一人で生きてはいけないが助力があってこそ生きていける。
ここまで、それほど生き切ってきたとは思えない我が人生を振り返っても肉親家族友人をはじめ何十人何百人の…いや数えきれない人たちの恩恵を受けて今に至っていることをしみじみを感じる。
(今ふと思い付いたので、以前に書いたブログを再掲する)
「来し方への感慨」
人には夫々の人生があり、そこに運も付き纏う。
もし別の生き方をしていたなら、一見、失敗に見えても何処でどんな運に巡り合って大きな存在になっていたかも知れない。
しかし現に自分の半生を振り返ったみた時、他の大物に比して取るに足りない存在に過ぎないことを痛感する。とはいえ私にとって、この人生は掛け替えのない幸多き人生だった。それは何といっても楽しい人生だったからだ。
世間には人が勝手に決めた「社会的地位」のようなものがあるが私は職業や所属団体などによって上下の差はないと考えている。
人は成長過程における環境によって違った道を歩み、大抵は自分の意志に関係ない力によって違った職業に就き、各階層の所謂「社会的地位」に振り分けられる。
ある者は何不自由なく育てられ、過去の短い歴史と社会状況の中で設定された特定の教科(約10科目)がよく出来たが故に有名大学を出て高い「社会的地位」を得ていると思えば、ある者は家庭環境に恵まれなかったり己の性格が邪魔して世間体から見て一見、恵まれないように映る道を歩んでいる。
だからと云って、このような結果が幸不幸の分かれ道になっているだろうか。必ずしもそうではない。世間体から見て「高い社会的地位」に就いても多忙や上下からの締め付けの半生を息絶え絶えに生きている人間は幾らでも居る。ただ本人は「自分は人に見上げられて生きている。」と自己満足しているに過ぎない。
幸か不幸かは比較や傍目ではなく、己自身「楽しかったか。有意義だったと感じて生きてきたか。」に掛っている。
「人は死して名を残す。」という。それを目標とし「死後は人からそう讃えられたい。」との思いを抱いて生きている人も少なからず居るだろう。しかしそう成るかどうかの結果が出る時には本人が死んでいて何も知らない。とすれば名を残す事に本人にとっての価値は無い。
況してや親の七光りで地保を得て出世し、得た権力を笠に来て高い高い「社会的地位」を得た者が居たとしたら彼奴は「死して悪名を残す」だけだろう。
以上の通り「社会的地位」なんぞ、そんなに価値あるものではない。
価値ある生き方・人生とは、「人からは信を得、自らはそれなりの満足を得て楽しく生きること」に尽きる。
高が長生きして百年の人生、そんな形を貫きたいものだ。