第1章 「魂」…⑦ 「ソールメイト」 ⑧ 「神聖天国(神・魂)からのメッセージ」 | 獏井獏山のブログ

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魂⑦ 「ソールメイト」

「上位の魂・私にとっての神」

・人の魂は永劫不滅であり、この世は修行の場である。故に、生を終えて天国に行くのが幸への道と認識していた。(その認識に間違いはないが…)

・しかし天国に行く前に、神聖天国から降りてきた上位の魂が、この世で修行する人間に寄り添って幸の形成の手助けをしてくれているように思う。

・私の場合、妻を見ていると毎日、多くの人が苦労と思うことを苦もなく果たしている。彼女は当然、魂の世界に帰れば上位の存在だろうが、今はこの世の苦を背負って私に尽くしてくれているのだ。

・最近になってそれに気付く。私と過ごした人生の一時期において過酷な目にあったのに私の元を去らなかった。

・それだけではない。本来なら厳しい躾をしたり、厳しく叱咤し教育すべき身内の人間達にさえ献身的な優しさで接している。俗人の私には子弟を甘やかす姿が気に入らないが平気でやり続ける。とにかく馬鹿な位に人に尽くす。

・これは天が私の魂を試すために送り込んだ上位の魂、或いは神の姿に他ならないと、ある瞬間にフッと気付いたのである。

 

「傍にいた神の使い」

・目を閉じて思い返すと、私には出生から今日までの間、(宇宙から遣わされた魂)が常に傍についていて呉れたのを感じる。母、姉、学友、先生、上司、妻、…ここという時点で庇ったり世話をしたり突き放したり、それらの行為には心底に私を思い遣る精神を感じる。これに反し、これらの思いやりと極似の言動を私に与えながら内心鬼畜の人間が数え切れないほど居るのも感じ取れる。それとこれとの区別が付かずに長年生きてきた。しかし今は明確に区別することが出来る。

・鬼畜の事は考えなくていい。怒りやその他の感情を向ける必要はない。無関心無視すればいい。しかし現生活の中で接触しなければならない場面にしょっちゅう出くわすだろう。その時は相手を「物体」、差し詰め「石」程度の存在と考えればいい。接触の無い時は脳裏から完全に消し去ればいい。私にとって価値も何もない「無体」である。…しかし待てよ。鬼畜人間としか思えない存在さえも神が私の魂の成長の素材として遣わしたものなのだろうか。

・これらの「存在」の、私にとっての「存在の意味」を理解しなければいけない。その上で「意義」を見極めて自己の魂の糧にしなければならない。

 

魂⑧ 「神聖天国(神・魂)からのメッセージ」
「天啓・閃き」

・「ソールメイト」は人間の姿として神から遣わされた者だけではない。

苦の無い「神聖天国」に浮遊する魂(就中、既に天に召された父母兄弟姉妹の魂)が傍らに来て身辺を守ってくれようとしている。

しかし魂には人間的なパワーや声が無いので、特有のメッセージとして発せられる。所謂「天啓」である。

・「天啓」は「波動とイメージ」と云う形で示される。波動やイメージを受信できるか(或いは感じ取れるか)否かは人間の側に掛っている。そこで考えられる受信手段は幾つかある。1つは座禅によって人間的な脳の機能を停止させになることに依って身体の中心「膏肓」に閉じ籠っている己の魂を通じて受信する手段、そして今1つは「人間に姿を変えて夢枕に現れた魂から受けるお告げ」である。

・座禅を組んで瞑想の末に無の境地に達し自我を無くした瞬間、その空白にフッと湧き上がる悟り(閃き)がそれであり、また不思議な夢の中で突然現れた肉親(例えば父や母)が諭す言葉がそれである。

(私自身について敢えて付け加えるとすれば、「凄い耳鳴り」も神聖天国からのメッセージと考えている。しかし俗化した脳は瞬時に数億語に及ぶ膨大なメッセージを聞き取れる域に程遠い状況にある。ただ、膏肓に籠る己の魂がメッセージを受け止めて、その中の幾つかを「思い付き」と云う形で脳に伝えて呉れているかも知れないが…)

 

・なお、無の境地に達する方法としては、座禅に限らず「スポーツ」や「勝負事」に夢中になり本能だけで行動している時に「無意識状態になる一瞬」も加えるべきかも知れない。

・また、作業中・歩行中など、何かに集中したり逆に気が緩んでいる時、思い掛けず振りかかる危険を勘働きで避けると云った場面は多くの人が経験していると思うが、これらも大半は身近な魂から発せられる波動のお蔭ではないだろうか。