第3章「我が半」…「公務員 時代」⑥組織 ⑦地方局長会議 ⑧酒の燗番 ⑨ ⑩中級職試験      | 獏井獏山のブログ

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⑥【組織】

 国の組織には国務大臣がトップを務める各省庁があり、これらの本省庁組織は、大阪に所在する造幣局を除いては、全て東京に所在している。

また、各省庁の中には外務省のように出先機関を置かないものもあるが、多くは出先機関を設置している。(注:外務省には、出先機関ではないが「大使館」「領事館」等が各所にある。)

 

出先機関のうち、北海道の札幌、東北地方の宮城県(仙台市)、関東地方の東京都、中部地方の愛知県(名古屋)、近畿地方の大阪府(大阪市)、中国地方の広島県(広島市)、四国地方の香川県(高松市)、九州地方の福岡県(福岡市)にはブロック機関として「局」が設置されており、「局」管内には下部機関を設置している形体が多い。例外もあるが典型的には次の通りである。

 

・北海道「局」はその下部機関として函館、旭川、釧路の名を冠した「事務所」を管轄している。 …同様に、

・東北「局」は青森、秋田、岩手、山形、福島の各「事務所」を、

・関東「局」は茨城、栃木、群馬、千葉、埼玉、神奈川、新潟、山梨、長野の各「事務所」を、

・中部「局」は富山、石川、岐阜、静岡、三重の各「事務所」を、

・近畿「局」は福井、滋賀、京都、兵庫、奈良、和歌山の各「事務所」を、

・中国「局」は鳥取、島根、岡山、山口の各「事務所」を、

・四国「局」は徳島、高知、愛媛の各「事務所」を、

・九州「局」は佐賀、長崎、熊本、大分、宮崎、鹿児島の各「事務所」を、

 それぞれ管轄している。(注:農林省には北陸ブロックがある。)

             

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  ここで、ブロック機関としての「局」の組織の詳細を、私が勤務していた当時の近畿の「局」と「事務所(地方局)」を例にとって記しておく。

 

 先ず、「局」には管理業務を所掌する「総務課(後の総務部)」、監察業務を所掌する「第一部」と「第二部」がある。

職位を上位から挙げると「局長」に次いで「第一部長」、「第二部長」、「総務課長」、「部次長(2人)」、「管区監察官(第一部、第二部に各3人づつ計6人)」、「総務課長補佐」、「上席副監察官(6人)」、総務課の「係長(庶務、会計第一、第二、人事、調整の5人)」、「副監察官(12人前後)」、「係員=総理府事務官(総務・監察部門を合わせて約40人、運転手3人、電話交換手1人、用務員・夫婦で2人)」の約80人である。

 

 次に、「局」の出先(下部)機関である「事務所」(私が入った当時は「地方局」だったが後に「事務所」となる。)の陣容は、所長(当時は「地方局長」)、総務課長、第一地方監察官、第二地方監察官、係員(総務・監察で約9人、運転手、用務員)の約15人である。

なお、6事務所(地方局)のうち、京都、兵庫には「次長」が各1名居り、係員も他事務所より数人多かった。

 これらの職位を「局」職位と比較した順位は、①事務所長(地方局長)は「局」でいえば「第一、第二部長」の次で、「総務課長・管区監察官」の上、にランクされる。②事務所の地方監察官は「局」でいえば「上席副監察官」と「副監察官」の間にランクされる。

 

これを「局」「事務所」を総合的に整理して順位を並べると概ね次の通り。「局長」→「部長」→「事務所長(地方局長)」→「局の総務課長」→「局の部次長」→「京都・兵庫の次長」→「管区監察官」→「上席副監察官」→「地方監察官」→「局・総務課の係長」及び「局の副監察官」→「局・所の係員及び技官」→「用務員」…となる。

 (注:以上は記憶している範囲での、私が入った当時の陣容である。その後は年々組織縮小で職員数も大幅に減少する。)

 

私が入って間もない頃に感じたのは、「局」の課長補佐クラスでも相当胸を反らして威張っていたし、課長・監察官クラスともなるととんでもなく偉く思えた。況してや、その上に君臨する「事務所長(地方局長)」「部長」「局長」は雲の上の殿上人にも見えたものだ。

 

