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自分のための「したい」 vs 人のための「したい」

ある映画をみて感じたことがあったので、しっかりとここで言葉で記録しておきたいと思います。

僕は今まで自分のための「したい」をしてきました。
どれだけ「人のため」といっても最終のゴールには常に「自分のため」というエゴがありました。

だからこれからは「人のための」に日々精進していこうと考えるのですが、おそらくそれは簡単なことではないと思います。また、すべて「人のため」に尽くせば自分への配慮がなくなり息絶えてしまします。ではどうすればいいのでしょうか。

「ひとのために」何かすることがかっこいいから、人聞きがいいから、成功者はみんなそれをしてきたからという理由で、ひとのために何かしたいと思うことは私にはよくあります。でもそれは、本当の意味での「したい」ではありません。本当に「したい」と思った人はそんなこと考えていないと思います。気づいたらそうなってたということだと思います。


まわりのかっこいい「したい」に自分が動かされることは自然なことで別に悪いことでもなんでもありません。ただ、そういった外からの刺激によって動機づけられた行動は自分にとっても相手にとっても、何かぎくしゃくしたしこりのようなものを残します。


どんな過程を経ても最後には素直で誠実な人ための「したい」をやりたい。
今日の書いたこの内容を忘れず、一日一日を大切に生きたいと思います。ありがとうございました。

平成26年度秋募集2次選考 青年海外協力隊

試験を受けるにあたって、今まで受けた方々の情報が非常に役に立ったので、受けた私もここで情報シャアしたいと思います。

受けるにあたって準備したことは、
・過去の質問内容の洗い出しと、それに対して自分がどう答えるか、自分の経験と結びつける。
・志望する国について簡単なリサーチ。
・応募用紙に目を通し、そこから推測される質問を考え、答えられるように準備。

<試験概要>
私が参加した日は、午前の部と午後の部に別れていました。過去には朝から夕方まで一日拘束されたという方がいましたが、効率を考えてか今回は半日で終わるようになっていました。面接(人物、技術各15分)以外には書類提出、問診(2次から新たに症状を申告した人対象)などをしました。半日といっても待ち時間は僕の場合は1時間もあり、少し長く感じました。過去には空き時間を近隣の人と話していたという方もいましたが、私の参加したケースでは近隣の人と1席分空いた状態で座っており、話しかけづらい環境になっていました。事実、待機中に横の人と話している人はゼロだったと思います(話したかったのですが、、、)。ただ、面接会場に移動した際は、短時間ですが、椅子が並べて置いてあったので少し話す時間はありました。私もそうですが、みなさん緊張されているようでした。

面接の内容です。いくつか覚えてないものもあるのでそこはご了承ください。

<技術面接>
私が受けた職種は環境教育です。
面接官は二人で、それぞれが個別で質問しました。

面接官Aさん
・環境教育に関して、自分がアピールできることを2分で話してください。
ー僕は教育に強みがあったので、教育について半分、そして環境については専門知識がゼロであること、ただ興味や関心はあることを伝えました。2分は実際は測っていなかったと思います。
・過去にしたボランティア経験ついて詳しく。
・過去にした経験(私の場合は留学先でのリーダーを務めたこと)について、その内容と、そこから何を学んだか。
・派遣先にこだわりはあるか。(どんな環境だったらいいか)

ここからは「合否には関係ない質問です」という前おきを入れてからの質問です。
面接官Bさん
・途上国での比較的不便な環境(水道が通っていない、電気がない、シェアハウス)は大丈夫か?
・志望するのとはまったく別の場所や職種になる可能性があるがそれでもいいか?
・他職種と協同で活動することもあるが、それについて?

<まとめ>
・Aさんはかなりエナジェネティックな方(目をみればわかります)で、するどい質問を勢いよく繰り出してきます。内容というよりかは、そういった質問に対してどれだけ自信をもって答えているか、どれだけ本気なのかということを目をじっと見つめながらはかられている感じがしました。Bさんはは逆におっとりしていて、答えも「大丈夫です」「問題ないです」と言えば十分といった感じでした。ただ、その間、Aさんが鋭い目で私のほうを見ていたので、気を抜かないように注意してました。

<人物面接>
面接官は二人です。一つ前の面接で談笑する声が聞こえてきたので、かなり柔らかい面接になるのではと考えていました。
こちらも個別ですが交互に質問してきます。

