第6章 創作・随筆(第5節…創作「病院(仮題)」連載⑩) | 獏井獏山のブログ

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(七)

現在、大上慎吾は63キロまで減っている。どうしてそんなに減量したか、私はその理由を述べる前に慎吾の事について少し語っておこうと思う。

慎吾は私によく似た面を持った男である。私はその共通点に親しみを覚えた。それとはなしに2人は相手を理解し合っていた。慎吾がここに入院して来てから、かれこれ2年になる。入院の原因は私と同じ肋膜、とのことだった。彼の話によると、当時20貫の体躯を持ち健康を誇っていた彼は、2ヶ月の間に急に2貫近く痩せ身体に異変を感じ、この病院で診察を受けたところ、肋膜と云われ耳を疑った。入院を余儀なくされた慎吾は3ヶ月の療養日数にウンザリした。しかし3ヶ月経っても身体がいくらも回復していなかったのは全く私の場合と変わらない。退屈に耐えられないような日が続いた。だが反面、彼は病院生活に慣れ掛けていた。彼が病気を自覚したのは入院5ヶ月目の時だった、と話した。

 

 レントゲンの結果、新しい病気の発生が見出され、慎吾は絶望感で心の所在を失ってしまった。涙こそ流しはしなかったが、泣きたい思いで一杯だった。これだけは決して成らないぞ、と思っていた一番嫌な病気に到頭なってしまった…。心が落ち着くまでに時間が掛かった。医者は肉親に向って不可抗力だと説明していた、と慎吾は私に云った。馬鹿々々しさが込み上げて来、次に、この病院から抜け出す為に如何なる苦しみをも耐え忍ばねばならぬ義務を彼は感じたのだ。それは彼自身の問題であると共に肉親や親友たちへの責任でもあるのだ。慎吾は、結核はごく初期であり養生によって比較的早く治るという医師の言葉に希望を見出そうとした。希望…そう、確かに病気を治すことは希望に違いない。が、それはその病気を治す為に療養に忠実な者のみが受け得る希望なのだ。彼はあらゆる精神的困難に耐える決心を強く固めた。

 

 3ヶ月を経、春を迎えたが慎吾の病気に変化が生じなかった。肋膜は殆ど良くなっていたが、それから数ヶ月経っても結核の病巣は何の変化も見出しはしなかった。勿論、慎吾はその間、ベッドでジッと寝てばかりいた訳ではない。時々は家にも帰って外泊もした。病院の近くの市場へ買い物にも度々行く事があったし、病院内で動き回る事も多かった。しかし、それらは数え上げても知れた事だ。要するに彼はこの時、病院に於ける患者の中では最も質の良い病人に属していたのだ。酒好きではあるが、彼はそれには手を付けなかった。病気の不振は彼の生活の所為ではなかった。が、医師の指示の誤りでもない。それは万事、彼の体質に由来する事だった。6カ月もあれば病状の変化を来す者も多く居た。しかし、そうでない者があったとしても嘆くことはないのだ。彼自身にも、この数カ月の間に病状良化への基礎が出来ていたのかも知れない。6カ月辛抱したからには9カ月辛抱すべきであり、9カ月辛抱したのなら12カ月辛抱すべきである。そこに《希望》を見出して決心する必要があったのだ。しかし彼は腐りかけていた。

 

時に季節は夏を迎え、多くの誘惑の手がさし伸ばされていた。心の拠り所を失った大上慎吾はこれに敗れた。彼は看護婦の目を盗んで外に出る。其処にはビールが待っているのだった。彼の生活は一変した。酒を煽って多くの夜を過ごした。消灯台の中には常に酒瓶が隠されていた。彼の病気は良くもならなかった代わりに悪くもならなかった。彼は酒の中に楽しさを見出してたのだった。《療養》という彼にとって異常な状態は何時の間にか《生活》に変化していた。酒を飲み看護婦と口論し、この病院のベッドで寝起きするのが彼にとって最早、異状ではなかった。この生活が自己の本来の姿ではないと思うのが反って不思議に思われてくる。その時点で彼は、私が最も恐れている「病気慣れ」という悪魔に全身麻酔を掛けられてしまったのである。

 

 

(8)

 私(山本正一)の母がシャツやパンツと卵、その他の食料品少量を持ってきた。  (続く)