呟㉔「数十年前の原発見学感想文」 | 獏井獏山のブログ

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・先日、古い資料整理していたところ、数十年前に職場の労組が発行していた機関紙(俺の投稿文が載っている)が見付かった。

・その頃、仕事の関係で原発を見学した時のこと、印象に残ったのは大きな体育館のような建物の奥に積まれた数十個のドラム缶だったのを思い出した。折角見つかったので反古になる前にここに記しておきたい。


【原文のまま書き写す】

          「原点を求めて」

原子力発電所を見ると、いかにも現代の技術の粋がつくされているという感じをもつ。

 それは、青一色の山を背に紺碧の海を前面にして白光りさえした、高い、しかもどっしりとした炉のそびえる光景が一見SFに出てくる未来都市めいて見えるせいであろうか。

 いや、そのような建物自体の威容もさることながら、それが巨大な電力を造り出しているにもかかわらず、黒煙も吐かず、爆音も立てず、周囲の空気を微動だにさせず稼働している様を見る時、この巨大な建物の中に想像も付かない高度な技術が詰め込まれているのであろう。「これぞ世にも想像を絶した怪獣かも知れない」と私が最初に原子力発電所を見たとき、何となく思った。そして「真実、怪獣でなければよいのだが」とも思った。

 2度目に原子力発電所を見た時、私は既に、それを全く知らない人間でなかったため、街で最近建てられた東洋最高のビルディングを見るよりも平然とした気持であった。しかし、見学の途中で、ある施設についての説明を耳にしたとき、少なからず恐怖を覚えた。

 原子力発電所全体をよく眺めて見ると、原子炉の位地と相当離れた、おそらく敷地の最もはずれと思われる所に、自衛隊の射撃練習場を彷彿させる建物がある。それは原子力発電に使用された放射性物質の廃棄物格納倉庫なのである。現在、放射性廃棄物の処理技術が確立されておらず、当面の措置としてこのように倉庫へ保管しておくというのである。 

 倉庫の中の空洞には、放射性廃棄物を詰め込んだドラム缶が並べられ、約1,500平方メートル(私の推測)の倉庫が何時か一杯になる。

 「一杯になればどうするのですか?」

 「あの横へ倉庫を立て増すのです。」

 「それが一杯になったら?」

 「順次建て増します。」

 「立てる余地が無くなったら?」

との問いに説明者はいとも簡単に答えた。

 「そのうち、あと10年もすれば処理方法が開発されるでしょう。」

10年後に処理方法(国内、又は国外持ち出し等)が開発される可能性はある。が、開発されないかも知れない。もし開発されなかったらどうなるのだろう。そう思うとゾッとするのだ。

 私は何の理由もなく単に取り越し苦労をしてゾッとしているのではない。

 これまで、我々が経験してきた公害の経緯を振り返ってみると、どれもこれも、人体被害その他の社会的害悪として表面化するまでは 「この程度なら大丈夫であろう」或いは「そのうち対策が講じられるであろう」と安易に考えられ、当初から将来を憂慮する少数の人の提言に対しても、将来必ずそうなるということが証明されないという理由で、根本的解決(発生源を完全に断つこと)を図らなかった結果、今日のように多くの公害にまつわる悲惨劇を見るに至ったのである。例えば、大阪の工業地帯において、周辺近隣地域の汚染を防止するため、煙突を高くして煤煙の拡散を図るという措置をとった結果、煤煙は西風に乗って生駒山の西側に滞留し、時を経て、それまでの被害地域よりも広範囲で且つ根深い公害現象としての「生駒ぜんそく」を発生させた。

 この事例は、一時しのぎ的な「当面の措置」が将来、より大きな「当面の問題」を発生させる原因になることを示している。

 産業廃棄物処理における不法投棄は膨大な産業廃棄物の発生に対し、これを処分するに適した場所、技術等が不足して、どうすることも出来ない状況を示すものであり、大きな社会問題になりつつある。このまま根本的解決を図らない限り、我々は知らず知らずのうちにゴミの山に埋まるに違いない。

 放射性物質の処理技術もない現在において、次々に原子力発電所を増設し、放射性廃棄物格納倉庫を無限に増やすことが、将来、新たにして大いなる(ひいてはどうすることもできない)「当面の問題」を発生させはしないか。それとも、放射性廃棄物の倉庫保管は将来的にも安全であり、放射性廃棄物処理の面から原子力発電所の増設を否定する理由はないと考えるのか。

 目を転じると、下水道や屎尿浄化槽における、現在のような屎尿処理方法が重要な漁場を汚染している状況が見られる。原子力発電所から生じる放射性廃棄物も同じような汚染発生源とならないか、と危惧される。

             ★

 我々は将来、公害という怪獣に呑み込まれる危険に曝されている。我々は耳をすまして、近付きつつある怪獣の足音を聞かなければならない。そして、怪獣が何を食って生きているのか、より太って強力にならないため、ひいては生き続けられないようにするためには彼から何を取り上げるべきか等、彼の生命力の原点について、今、真剣に考える必要がある。(完)


 以上、今から約40年前の文章をそのまま写したものである。

 こうして読み返してみると、(文中やや舌足らずの箇所もあるが)当時に於いて既に原発による汚染が危惧されていたことが分る。

 当時、表面化していた主たる公害は産業廃棄物の不法投棄と工場煤煙による大気汚染で、原子力発電所は社会問題化していなかったが、使用済み核燃料の処分に関する課題が、世間の目の届かない所で芽を吹き出していたことが窺える。

 そして今や将に、福島原発事故による汚染の広がりが現実となっており、今後、福島に限らず彼方此方で再稼働を始めている原発から生じる筈の放射性廃棄物が、処理方法も確立されない状況下で増え続けるであろう。

…正常な神経の持ち主なら、福島原発事故の処理も道半ばで、メルトダウンした儘の原子核から立ちのぼる放射能が配管の割れ目や隙間から漏れ続け広がりつつある状況下での新たな稼働は控えるべきだと判断するのが至当な考えだろう、と思うのだがどうでしょうかね。

それとも、「福島は福島。新たな厳しい審査基準をクリアした原発は大丈夫だ。また万一、何らかの事故やトラブルが生じても処理体制は万全であり福島の二の舞は踏まないよ。」というのなら福島原発事故の処理が完結するのを見届けてからにすればいいじゃぁないか。……嘆息と瞑目……。