第6章 創作・随筆(第5節…創作「病院(仮題)」連載➃) | 獏井獏山のブログ

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(手記「病院パラダイス」 山本正一) 

 

(二)

 守屋君は朝から元気なく、呼び掛けてもロクに返事しない。時々、発作的に「チクショウ」と怒鳴る。声なき音も時々出る。これは怒りの屁だ。あんな気の置けない守屋君がどうしてそんなに怒っているのかトント理解できなかった。これといって守屋君の気を悪くするような事をした覚えがないのに…と不審でならない。が、私はもう少し冷静で無くてはならない。私は考えた。そして程なく理由を見出したのである。問題はスマちゃんだった。

 スマちゃんは昨日から故郷の鳥取に帰っているのだ。守屋君は淋しくてならないのである。淋しさがやがて怒りに変ったのだ。守屋君としても別に好き好んで同室者に当り散らしているのではない事は分かる。将来は妻と決めた愛しい女に4日が日でも遠い所へ行かれては守屋君ならずとも淋しさに堪えないだろう。しかし、他人に不機嫌を当たり散らすのは守屋君にしても少々理性を欠いていたというフシがないでもない。が、同室者達は全てを理解していた。守屋君のスマちゃんに対する愛情が如何に深く、彼がこの恋に如何に心を打ち込んでいるかを全て理解していた。

 今から丁度3週間前の日曜の事を記せば彼を知らない人々でもその理由を解するに難くないだろう、と思う。守屋君は例の如く病院を抜け出してある場所へ出掛けた。‛ある場所’と、ここに書いたのには少しばかり注釈を要する。守屋君は入院間もない頃から毎日曜日、習字をやるために吹田市に出掛けていた。それは宮本竹茎という日本でも有数な書家の所へ行くためである。彼はそこで先生の指導を受けると共に、年若い弟子達に字を教えていた。同室者達も看護婦たちも、彼を知っている者の全てがそれを信じていた。つまり彼は品行方正な男で通っていた。ところが彼は品行方正どころか飛んでも無い女誑しであることが判然したのである。

 先生の所へ行く事もあるにはあるらしい。が、毎日曜そうではない。彼の外出の多くは汚水処理の為であり、スマちゃんとのデイトの為なのである。

 以上の理由により3週間前の外出も先生の所へ行ったとは信じ難いのである。…が、そんな事は今どうでもよいのだ。要するに外出したその日曜のことだ。

彼は蝶ネクタイに身をやつし、右手に日傘を持って看護婦の目を盗んで出て行ったのはよかったが、帰りはコソコソどころか大声を張り上げて帰ってきたのである。どこで飲んできたのか知らないが、ビールをコップ一杯で赤くなる彼が2本も飲んで来たから堪らない。 帰ってくるなり詰所へ押しかけて「酒もよう飲まんとどうする!お酒飲まな出世せんど!」と怒鳴り出した。私達は彼を窘めベッドに寝かせるのに全く手を焼いた。漸く彼がベッドに落ち着いた時、部屋に入って来たのがスマちゃんだった。「守屋さん、大丈夫?」とスマちゃんが聞いた。「うん、大分楽になったようだ。」と横に居た中隈君が答えた。ところがこの答が終るか終わらないうちに当の守屋君、ベッドよりムックリ起き上がって「酒ぐらい飲まにゃ出世せんど」と、又もや声を張り上げたのだ。我々はもう一度同じ事を繰り返すしか手がなかった。ややあって守屋君は静かになったが、スマちゃんは心配で心配でならない。彼女は祈った。「守屋シャン守屋ッシャン、愛しい愛しい浩一サン、どうかご機嫌なおして頂戴…」私は彼女の姿にホロリと仕掛けたが、冷淡にこの女の観察に掛った。その結果、スマちゃんは実に詰所と609号室を10往復もしたのである。部屋に帰って見ると守屋君は眠り入ろうとしていた。同室者5人に見守られながら、彼は「スマよスマよ、ああ、可愛いスマよ…」と一言、寝言のようなことを云って深い眠り云落ちたのである。

……こんな事があって   (続く)