・志望動機
・経歴をざらっとおさらいしてから(国際協力にかんする経験はほぼゼロでした)、なぜ協力隊なのかを間接的に質問。(生半可なきもちで受けてないかを確認する意図があったと思います。)
・今後の進路について
・現地にいって何がしたい?
・上司が要請内容とはまったく別の要求をしてきたとき。今まで長い時間をかけて準備したものはどうする?
・志望先について何か調べた?
・協力隊を受けるにあたって何かした?
・もし、試験に落ちたらどうする?
・その他、応募用紙に書いてあることを確認のためにいくつか聞かれました。

<まとめ>
・面接官はどちらもかなり温和でやわらかい感じでした。2回くらい「そんなに固くならずに」「もうちょっとだからがんばって」と肩の荷をほぐす言葉をかけてくれました。どちらも私の性格をみるというよりは、どれだけ本気なのか、やる気があるのかをみていたと思います。私は受験が初めてだったので、そちらに重きを置くのは合点がいきます。


<総じて>
・準備に関して、大半が応募用紙について聞いてくるのでそちらのおさらいをしっかりしておいたほうがいいと思います。また、友達や他者に読んでもらって、もっと聞きたいところを質問してもらい、それに答えられるかどうか確認する練習をしたほうがいいと思います。(私は今回はできなかったので次に活かしたいですね)。
・おおまかに、自分の経験(何をして何を得られたか)とやる気はあるかどうかを聞かれたイメージなので注意したほうがいいと思います。


今これを読んでいるあなたへ 失うものは何もありません、あるのはチャンスのみです。そのチャンスは自分が生み出したものです。「挑戦していること」にまず誇りと自信を持ちましょう。結果は変えられませんが、プロセスは変えられます。今できることをしっかりする。あとは結果をまつのみです。頑張ってください。

生き方に関する価値観

最近生き方に友達と話し合ったことがありました。

大まかに二つに分けると、安定した生活か不安定で冒険的な生活か。

生き方は人それぞれで、主張するのはよく考えれば今の自分の生き方や価値観。夢があるとかないとか、安定があるとかないとか、まず夢とか安定って何ですか?となりますし、これもやはり人それぞれ考え方が違う。自分の意見をいったり他と比べるのも大事ですが、最終的に行き着くのは自分の生き方や価値観ですし、他人のことをいえばどんな生き方でもいいとなります。これは無責任なことではなく、相手の生き方を尊重しているって意味です。むつかしいのは自分の生き方や価値観をどこまで相手の領域に踏み込ませるか。これは裏を返せばどれだけ他人を気にせずいれるかってことです。どれだけ相手の領域に踏み出すか、踏み込ませるかの理路はあたりまえのようですが、これを見失うことはよくあります。でもこれはだめなことでもなんでもなくて、よりよいものを生みだすために必要です。たくさんある価値観のなかで自分が思うよりよい価値観を選んでいく。ただ生き方の価値観に関してはこれは別に踏込まなくてもいいものかとも思います。

ジャーナリズムと贖罪



ジャーナリストは社会の不正に立ち向かったり、弱い立場の人を守るために尽力する存在だと思っていた。



庶民は自分よりも不幸な人を見たいから、人が隠し通しておきたい秘密を覗き見たいから、わざわざ金を払って週刊誌を買う。その庶民の願望を叶えるのがジャーナリストの仕事である。



もちろんすべてのジャーナリストがそんな考えだとは思わない。ただ、そういった職業観が充満しているのは確かだ。



事件や事故の被害者に遭った人の家族から話を聞くために、相手の痛みなどおかまいなしに強引な取材をする記者。その記者は家族からより強い慟哭を引き出すことが記者としてのポテンシャルの高さだと思っている。自分が書いた記事で何人の大臣の首を飛ばしたのかを得意げに語る記者もいた。



十四歳という刑事罰にとわれない年頃に二人の子どもを残虐に殺した彼が、医療少年院を経て院のスタッフに監視されながらも社会に復帰し日々の生活を送っている。スタッフによると、彼が当時抱いていた病的な犯罪傾向は改善され、今は完全に普通の青年として生活しているそうだ。そのことを後で知った私は彼と今後友達でいられるであろうか。



いつも過去に苦しめられる。どこに逃げても過去が自分を追いかけてくる。どんなに普通に生きたいと願っても、みんなよってたかって過去をほじくり出してさらしものにしようとする。まるで、死ね、おまえなんか生きてる価値はないから死んでしまえって言ってるみたいに。



