第2章 「人生」…序、 ⓵掛替えのない人生 ③唯一の存在・自分 ⑤人が持つ能力(#才能煙突論) | 獏井獏山のブログ

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「第1章・魂」でも記したように永劫不滅の魂にとって、人生と

は一瞬の出来事に過ぎない。

しかし、五感や感情などの機能を備えた生身の人間にとって、

長らえば100年前後も生きられる自己の生涯は貴重にして長い

年月である。日々生きている中で軽々に扱える訳がない。

 

人生① 「掛替えのない人生」

人が持つ欲望の中に“羨望”がある。幸せそうな人を見て「あの人が羨ましい。あの人のようになりたい。私もあの人のような生活が出来たらいいのに。」と云うのを耳にした事があり自分も何度か思った経験がある。 

しかし、人は1つの生き方しか出来ない。もう少し詳しくいうと、人は「1人分の生き方」しか出来ないのである。

・仮に、その人の生き方が出来たとして、それを取り入れたいのなら、その人が今日まで生きてきた過去の人生も同じよう取り入れて生きる必要がある。その人には過去に色んな苦労があった筈だ。その人の生き方を自分に取り込みたいなら、その人の苦しかった経験も背負わなければならない。

そして必然的に、自分の生活をそっくり捨てなければならなくなる。何故なら、今の自分を維持しながら、その人の生き方を上乗せする事は2人を同時に生きることになるから、それは不可能である。

そこまで考えると、私は矢張り自分の生き方を捨てることは出来ない。そして、この考えに至った時、自分の半生が他に比してどうあったにしろ、自分にとっては掛替えのないものであったことに気付くのである。

 

人には良い時と悪い時が必ずある。人は苦しさを乗り越えて今の幸を得ている。他の人の良い所だけを取り入れたい、と思うのは虫が良過ぎるというものだ。

 

人生③ 「唯一の存在…自分」  
(「自」と「他」は対等(11)である。「自」は「多数の中の一部の存在」ではなく、「全ての他と対峙する存在」である。「他」は「自」があって初めて存在の意義を持つ。「自」が消滅すれば「他」そのものが霧散する。)

 

私は「自意識を持つ唯一の存在である自分」と「自分以外の全て」とは対等な立場にあると考えている。つまり自分とは「人間集団の中の単なる1人」ではなく、「自分以外のすべての存在」と全く同じ大きさで「自分の存在」があると考える。

もっと詳細にいえば、「自分」と「自分以外の人間集団の中の特定の1人」とを同価値で対比することは間違いである、と考えている。

 自分以外の人間集団(世界の人々)の中には色んな才能を持つ人間がウヨウヨしている。その中には一見、自分以上の才能を持つ者も居るだろう。しかし、その者は、「社会全体の中の1分子」に過ぎない。自分と対等の存在であるなどと過大評価する必要はない。社会の極々一部の存在でしかない1分子など、特別な評価をする必要はない。「天上天下に自分というものは唯一の存在である。」という自覚こそ尊ぶべきことである。

もし、Aという1分子に向かってそんなことを言うと、Aは「お前なんか、ナンボの人間だと思っているのだ。社会的地位、実力、財力など、何処から見ても俺の方が上ではないか。お前なんか俺から見ると物の数にも入らないよ。」と言うかも知れない。が、それはAの考え、即ちAの頭の中の働きに過ぎないのであり、私にとって露ほどの意味もないことなのである。

この考え方で世の中を見ると、偉そうな顔をしてはいるが、私にとっては取るに足りない人間が無数にウヨウヨしていることに気づく。

一見偉そうに見え、自らも偉いと思って胸を反らしている人間が、私から見ると、どうして1匹の虫けらと同じくらいにしか見えないのだろう。それは、その人間はどの面から見ても寸分も「私自身ではない」ということである。

