第2章「人生」㊸~㊺……#必然的事態の受入れと覚悟 | 獏井獏山のブログ

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人生「体力低下の経緯」   
 健康な日常生活を送っていても50才を過ぎる頃から体力が落ちてくる。

 例外を除いて大概の人は50代から60代に入った時に、「あの頃に比べると大分落ちたな…」と感じる。その時多くの人は、体力は日々を追って日に日に徐々に落ちてきたものと思っているようだが、決してそうではない。

 

 人は殆ど例外なく、若い時代を含めて時折、怪我をしたり、怪我まで至らなくても物に突き当たって衝撃を受けたり、少なくとも激しい運動で疲れが溜ったり、等々する。若い間は少々の怪我でも数日で回復することが多い。スポーツや激しい動きから出た疲れなんぞ、有って無いように知らぬうちに取れていくものだ。

 

 しかし、概ね50を過ぎるとそうはいかない。転倒や激しい疲労で「著しいエネルギーの消耗」(以下「エネ消耗」と書く。)を背負った直後から、ガタッと体力が落ちる。それを数値で表すと次のようになる。

1.    50才頃までの体力を「100点」とする。

2.    60代になったある時、事故や過激な労働や呑み過ぎなどにより「エネ消耗」に遇った時点で体力が「70点」になったとする。この年になると4日や5日では回復しないが、1ヵ月~数カ月養生すると「71点」~「73点」~「77点」~と云う風に、徐々に回復する。そして「やっと元の健康を取り戻した」と思っても、その時の体力は精々「80点」である。決して元通りには戻らない。その後しばらくは横這いの状態が3~4年は続く。

3.    5年後に又もや「エネ消耗」に遭うと、体力は一時的に「50点」になる。「こんなもの直ぐに回復するさ。」と養生に励むと日々回復に向うが「やっと元に戻った」と思った時の体力は「60点」か、精々「70点」だ。

4.    このように体力は、ある時点、時点に遭遇する「エネ消耗」毎に一挙に落ち込み、徐々に回復しつつも「エネ消耗」の繰り返しの結果、平穏(健康)時における体力が低下していくのである。

 

人生 「来し方への感慨」   

人には夫々の人生があり、そこに運も付き纏う。

もし別の生き方をしていたなら、一見、失敗に見えても何処でどんな運に巡り合って大きな存在になっていたかも知れない。

現に自分の半生を振り返ったみた時、他の大物に比して取るに足りない存在に過ぎないことを痛感する。しかし私にとって、この人生は掛け替えのない幸多き人生だった。それは何といっても楽しい人生だったからだ。

 

世間には人が勝手に決めた「社会的地位」のようなものがあるが、私は職業や所属団体などによって上下の差はないと考えている。

人は成長過程における環境によって違った道を歩み、大抵は自分の意志に関係ない力によって違った職業に就き、各階層の所謂「社会的地位」に振り分けられる。

 

ある者は何不自由なく育てられ、過去の短い歴史と社会状況の中で設定された特定の教科(約10科目)がよく出来たが故に有名大学を出て高い「社会的地位」を得ていると思えば、ある者は家庭環境に恵まれなかったり己の性格が邪魔して世間体から見て一見、恵まれないように映る道を歩んでいる。

 

だからと云って、このような結果が幸不幸の分かれ道になっているだろうか。必ずしもそうではない。世間体から見て「高い社会的地位」に就いても多忙や上下からの締め付けの半生を息絶え絶えに生きている人間は幾らでも居る。それでも本人は「自分は人に見上げられて生きている。」と自己満足しているに過ぎない。

 

幸か不幸かは比較や傍目ではなく、己自身「楽しかったか。有意義だったと感じて生きてきたか。」にのみ掛っている。

 

「人は死して名を残す。」という。それを目標とし「死後は人からそう讃えられたい。」との思いを抱いて生きている人も少なからず居るだろう。しかしそう成るかどうかの結果が出る時には本人が死んでいて何も知らない。とすれば名を残す事に本人にとっての価値は無い。

況してや親の七光りで地保を得て出世し、得た権力を笠に来て高い高い「社会的地位」を得た者が居たとしたら彼奴は「死して悪名を残す」だけだろう。

 

以上の通り「社会的地位」なんぞ、そんなに価値あるものではない。

価値ある生き方・人生とは、「人からは信を得、自らはそれなりの満足を得て楽しく生きること」に尽きる。

高が長生きして百年の人生、そんな形を貫きたいものだ。

 

