第3章「我が半」…「公務員 時代」①採用 ②「局」周辺  ③下駄 ④米券 ⑤初めての仕      | 獏井獏山のブログ

獏井獏山のブログ

ブログの説明を入力します。

①【採用】

 就職口を拾ってきたという云い方は母に対して失礼極まる表現である。

 母は、子供が抱える問題は全て自分自身の問題として捉え、悩み、常にその解決の為に奔走する。母とはそういうもの、と人は云うかも知れないうちの母は特別だと思う。我が子全員のあらゆる問題に対して、将に自己を捨てて取り組んでくれていた。

 

私の就職問題も又、母にとっては何百何千の問題のうちの1つなのである。自分の足の届く限りを動き回って私の就職の手蔓を探してくれていた。

 母が持って帰ったのは国の行政機関の事務職員の口だった。同じ村に住む伯井源一さんの紹介である。

 

 伯井源一さんは大阪にあった近畿管区行政監察局(以下、単に「局」と記す)に勤めておられた。その「局」の総務課に欠員が生じたので面接試験を受けてみないか、という話だった。予め母が依頼していたことなので源一さんが「局」側とそこまで話を付けて母に伝えてくれたのである。

 

 堺の義兄にこの話をすると、「それはよかった。堺市なんかより国の方が良いに決まっている。是非そっちへ行きなさい。」と、ホッとした顔をして云った。…伯井源一さんに連れられて「局」に行ったのは7月末のことだった。守永総務課長と面談し、2~3の質問を受け、作文を書いて提出しただけで採用が決まった。8月1日付けで、私は「局」の職員となった。

 

 この「局」に勤め出してからが、本当の意味での「私の人生」の始まりといっていい。(下記の「現在注」参照…以下、青字のカッコ書きは「現在注」である。)

今思うとこの時、薄暗いトンネルから明るい空の下に抜け出たような気がする。

  「局」に就職できたのは偶然の所産である。

 母が伯井源一さんに依頼していたのと、「局」に空席が出来たのが時期的に一致したこと、そして、その頃まだ縁故採用があったことである。

 当時すでに人事院の公務員採用試験が実施されており、制度上、国の行政機関の職員はこの試験の合格者の中から採用することになっていたが、これが徹底されたのは私が採用されて暫く後のことだった。私の場合は、年度途中の欠員補充だったことも幸いして、将に滑り込みセーフだったのである。なお、採用直後に守永総務課長が指示されたのに従って私はその年度の公務員初級職試験を受けて合格した。また7年後には中級職試験に合格し、公務員としての資格条件を後追い的に身に付けたのである。

 (現在注:本文(上記)にも記したように、今思い返しても、将にこの時が、本当の意味での「私の人生」の始まりであり、大袈裟な言い方をすれば『私の今太閤』の始まりだった。…謂うまでもなくスケールの規模は秀吉の万分の一にも値しない、虎に対する蟻のような存在ではあるが、私にとっては今太閤と表現する外ないと思っている。

何故なら「局」に入って組織の状況を知ると、幾層にも積み重なる雲の上の、そのまた上位の椅子に君臨する人々を見るにつけ、上には上があるものだと感じ入ったものだ。その座は諦めと同時に羨望の的でもあった。まさか、あそこまで上の座(ポスト)に就くことは逆立ちしてもあり得ないと諦観していた。しかし結果的にはその「座」を得た。この採用の時こそ「我が人生における自分なりの夢の座の実現」へのスタートだったのだ。)

②【「局」とその周辺】

 当時の「局」は元陸軍第八連隊の広い敷地の中にあった。

庁舎は木造2階建ての元兵舎をそのまま使用しており、敷地の中にはテニスコートが設けられていた。庁舎から少し離れた所に大きな倉庫があり、そこは車庫になっていて官用車3台が納まっており、端の番小屋のような所に3人の運転手(技官)が詰めていた。

 

 旧第八連隊の敷地には「局」のほか、各省庁の出先機関(労働基準局、矯正管区、人事院大阪事務所、等々)がそれぞれ単独の庁舎を持って所在していた。何れも木造兵舎をそのまま利用していた。

 そのほか、敷地内には雑木、雑草の生い茂った広い空き地が点在していた。「局」の周囲には銀杏の木が植わっていて、夏になると蝉の声がうるさく暑苦しいがそよ風が渡るときは爽やかで大らかな気分を与えてくれる居住環境だった。

 殺風景ではあるがのんびりとした別世界の「局」事務室で、「こんな夏の午後ともなるとステテコ1枚になって、机の下から一升瓶を持ち出して暑気払いしながら仕事をしたもんだ」という大先輩の昔話を聞いたこともあったが、私が入った頃には流石にそんな習慣は無くなっていた。