初めてだったんだ、僕が死んだら悲しいって言ってくれ人は。僕はずっとひとりぼっちだった。自分の罪に苦しめられ、誰にもその苦しみを話すことができなかった。ぼくが生きようが死のうが誰も悲しまない。いや、僕が死んだら喜ぶ人はたくさんいるだろう。だけど、僕は死ぬこともできずに、ただ死に場所を求めてさまよっていた。





職員や精神科医たちの懸命の働きかけによって、医療少年院を退院した時点の彼には、事件を起こしたときに抱いていた殺人願望はなくなったという。自分が殺してしまった被害者への贖罪感情も芽生え、歪んだ心理状態もかなり改善され、人間らしさを取り戻している。



だが、その言葉を聞いたところで、今の自分にとっては何の気休めにもならない。子供の頃に起こした事件であろうと、再犯の可能性が極めて低かろうと、正常な精神状態になっていようと、彼が二人の子供を残虐に殺したのは厳然たる事実なのだ。助けてくれたことも、特別な友情を抱いてくれていることも、その事実を前にして何の意味も持たない。



どうして、そんな男と知り合ってしまったのだろう。




彼はおまえのことを親友として信頼している。彼からいろいろと話しを聞き出すんだ。どうしてあんな事件を起こしてしまったのか。今、彼はどんなことを考えながら日々を生きているのか。自分が殺した被害者や遺族に対してどんなことを思っているのか。


事件から十四年が立っていっぱしの大人になり、社会に舞い戻っている彼がどんなことを考えているのか。興味を持たない人間はいないだろう。


友達でいてやると約束してやれば、彼はおまえに自分の胸の内をすべてさらすだろう。だが、約束なんていう言葉に縛られる必要はない。結婚なんていうのも、男女が互いに一生を添い遂げるという約束事だが何割の人間が反故にしていると思う。約束なんていうのは所詮その程度のものだ。


もしかしたら自分のまわりに、名前を変えて新しい人生を手に入れた殺人者が潜んでいるのではないかと、事件から十四年が経った今でも得体のしれない不安に苛まれている人もいるかもしれない。それは少年院を出てからの彼の行方がわからないからであり、それを知り得る手段が何もないからだ。しかし、おまえはそれを知り得ることできた。世間に彼の今を伝えることができる。社会から不安を取り除くことがジャーナリストの使命であるならば、おまえは今それができる。



私は誰も知らない彼の姿を知っている。罪の意識に苛まれるように毎晩うなされていることや、同僚が酔いつぶれたときに誰よりも先に介抱しようとした優しい面や、DVDを見ながらはやし立てていた奴に激昂した正義感などだ。だが、それらのことを記事にすることにはためらいがあった。世間から憎悪の視線を一身に浴びている彼を少しでも擁護するようなことを書くことに激しい抵抗があった。同時に、彼が危険な人物であると受け止められかねないことも書きたくなかった。



重大の罪を犯した過去がある限り、ただ生きるだけじゃダメだって気づいた。でも、どうすればいいのかわからない。自分がこれからどうやって生きていけばいいのかわからない。だから、ほんの少しでも自分の過ちに苦しめられていることを誰かと共有して一緒に悩みたい。



捏造ではない。ほとんどおまえが話したことを記事にしただけだ。彼の会社の寮のまわりで、この数ヶ月にいくつかの猫の変死体が発見されている、というのはこっちの追加の取材で確かめた。彼がやったかどうか?そんなのはわからない。だから、彼がやったとは一言も書いてない。事件の犯人の住んでいるまわりで猫の変死体がいくつか発見されている。あとは読者の想像に委ねているだけだ。


彼が描いた絵といくつかの情報を提供したら十万の値がついたんだ。

まったくあんな奴と一緒に仕事をしていたと思うとぞっとする。

もっと早く知っていればおれだっていろんなネタを売り込めたっていうのに。

あんなのがうちで働いていたなんで知られたら会社の信用に傷がつく。倒産にでもなったら大変だ。



おれがやったことは今の会社から彼を排除することでしかなかった。おれがしたかったのはそんなことではなかったはずだったのに。結果的に彼が生きていく居場所を奪っただけだった。