人生㊺「最も幸せだった頃の生活」の再現  
 過去の人生で「最も幸せだった頃の生活」を思い出してみる……

 

 【ここからは実際にあり得ない、「仮の話」だ。「空想」だ。】

 

 …もし、今から最長3年を限度に、奇跡的な天の恵みによって「最も幸せだった生活」と同じ生活が出来る特権を与えられるとすれば、どの時期(何才から何才の期間)を選ぶか、という仮定だ。

 

 それには条件がある。選んだ期間が過ぎると、次の年には選んだ年数の2倍が加齢されることになる。これが特権に課された条件…ハンデキャップである。

つまり、〇〇年前の「3年間」を選んだ場合は、3年後には2倍の6才一挙に年取ることになる。仮に現在60才として、61才になった日に「今以降の3年間は26才から28才の時と同じ生活を再現する」ことを選べば、3年後は倍の6年間を生きたことにより、67才になるということだ。

 

60才ぐらいの若さ(?)では未だ元気一杯で「今が一番充実している。過去を振り向く余地はない」と考える人の方が多いかも知れない。それなら無理して倍の年まで消費して、たとえ1年でも無駄使いする必要はない。

 

若かったあの頃、「こんな生活が後1~2年続いてくれたら有難いけどな」と心の中で思った事がある、とする。「出来るものなら‟あの頃の2年”の生活を再現してみたい。」と思えば残りの人生の4年を使えば済むことになる。2年で一挙に4才も年取るのは矢張り嫌だね、と思うなら止めればいいのだ。

以上が現実にあり得ない「若しも付きの空想」である。バカみたいな話である。

 

しかし、ここまで考えると別のアイデアが湧き上がる…これも又、あくまで仮の話であるが、あの頃には実現できなかった心残りの願望が達成できるかも知れない考えがある。

一度経験した生活を再現したいとは思わないが、あの時、したいと思いながら遣り残した事をやり遂げたい、という望みを持つ人は少なからず居るだろう。

 

…一定の年令に達して「今だ!」と思った時に「一大決意」を固めれば

「どうしても果たしておきたかった事、やり残した大仕事」に着手できるのではないか。思いを成し遂げ、心の片隅に蟠っていた未練を凌ぐ事ができるのではないか。

 

…その為には「気力・体力」共に充実していた「最も楽しく過ごせた30代のあの頃」に近い心身状態を保持する必要がある。

それを得るためには大きな代償を払わねばなるまい。今の生活に大鉈を振り下ろさなければならない。それは「心の断捨離」だ。大を生かして小を切る。心の中に巣食っている小さな欲望を全て捨て去ることである。

 

日頃から無意識のうちに擁護している小さな欲望・習慣…無い筈はない。真剣に探せばいくらでも出てくる。

「人との付き合い=腐れ縁」「齷齪生きるための病院通い」「惰性で続けている生活習慣(悪習なないか?)」「少しでも今持っている貯蓄を減らさないための切り詰めた生活」「現在のめり込んでいる囲碁・将棋、カラオケ、歩こう会、などの趣味」等々…これらは断捨離の対象としなければなるまい。

「旅行計画」や「仲間との記念パーティー」なども思い切って切り捨てるか。

今まで捨てられずに保管している持物もある…「何時かは読もうと仕舞い込んでいる本・読み終えた本・貰ったハガキ」「旅行計画のための名所紹介資料」「休止中のゴルフセット」「暇つぶしに偶に使うゲーム機」「一度も着ていない衣料品類」等々……

 

……余計な事・物を振り払ってサッパリと受け入れ準備が終れば「やり遺した事」の遂行に向って出発進行の開始である。

             

私にもやり残したことがある。やろうと思ってもやり果せたかどうか分らないが、時間が無かったことも事実だ。もっと時間的余裕があれば出来たかも知れない。

その「時間的余裕があれば出来たかも知れない事」は今も心の隅に残影をなしている。今からでも手を付けて未練を払拭したい気はある。ただ達成するには相当量の時間が必要である。

今なら自由時間は幾らでもある…と云っても必要なのは「人に縛られる事なく自由に使える時間」だけの話ではない。日常習慣として己自身を縛っている「趣味」や「付き合い」などを排除し、払い落とした「真白な自由時間」だ。

容易なことではない。相当な覚悟が必要になるが…一考の価値はある…