⑦【管内地方局長会議】

 「局」では年に1~2回、「管内地方局長(事務所長)会議」が開催された。

 当日は、「局」の下部機関である福井、滋賀、京都、兵庫、奈良、和歌山の各地方局から「地方局長」(京都・兵庫は次長も随伴)が「局」に集まってくる。殆どの人は午後1時前後に顔を見せ、1時半から予定されている会議が始まるまでの間、各課を一巡する。どの地方局長も「局」の課長や監察官の経験者なので顔馴染の後輩に「おっ、元気でやっとるか。」と声をかけて回るのだ。下っ端の私などは声を掛けられ肩を叩かれたりすると恐縮するしかない。ただ、地方局長が飛ばす軽い冗談で周囲は明るい雰囲気に包まれる。次々と部屋を訪れる各局長の動きは会議に臨む柔軟体操のようなものだ。

 

 会議のメンバーは「局」側から「局長」「第一・第二部長」「総務課長」「部次長」「管区監察官」、地方局側から「地方局長」「京都・兵庫の次長」である。

なお、これに加えて、会議場の設営と雑事を処理する「総務課庶務係の職員」も末席を穢している。

というのも、会議は木造2階の会議室で、木製の長机と椅子を「コの字型」に並べて行われるので、これを並べる設営作業は下っ端の若手職員総出で予め準備しておき、庶務係は、会議が始まって以後のお茶出し、会議資料の配布、要望に応じたコピーの作成など雑用をするために会議に出席してするのである。

会議では局・所業務の計画・実施などについて、「局」の幹部から趣旨説明や方針を地方局側に伝達・指示して後、全体討論されるようだが、当時の私などはその場に居合わせたことが無いので、詳細は分からない。

 

午後1時半に始まった会議は5時頃に終了する。

会議終了後に宴会が始まるのが恒例になっていた。会議出席者は机上に広がった資料を整理してカバンなどに入れたり、トイレに立ったりしながら同じ席で隣席の同士で雑談を交しながら宴会の開始を待っている。

…そして、ここからが若手下っ端職員の出番である。

 

⑧【酒の燗番】

 …若手下っ端職員の出番…とは云っても酒席に着く訳ではない。詰まりは接待役…というより宴席の準備作業である。

作業は庶務係長の指示によって若手職員に役割分担される。

 

私を含む若手男子職員の主な役割は「酒の燗番」である。

酒の燗は庁舎1階の廊下の端にくっ付くような形で建てられた用務員室で行うことになっている。普段は用務員の小父さんと小母さんが衣食住の拠点にしている場所なので、大概の炊事用具は揃っている。

酒の燗は其処に置いてあるカンテキ(七輪)の炭火の上に大きな薬缶を掛けて行うのだが、これにはコツが要る。

 

先ずは、2升も入る大きな薬缶に、一升瓶の酒を入れることから始まるが、酒瓶の蓋を取って、単に瓶を逆さにするだけでは失格である。これでは瓶の酒がコポン、コポンと音を立て乍ら中々で出切らないのだ。そこで、一方の手で逆さにした酒瓶の出口近くを確り握って支え、もう一方の手で酒瓶の底を鷲掴みにしてクルクルと振り回すのがコツである。こうすると瓶の酒が渦を巻いてコボコボコボと勢いよく薬缶の中に注がれるのだ。

 

また、酒の燗が付いたかどうかを確かめるのにもコツがある。頃合いを見計らって薬缶の底に手を当てるのである。薬缶は薄い金属で出来ているので、酒の温度が直に手の皮膚に伝わるのだ。

こうして燗の付いた酒を、先ずは容量が2合くらいの小さな薬缶に移し替える。酒宴の時にだけ使うために小さな薬缶は10個買い揃えてある。小分けした燗酒の入った薬缶が整うとこれを会議室(宴会場)へ運び込む。

会議室の机上には既に用意した瓶ビール、コップや盃と、食堂から運び込まれた盛皿のアテが用意されている。これらの間に燗酒の入った小薬缶も配置される。

 

総務課長の形式的な短い挨拶が終ると各人のコップにビールが注がれ、第一部長の音頭による乾杯で酒宴が始まる。数人の女子職員が小薬缶の酒を出席者の盃に注ぐのは最初の一杯だけである。後は隣り合った同士がお互い注ぎ合い、座が盛り上がると席を立って注ぎに回る人も出てくる。やがて騒めきは会議室内に充満し階下まで聞こえる状況となる。

 

