包まれていたように感じる。


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