いったいどうすれば罪の償いができるかどうかと考えた。だが、どんなに考えても、償う方法なんか見つかりはしない。何をしようと亡くなった子どもたちは帰ってこない。



根無し草に戻っただけさ。世間からの憎悪に怯えながら、決して光が自分を照らさない場所ばかりを探しながら生きていくしかない。これから死ぬまでの何十年もの間、そうやって生きていくしかない。







追記


出演したDVDを周囲に撒き散らすことによって、AV女優という過去をほじくり返し脅迫され、そのつど新しい場所を求め放浪してきた私は、同じ会社に勤める彼に好意を抱いた。


子供の頃に人を殺したという話を聞いても不思議なことに彼を忌避する気持ちにはならなかった。彼は自分が犯してしまった罪に激しく苦しめられている。必死に誰かに許しを乞うように激しくうなされ、死にたいと自分の体を傷つけている。むしろそんな彼をどうにかして救わなかればならない。



同僚のかたから話を聞いているんです。あなたが彼と付き合っていたことを。彼は自分の過去をあなたに話していたんですか? あなたも犠牲者のひとりだ。付き合っていたときのことをちょっと話してもらえれば、あなたに傷がつくような書き方はしませんから。


二人の写真とかがあったら高く買いますよ。残忍な犯罪者と付き合っていたことを知ったら、家族のかたも相当なショックを受けるだろうね。ここでちゃんと取材を受けてくれないんだったら自由に書かせてもらいますよ。


どうして自分がこんな目に遭わなければならないのだ。自分が何をしたというのだ。どうして罪人のように記者から追い回されなければならないのだ。












愛するとはどういうことですか



誰かを愛せたあの時の気持ちでいつもいれたら
誰かを傷つける言葉もこの世にはなかっただろうなあ



満ちていて 枯れていて 心はいつも誰かを
つきはなして また求めて いつも時のせいにして



傷つけてきた人の顔にだけモザイクをかけて また心は愛を探す
愛されるそのためだけに優しさはあると
恥ずかしがることもなく それを人と呼んだ



愛しているという声が 泣いているように聞こえた
心がいつか嘘を つくのを 僕はどこかで知っていたの



もっと自分を好きになれ ってくらい人に優しい君へ
自分のために使う心 残ってるの?



僕はダメなの 僕の心 僕だけのために使うものなの
こんな僕をなぜ愛しく 思えるの?



(堪えて こらえて あふれて)
君のまぶたは 僕が 自分のために
いつも 嘘をつくたび ただ涙こぼすの
(生まれて くる前からわかっていた)
神様は知ってた 全て こうなることを
そして 君の瞳大きく作ったの



そこから見ていたの 知ってたの いつでも僕は僕のことを
誰より何より 一番好きなのを



それなのに それなのに 君の言葉は言う こんな僕に
誰より何より 僕が愛しいと言う



君はそれを優しさと 呼ぶことさえ知らずに



君の いつだって誰かのためにあった心はいつも
どれだけの自分を愛せただろう



僕に いつだって優しくしすぎていた僕はいつも
どれだけの「誰かを」愛せただろう




言葉は いつもその人を映したがってた
神様は なぜこんな近くに言葉を作ったの?



心は いつも言葉に隠れ黙ってた
神様は なぜこんな深くに心を作ったの?



心と言葉が重なってたら 一つになったら
いくつの君への悲しい 嘘が優しい色になってたろう



みんなそう 自分の ためだけにいつも「誰か」がいる
じゃあその「誰か」の ためにはなんで僕はいないの?



君はそう きっとそう 「自分より好きな人がいる」自分が好きなの
今は 言えるよ 「自分より好きな君がいる」今の僕が好き



人が人のために流す涙 それこそが愛の存在の証だ
それを教えてくれたのは君だ 君が作った僕の心は



「誰がために それが僕のために」今は言えるそれがありのままに
生きてくことだと それが人なんだと



僕はそれを優しさと 呼ぶことはもうしないよ



君の いつだって誰かのためにあった心はきっと
そんな自分を愛したのだろう



僕も いつかは愛せるかな 君のようになれるかな
僕は どれだけの「誰かを」愛せるかな



泣いたね 君は泣いたね 心が「泣いて」と叫ぶまま
僕を嫌いにならないように そう祈るように



君は愛したね 人を愛したね 心が枯れそうになるまで
君の分まで 君のため 枯れるまで



愛しているという声が 泣いているように聞こえた
心がいつか人を 救うのを 君はいつでも 知っていたの

社会は”正しさ”ではなく”ふさわしさ”を採用する




差別されるのがどういうことなのか、それがどれくらい深く人を傷つけるのか、それは差別された人間にしかわからない。痛みというのは個別的なもので、そのあとには個別的な傷口が残る。




