酒⑫「スナック」(1)「ニューボヘミアン」 | 獏井獏山のブログ

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(プロローグ)

社会人になって間もない若い頃の酒は、居酒屋での立ち飲みや、とこぎり安い飲食店で飲むのが中心だったが、少し金に余裕が出てきた30代前後から「バー」と名の付く場所にも足を入れることが出来るようになり、その後、徐々に範囲が広がった。振り返ると様々な種類の店が走馬灯のように脳裏に浮かぶ。

 何回かあった転勤先の事務所は全て県庁所在地にあったので名の通った盛り場が少なくとも一か所はあった。東京、大阪、京都、神戸には多数あって絞り切れないが、その他の都市でも広島の「流れ川」、福井の「片町」、和歌山の「ぶらくり丁」が有名だ。これらの盛り場にある「キャバレー」「ナイトクラブ」「料亭」「アルサロ」「スナック」などに通い、ダンディーなマスターや綺麗所と話をしたり歌を唄ったりして楽しい時を過ごした。また金沢の「香林坊」、長崎県諫早市の「栄町」には出張の際に行ったことがある。60代までに通った店の数も50は下らないのではないかと思う。

「キャバレー」には3回しか行ってないと覚える。確か大阪ミナミの「ミス大阪」、広島八丁堀にあった「桃太郎(?)」、諫早市の「来い恋(?)」だったかな、はっきり覚えてない。何せ料金が高いのでそうそうは行けなかった。「ナイトクラブ」や「料亭」も数えるほどで10店を越えないだろう。「アルサロ」は若い者同士で飲んだ2次会で3~4人連れ立って「ハワイ」や「ワシントン」などによく行ったが期間的には3~4年の間だったように記憶する。最も多いのは「スナック」だろう。3050代の約20年間は何かの会合や、座敷・居酒屋などで飲んだ後の二次会には必ずと云っていいほど通ったものだ。60代に入ると回数は減ったが気の合った連中と月1ぐらいは唄いに行った。何といっても「スナック」は気易く行けるのがいい。マスターやホステスと話したり唄ったりするのは楽しいし、馴染の店では時に静かに寛ぎ乍ら飲んで疲れを癒すことも屡々だった。

通った「スナック」(40~50店)の名前や雰囲気を一々書き出せばきりがない。何処も此処も飲んでいる間は宙に浮いた気持になるほど楽しい店ばかりである。その中で今も強く印象に残っている「足繁く通い詰めた店」が数軒ある。

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「ニューボヘミアン」(福井)

30代の初め、福井事務所に勤務して最初の行き付けの店は小売酒屋の「久田」だった。田舎の古びた家屋の一部を改造した店構えだったが、ここでは上がり框の床に腰掛けて飲むことが出来たし畳の間に上がって飲むこともできた。ここも熊井さんの紹介だったが、事務所に近いこともあって若い者同士で行くことが多かった。生活に慣れてくると二次会に行くようになる。今度も又、熊井さんの紹介で行ったのが福井電鉄福井駅前駅の前にあるスナック「ニューボヘミアン」である。最初の印象は田舎臭さと寂れた感じだった。初めのうち月2回ぐらいの割で行ったが、いつ行っても客が少なく愛想も余り良くなかった。しかし何回か通っているうちに愛想の良くないのは土地柄だということが分かってきた。又、客が少ないのが反って静かで落ち着き易い雰囲気と感じるようになってきた。気に入ると急に親しみを感じて陽気になるのが私の良い性格(悪い癖?)である。いい加減酒が回って冗談を云って相手が笑って興味を持ったと思うと止め処なくなってしまう。2か月も経って週に2回ぐらい通うようになった頃には私が行くと明るい声の絶えない騒々しい店になっていた。

また一方、私にとっては家庭のように心身の休まる場所ともなっていて1人で行くことも多かった。店に入るとカウンターの一番奥に座る。何も言わなくてもお決まりの飲み物とツマミが出る。店にはマスターとホステスが1人居るが、偶に客が多い時などは「今日は少し暑いね。」と云った挨拶を一言交すだけでサッサと一見(いちげん)客の方へ行ってしまう。その間、私はゆっくりとマイペースで飲みながら羽を伸ばすのである。賑やかに発散するのはその客が帰ってからでいい。その場の雰囲気に応じて楽しんでいるだけで疲れが解れてゆくのだ。本当の馴染の店というのはこうでなくてはならない。

半年ぐらい経った頃、店の経営者が変り、マスターとホステスも新しくなった。しかし2人は、既にこの店の雰囲気を醸し出していた我々に馴染むような形で直ぐに打ち解け合うようになった。そう云うことで店の人が変ってからも寛げる雰囲気は直ぐに戻ってきた。寧ろ2人の性格の明るさが以前にも増して温かみのある空気を作り出していた。マスターは大柄な剽軽者だったし、ホステスの八重子は知的な美形だったが無垢という形容がぴったりの素直な性格で底抜けに明るいお嬢さんだった。「コエヤさん」というのが私が付けた愛称であるが(たちま)ちアイドル的存在になった。

カラオケが無かった当時、話をする以外はマイクで歌を唄うか、店に置いてあるポータブルプレイヤーでレコードを聴いていた。私の好きな「骨まで愛して」が無かったので、「しゃぁないな、寄付したるわ。」酒の勢いでそう云って国鉄福井駅前のレコード店に行く時、コエヤさんが付いてきて一緒に買いに行った。外は雪が積もっていて長ゴムで滑りそうになって歩いたのを覚えている。また、マスターは我々が客の時は大概自分も一緒に飲んで騒いだ。コエヤさんも偶にカウンターの外に出てきて隣の止まり木に座って相手をすることがあった。そんなことは他の客にはしない事だった。この店には私の後から転勤してきた数人の若手も馴染としてよく来ていた。

「ニューボヘミアン」は福井生活の2年間でもっとも愉快な場所だった。というより、後にも先にもこんな雰囲気の店はなかった。その後、転勤する度にニューボヘミアンのようにゆっくりと寛げるなじみの店を作ろうと配意したし、行き付けの店は何軒もあったが、ニューボヘミアンのように背筋を伸ばせる場所を開拓することは出来なかった。

敢えて云えば、平成に入って勤務した広島で通った「スナック冨田」も我が家同然の親しみを感じた店だったが、この店は将に喧騒の世界で、とてもじゃないが落ち着いて身体を休めるというには程遠い雰囲気であった。勿論それはそれなりに賑やかな事の好きな私には打って付けの店で広島生活を楽しいものにしてくれた大きな存在ではあったのだが…(スナック冨田は後述)