③【下駄履き通勤

 「局」に勤務し始めて間もない頃、私は下駄履きで通勤したことがある。今ではとても考えられないことだ。キッカケは足を怪我したことによる。包帯をして靴は履けないからということで大目に見て貰ったようだ。ところが怪我が治っても下駄履き通勤は続いた。これは1才上の和田氏の影響であった。当時大学の夜間部に行っていた和田氏は時々、詰襟の制服に角帽を冠った姿で「局」に出てきたがそんな時いつも、歯の高さが10センチ程もある書生下駄を履いていたのである。書生下駄であろうが何であろうが下駄には違いない。和田氏が履いていいものなら私が履いても構うまい。下駄は靴と違って足を圧迫されないから開放感があって、一度履き出すと止められない。電車の乗り降りや歩行も慣れると何の不自由もない。特に夏はサッパリと涼しくて気持ち良い。しかし、1ヵ月ぐらい経った頃、これを見咎めた課長補佐に注意されて靴に履き替えたが、それまでの間、先輩の誰一人として咎めなかったのは、当時は如何にのんびりした世の中だったかということである。

 

④【米券】

 戦後色が残っていることといえば、食堂で扱っていた「米券」である。

 局の敷地の外れ、官用車の車庫として使用している倉庫の向こう側に、掘立小屋まがいの建物があった。これも旧八連隊の建物であるが、道明寺に本拠を持つ土井産業がこれを借り上げて食堂を経営していた。食堂の中は4人掛けのテーブルが5卓ほど置いてあり、常に集まってくる蠅を追い払いながら食事をしなくてはならないような薄汚い食堂ではあるが、昼食時は旧八連隊敷地内の各庁舎から食べにくる公務員で満員になっていた。私も毎日ここで食事をする。入口のカウンターで食券を買う。めし、焼きそば、お菜各種、味噌汁など、注文する品によって夫々色の付いた小さな札を受け取り、炊事場のカウンターに出して品物と交換するセルフサービスである。札を買うのは現金が原則だが、1つだけ原則外のものがあった。「めし」である。私は現金の代わりに米券を出して飯札を受け取っていた。家が農業の私は家から米を持ってきて米券と交換していたのである。

 

              ★

 一々書き出すと、このような“今は昔”の情景は幾つもあり限りがないのでそれは追い追い書き進める中で出てくるに任せることとして、とにかく私の新天地である、ゆったりとしたこの環境は新しい自分に相応しいモッテコイの土俵となった。初めに書いたように、本当の意味での私の人生はここから始まった。

 引っ込み思案で世間知らずの私は、ここで高い知識とユーモアに溢れた人々と出会い、酒の味を覚え、人並みに話す術を会得し、一定の地位をも得て、概ね愉快な半生を過ごす事が出来たのである。

  

⑤【初めての仕事】

 「局」に採用された私の席は会計係だった。

 会計係には大坪第一係長、青野第二係長のほか、係員として稲垣、森、辻本の各氏が居り、予算の執行に伴う給与計算・支払、職員の旅費計算・支給、共済組合事務、国有財産(庁舎関係)管理、などの実行計画の策定と事務処理及び法定帳簿の記帳、証拠書類の編綴、などを分担して所掌していた。

 私はというと入って間もないことから、上記の法定帳簿の補助帳簿の記帳や職員が請求する物品を倉庫から出してきて支給する事務などを行っていた。会計事務の根幹となる部分から外れた責任の軽い仕事で、事務量的にも軽く、別に私が居なくても他の係員が片手間でこなせるものであった。その辺りが当時の国の行政機関のゆったりした事務の流れで、新人の私が気を使うことは殆どなかった。

 

 そんな中、私が参ったのは電話である。…

 旧陸軍第八連隊兵舎だった木造庁舎の玄関を入ってすぐ左にある総務課の部屋には、庶務、人事、会計(第一、第二)、の各係があり、係ごとに机を寄せて「島」を作っていた。会計係では第一と第二が、各3人の机を向かい合わせて座っていた。

 電話は2台あって、誰からでも手が届くように「島」の中程に置いてある。この電話が引っ切り無しに鳴る。すると誰かがスッと手を伸ばして受話器を取る。学校時代から人前で目立つことが苦手私はその都度胸を撫でおろしていた。しかし何時も何時もそれで済ませる訳にはいかない。

 …その時も目の前の電話が鳴ったが私は手を出し兼ねて誰かが取るのを待っていた。私以外に卑近距離の席に居る森さんは法定帳簿の記入に余念がなく、辻本氏は旅費の計算のため資料をひっくり返していた。電話が3~4回なった時、私も咄嗟に補助帳簿に記入するようなポーズを取った。

「伯井さん!」鋭い声が飛んできたのはその時だった。「ボヤボヤせんと早よ電話取らんかいな。」何時にない森さんの厳しい顔が私を直視した。慌てて電話機を取った私はその時何を話したか覚えていない。職場で電話機に触れたのはそれが最初だった。それ以降、私は臆することなく電話を取ることが出来るようになり、さして重要な仕事を持っていない私がその後、殆ど一手に電話番を引き受けた。その結果、気後れするような事態がなくなった私は、仕事の慣れと共に益々気楽に楽しい生活を手に入れたのである。