 その人間がどのような動きをしようが、また社会の中で認められようが、私が関心を持たない限り、私の意思に何の影響も与えない無意味な存在なのである。

…とはいうものの私は、この世に生きている以上、私以外の人間が構成する「社会」と交わって生きていかなければならない。その中の1分子が私に何らかの関連を持ち、何らかの影響をもたらす事も希に生じる。

その影響には事前に把握することが出来ない事柄も潜在する。このため「社会」そのものは自分と対峙する存在として認めない訳にはいかない。

 

人生⑤ 「人が持っている能力は皆同じ」 #才能煙突論 
世の中には人に抜きん出た凄い能力者が居る。が、それはその

人間が持っている「得意部門」の能力が偶々表(おもて)に出て評価された結果に過ぎない。 

 平凡に見える人間にも同じ大きさの能力が内包されているのだ。

人間の能力を分野別に細かく分けるとおそらく数100種類になるだろう。大まかに分類しても100ぐらいにはなると思われる。

人それぞれ生まれながらにして得意な分野があり、成長の過程でその分野に目覚めれば天才的な能力を発揮することになる。

育てられる段階で親から得意分野に接触する機会を与えられるのは幸運の最たるものだろう。また、成長の段階で人との接触の中から自ら興味を持って見出すこともあるだろう。何れにせよ、無数の分野の中には他者を凌ぐほどの得意分野を全ての人間が持っており、それをいかに見出すかが人生を大きく左右する。

例えば、学校で授業に取り上げられている学科は、人間の持てる能力分野の極々一部に過ぎない。

 日本の場合、国語、数学、英語、理科、社会を筆頭にして、概ね10数科目が授業に取り入れられている。偶々これらの分野を得意分野として生れ付いた生徒はクラスで抜群の成績を挙げるのである。これらの科目は人間の持つ無数の能力の中で特に重要な要素とは限らない。誰がこのような科目を学校での基礎的学科と定めたのかは知らないが、これらの科目が自分の得意分野から外れている人(子供)にとって迷惑千万の現実と言わざるを得ない。

これらの科目に係る能力が、学科として取り上げられていない種々の能力に比べて特に上位を占めるとは限らない証拠に、学業が出来たからと云って必ずしも立派な大人になっていない人間はわんさと居るし、逆に学校の成績は今一つだったが成人して世に出てから大成功している人が数え切れないほどいる

また、これらの科目を基礎学科に指定していない国は幾らでもある。

日本でも昔はなかったが近年になって新たに取り入れられた学科もあるだろう。

いずれにしろ俗人のやることには限界がある。

問題は限界があることを悟らず、これがベストだと思いこみ、人に押し付けて胸を反らしている輩が蔓延(はびこ)っている事なのである。

別な言葉で説明しよう。題を付けるとすれば「才能煙突論」である。

人間が持つ才能を仮に100分野に分け、これを100本の煙突に例えると、人それぞれに高い煙突や低い煙突が入り混じっているが、100本合わせると100%となる。人によって分野ごとの高さに差異があるだけで、トータルの能力は同じである。

そして、実生活の中で自分に備わった高い煙突を生かせた人間が世の中で高い評価を受ける。それだけの事である。

学校を例にとって話を進めよう。

学校の授業で取り上げられている学科は10数科目である。

 これらの科目に係る才能を多く持ち合わせた生徒、即ち「これらに係る煙突の高い生徒」が成績優秀となる。しかし、その人間が社会人になった時、必ず成功者になるとは限らない。

人間の才能には学科で取り上げられない分野が無数にある。その人が持つ高い能力がに出る場合は他者から評価され、隠れた能力は表面化されるまで評価の対象とはなり得ない。社会人になってから隠れた才能が発揮されて成功を収める例は幾らでもある。

例えば、山下清画伯が顕著な例だが、他にも芸人、スポーツマン、各種の職人、等々である。

要は自分が持っている最も高い煙突は何かを見つけ出すことが重要なのである。