その間も用務員室では次の酒燗のため若手職員は大忙しだ。…大きな薬缶をカンテキの上に掛ける作業は同じだが、この時の、燗の付いた酒の移し替えは、予備の小薬缶が無いので魔法瓶を使うことになる。魔法瓶は日常、各部課でお茶用に使うものだが、酒を入れると臭いが残って後の始末が大変だから1~2個しか使えない。満杯にした魔法瓶は会場に持って行き、小薬缶が空になった都度、充当するために使われるのだが、1個の魔法瓶には5~6合しか入らないから然程(さほど)の時間も経たないうちに空いた魔法瓶が階下に持ってこられる。用務員室ではその度に熱燗の酒を用意しなければならないのでのんびりしてられない。…宴会が終って後片付けまで済ませるとクタクタになる。ただ、燗を免れて1升瓶の底に残った酒と魔法瓶に残った熱燗が疲れ切った身体を解してくれるのが大きな楽しみではあったが…

 

⑨【「局」の主要業務】

 「局」の組織は、管理業務を所掌する総務課と調査業務を所掌する第一部及び第二部に分かれているが、仕事に慣れてくると色んな違いが分ってきた。第一部及び第二部が所掌する監察業務は「局」のメーンの業務であり、総務課は監察業務を遂行するために必要な事務用品など物品の支給、人事管理、給与の支払い、職員の福利厚生、等々縁の下の支えのような、いわゆるサービス業務を行う部署であること、そして採用される職員の配置を見ると、総務課は公務員初級職試験合格者で充当するのに対し、監察業務は中級試験合格者によって充当されているということである。例外を除いて中級合格者は学卒者であり、監察業務に配置されている年配者も殆ど大学を出た人たちであった。

 

 私はそれを知った時、「局」に居る限りは出来れば主要業務である監察業務に就くべきであり、その為には大学を出なければならないと考えた。

 その頃、総務課の2年先輩の西山氏と1年先輩の和田氏が関西大学の夜間部に通っていた。「局」の業務は5時キッカリに終るから時間的条件は整っている。高校を出る時点では大阪市立大でも通る自信があったので、関大の夜間程度は今からでも通るだろう、と高を括っていた半面、3年のブランクを凌駕できるだろうか、という不安が付き纏っていた。その不安を払拭し、受ける以上は万全を期する必要があると考えて予備校に通うことを決心した。丁度、通勤途中の天王寺に「夕日ヶ丘予備校」(夜間部)があったのでそこに決めた。

 

 5時になると「局」を出、真っ直ぐ予備校に通う。カリキュラムの都合で丁度いい時間になることもあり待ち時間が生じたりもするが、最初のうちは真面目に通っていた。しかし、だんだん慣れてくると待ち時間が手持無沙汰でどうしようもなくなってくる。天王寺駅から予備校へ行く途中に焼肉屋がある。何時も其処から流れてくる香ばしい匂いを嗅ぎながら通り過ごしていたのだが、その日は待ち時間が最も長いということもあって足を踏み入れてしまった。それで全てがパーになった。それでなくても高校時代から苦手だった英語の長文の講義を酒に酔った頭が受け付ける訳がない。しかし一度呑む癖を付けてしまうと以前のように焼肉屋を素通り出来なくなり、そんなことが続いた後、偶に素面(しらふ)で講義を受けても、前回の講義を基礎にして続けられるので皆目解らない。結局10日ほど通っただけで、最初に払った入学金と教科書代の約2万円(因みに当時の基本月給は6千~7千円だった)が無駄になってしまった。

  この時点で私は監察業務への志向を捨て会計の仕事に身を埋める覚悟を決めた。そうすると急に気が楽になって、連夜、美味しい酒を呑みネオン煌めくミラクルな夜の街に身を泳がせることになったのである。

 

「公務員の将来を決めるのは学歴やない、公務員試験やで。別に大学出んでも中級職試験さえ取ればそこいらの大卒と一緒や。」そんな言葉を耳にしたのは、私がすっかりその気になって会計の仕事をし、何時ものように5時の時報と同時に局を出て、足を向けた居酒屋「上畑」で立ち飲みしながら、コップに山盛りに注がれた酒を尖らせた口で啜った時だった。…大学受験を諦めてから2年近く過ぎていた。

 

⑩【中級職試験】

 「中級職試験を受けたらええねん。公務員でいる限り資格取っといた方がええで。」誰かにそう云われたのは私が公務員になってから4年が経っていた。

 公務員は人事院が実施する試験制度によって初級職、中級職、上級職の各クラス別に採用時のランク付けが為される。加えて採用時のランク付けがその後の昇格に影響を及ぼす。

 

