漫④ 小品 「疎開2」(1の続き) | 獏井獏山のブログ

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敏子は、文学書を沢山持っている信吉に本を貸して貰ったり、時には文学についての話をして貰うことで親しみを感じていた。その心情は14歳の敏子にとって少女らしい憧れとして、父親的な信頼と一緒になって小さな胸を温めた。

 ある日、信吉は家を出て隣村に向った。貴一郎が隣村の内村という農家に頼んであったジャガイモの種(「種芋」という)と大豆の種を貰い受けに行くためだった。

「ウチが案内したる。」と云って敏子が付いてきた。村を出ると田園地帯が広がる。隣村と云っても2キロは離れている。野道を進み、溜池の堤を過ぎ、又の道に出る。敏子は信吉に文学の話をせがみ、顔を見上げるようにしてから信吉の手を取った。暑さで汗が滲んでいたが、2人はそのまま手を繋いで歩いた。まるで実の親子のような風情があり、時々出会う野良仕事の人が腰を伸ばして頬笑んだ。普通の足で30分余りあれば行けるところをゆったり歩いた2人は50分近く掛けて内村家に着いた。裏木戸を開けた儘、広い庭で作業している内村家の主人に敏子が「こんにちは、おっちゃん。」と声を掛けた。「ああ、敏ちゃんか。今日は何か用か。」「お父ちゃんが頼んでた芋と豆の種を貰いに来たんや。」「あっそうか。ちゃんと用意はしたるけど、お前が来るとは思わなんだわ。」「ウチは案内役や。」その言葉が終わらないうちに内村家の主人は信吉を見て「この前、貴一ぁんに会うた時に聞いたけど、大阪から疎開で来たちゅうのはこの人か。」と云い、頭を下げる信吉に「華奢な身体つきで、持てるか。芋は重たいで。」と言葉を残して種の入った麻袋を取りに納屋の中に入った。…用事を済ませて岐路に付いた時は3時を回っていた。


 2人は内村家で受け取った荷物を入れた袋をそれぞれ片方の肩に背負って歩き出したが、村の外れから野道に出ると、敏子は直ぐに空いた方の手で信吉の手を取った。暫く歩いた所で敏子は足を止めてから来た時と違う方向に信吉の手を引いた。信吉は「どないした。帰り道はこっちやろ。」と怪訝な顔をした。敏子は「ううん、こっちが近道なんよ。ウチに任しといて。」と云って信吉を畦道に誘導した。畦道は身体をくっ付けて行けば2人並んででも歩けるが、細い所は縦になって歩かなければならなかった。畦の一部を切って隣の田に水を引き入れる場所が所々にあった。そこに来る度に敏子は「おっちゃん、滑らんようにな。」と声を掛け、50センチ程の畦の切り口を軽快に飛び越えた。そんな時も信吉と繋いだ手は離さなかった。ところが、声を掛けた本人が3つ目の切込みを飛ぶ時に足を滑らせて、流れる水の上に尻餅を突いたのである。信吉もバランスを崩して片足を稲田に踏み入れた。2人の体はそんな状態で停止し、顔を見合わせて大笑いした。「ゴメンよ。ワシが敏ちゃんの手を引っ張った格好になったんやね。」「いいんよ。こんなの平気。」信吉が両手を出して敏子を引き上げたがモンペの後はずぶ濡れだった。「平気、平気。さぁ、行こっ。」敏子が信吉の手を取って歩き出した時、急に空が暗くなって激しい雨が降り出した。2人は30メートル程先にあった農具小屋に向って走った。広い田圃の中には

藁葺、或いはトタン屋根の小屋が点在している。農機具や収穫物を一時的に保管する為のものだが、こんな時、雨宿りできる唯一の建物でもあった。小屋に入ると雨は愈々激しくなり雷を伴った。夕立である。小屋の中には草取り器が5~6丁と藁の束が隅に積み上げてあるだけで、3坪ほどのスペースが広く見えた。2人は空を見上げていたが、信吉は敏子の濡れたモンペに気付いて「乾かした方がいいのじゃないか。」と云った。大学講師の時の癖が出て、信吉は時々標準語になる。「ええの、ええの。こんな事はしょっちゅうやから。」「それでも、この夕立は暫く続きそうだよ。少しでも乾かした方がいい。」そう云って信吉はモンペの端を摘まんで濡れ具合を確かめた。「これは酷い、ずぶ濡れだよ。中まで染み込んでいるのじゃないか。気持ち悪いだろう。さぁワシがこっち向いている間にせめて下着だけでも脱いで乾かしなさい。」そう云って後向きになった信吉の背中に敏子は「ええんよ、ホンマに平気やから、ええんよ。」と明るい声で云った。向き直った信吉は真顔の首を横に振り「ダメだ。云う事を聞かんと…この子は。」

と云うなりしゃがんで「恥ずかしがらんでもいい。いう事を聞いて脱ぐんや。」と命令調にいうとモンペの腰ゴムに手を掛けた。敏子はそれには返事をせずに降りしきる小屋の外を見やったが、抵抗もしなかった。モンペが下げられると黙って片足づつ上げた。その時、信吉の肩に支えた手はその儘にして、モンペを脱いだ後も外を見続けた。「下着まで沁み透ってるわ。後は自分で脱いで乾かしや。」大阪弁に戻ってそう云いつつ立ち上がった信吉の方に目を移した敏子は「もうええねん。おっちゃん、もうええねん。」と訴えるように言った。事実、何度となくこんな事を経験して慣れている敏子は信吉の親切心に押されて為すに任せただけだったのだ。信吉が逆に狼狽を感じながら「そうか、分かった。けど寒いやろ。モンペを脱がせて反って悪い事したな。こっちにおいで。」と云って両腕を差し伸べた。「おっちゃん!」敏子は小さく叫んで信吉の胸に抱き付いた。信吉は敏子の肩を擦りながら「反って悪かったな、寒うないか。こうしたらちっとは暖ったかいか。」と優しく云った。敏子は信吉の肩の上にくっ付けた顎で頷いて目を閉じた。信吉としては夏風邪を引かせないようにとの思いでした行為だったが敏子の言葉を聞いて、田舎の女性はこんな経験をしながら逞しく成長し、産めよ増やせよの国是を推進する母体となっているのだろう、と思って敏子の背中を擦りながらも信吉は安堵した。(続く)