 「局」ではその当時、「監察業務」に携わる職員は中級職以上の試験合格者を以て充当し、「管理業務」担当職員は初級職で充当するという大まかな区別をしていた。「局」の中心的業務である「監察業務」に就くためにも、また公務員としての将来性を考えても中級職以上の資格を取ることは重要な事項であったが、中級職で入ってくる職員は大概大学を出ていた。

 

 高校出の私はツテ(縁故)で「局」に就職し、面接の時、総務課長に「初級だけは取ってください。」と云われて受験・合格したが、その時点でこのまま管理業務に骨を埋める心算になっていた。それに中級職試験には論文もあると聞いていたので受けて通る自信もなかった。文章を作ることには大いに自信を持っていたが論文となると話は別だ。そのため最初に云われた時は二の足を踏んでいた。するとその人が「しかし一回受けるだけでも受けたらええがな。初級取ってたら受験資格はある筈や。」と云った。

 実をいうと初めに勧められた時、私が正面切って「そうやな、受けてみよか。」と云えなかったのは恥じらいからだ。元々ツテで入ってきた者が中級とは高望みしているのと違うか、と人に思われるのではないかと思ったからなので、再度の勧めは私を勇気付けた。「受けるだけ受けてみよかな。どうせあかんと思うけど、あかんで元々やさかい。」照れ隠しにそう云った。

 

 私の受験準備は簡単だった。次の年明けに本屋に行って「国家公務員中級試験問題集」を1冊買ってくるとそれを徹底的に読み始めたのである。

 

 往き帰りの通勤電車の中、食事の間は勿論、勤務時間内でも手透きの時、そして酒を飲んでいる間も片手には何時も「問題集」があった。

その頃会計係員だった私は係長の稲垣さんとよく飲みに行ったが、その都度、「オイお前、生返事ばっかりして、ワシの話聞いとるんか。酒飲んでる時ぐらい本読むの止めぇ、味ないわ。」と云って叱られていた。

これも一種の照れ隠し、或いは見栄っ張りだったかも知れない。私としては受ける以上は合格してやる、という気持だったので、たとえ1冊の問題集とはいえ真剣に取り組みたかった。…といっても付き合いを断り酒を()ってまでして受からなかったら恰好が付かない。叱られてもこうするほか無かったのである。若し落ちても「やっぱり酒は味よく飲むに限るな。柄にもないアホな真似はもう止めた。」と云って誤魔化すことまでその時考えていたのかも知れない。或いは生来好きな酒は一時的にも手放せなかったのかも知れないが、その辺のことは今となってはよく分からない。

何れにしろ誰と飲んでも同じく一徹を貫き通して受験までに読み終えた「問題集」はボロボロになっていた。

 

こうして愈々受験の日を迎えたがその年は駄目だった。一緒に受けた2才上の西山氏や1才上の和田氏も落ちたので気は楽だった。

その時はもう来年は止めようと思っていたが、大学の夜間部で卒業を来年に控えた先輩2人も落ちたことで気後れが無くなっていたので、もう1年だけ試してみようという気になった。

受験勉強も2年目となって少しマンネリ気味だったが、相変わらず酒呑みながら「問題集」と睨めっこで1年間を過ごして次年の試験に挑戦したのである。

結果発表の朝の出勤途上、「局」の近くにあった人事院大阪事務所の玄関に貼り出された合格者一覧の貼り紙を見て一瞬「ウソ!」と思った。自分の名前が載っていたのだ。まさかと十中八九諦めていたので吃驚したが、又こんな嬉しい思いをしたこともなかった。

 

私は次年度当初に改めて「中級職」で採用されることになり、同年5月に本庁の付属機関であった能率調査班に1年間の実地研修という形で勤務することになった。

 

「局」の総務課会計係員だった私はこの年の3月時点では大蔵省の会計事務担当者専門研修に4月から行くことが内定していたのだ。

その矢先に本庁から「局」に対して、前年度の能率調査班の研修を終える地道氏に代る研修生を人選するようとの指示があり、私に打診されたのである。

私は当時よく一緒に飲みに行っていた鈴木さんや植村さんに相談した。すると2人は口を揃えて「そりゃ、将来性から考えても能率調査班をとるべきだろう。」といったので、そっちに行くことに決めた。

このことが後に私が「局」の「監察業務」に携わるキッカケとなったのである。