ゲイだろうが、レズビアンだろうが、ストレートだろうが、フェミニストだろうが、ファシストの豚だろうが、コミュニストだろうが、ベジタリアンだろうが、そんなことはべつにどうだっていい。どんな旗を挙げていようが、僕はまったくかまいはしない。




ただ、僕が我慢できないのは想像力を欠いたうつろな連中だ。その想像力の欠如した部分を、うつろな部分を、無感覚な藁くずで埋めて塞いでいるくせに、自分ではそのことに気づかないで表を歩き回っている人間だ。




そういう人々を前にすると、僕は我慢できなくなってしまう。適当に受け流して、あしらっておけばいいのに、僕にはそれができない。言わなくてもいいことを言ってしまうし、やらなくてもいいことをやってしまう。




想像力を欠いた狭量さ、非寛容さ。ひとり歩きするテーゼ、空嘘な用語、簒奪された理想、硬直したシステム。僕にとってほんとうに怖いのはそういうものだ。僕はそういうものを心から恐れ憎む。なにが正しいか正しくないか――もちろんそれもとても重要な問題だ。しかし、そのような個別的な判断の過ちは、多くの場合、あとになって訂正できなくはない。過ちを進んで認める勇気さえあれば、だいたいの場合取り返しはつく。




しかし、想像力を欠いた狭量さや非寛容さは寄生虫と同じだ。宿主を変え、かたちを変えてどこまでもづつく。そこには救いはない。僕はそういうものを適当に笑い飛ばしてやりすごしてしまうことができない。




”正しさ”が”ふさわしさ”の影に隠れるようなことが起こっている。ふさわしさはマジョリティーの賜であり現代社会の好物である。理屈よりは印象、思考よりは気分が優先される。もしそうであるならば、社会でよく謳われる真理追求というような言い草は無味乾燥この上ない。なぜならばその真理追求の出所がふさわしさにあるからだ。正しさを求めるということが目的ではなく、ふさわしさという、正しさを演じる空虚で利己的な擬(まがい)物を生みだすための手段として利用されている。











Colorless




俺は何も信じない。論理も信じないし、非論理も信じない。神も信じないし、悪魔も信じない。そこには仮説の延長もないし跳躍みたいなものもない。ただ、それをそのものとして黙して受け入れるだけだ。そいつが俺の根本的な問題点だよ。主体と客体を峻別する壁をうまく立ち上げることができない。




世の中の大抵の人間は、他人から命令を受け、それに従うことにとくに抵抗を感じていない。むしろ人から命令されることに喜びさえ覚えている。むろん文句は言うが、それは本気じゃない。ただ習慣的にぶつぶつこぼしているだけだ。自分の頭でものを考えろ、責任を持って判断しろと言われると、彼らは混乱する。




このプログラムを全く受け付けない人間も少なからずいる。そういう人間は二種類に分けられる。ひとつは反社会的な人間(outcast)だ。こいつらは建設的な姿勢をとるものは何によらず、頭から受け付けない。あるいは団体の規律に組み込まれることをよしとしない。もう一つは本当に自分の中で頭のなかでものを考えられる人間だ。この連中はそのままにしておいたほうがいい。どんなシステムにもそういう「選良」が必要なんだ。順調にいけば彼らはゆくゆく指導的な立場に立つことになるだろう。しかし、その二つのグループの中間には、上から命令を受けてその意のままに行動する層があり、その層が人口の大部分を占めている。



人々の人生は人々に任せておけばいい。それは彼の人生であって、おれの人生ではない。我々が暮らしている社会がどの程度不幸であるのか、あるいは不幸ではないのか、人それぞれに判断すればいいことだ。



Think Happy. Happyness does not come from somewhere but yourself. Happyness is not to be gotten, made, and sought. Happyness is the inside of you. Just imagine when you get something you like but something others do not like. It implies that you feel happy not because you get it but simply because you feel happy getting it.



Without happiness such as joy and energy, you will be dying for sure like I almost did. I never be able to say whether or not death is good but you have to live with happiness if you wish to live. It is impossible to avoid all of negative emotions such as pains, anxiety, concerns in this society and country (maybe), then how can we obtain positive aspects such as happiness? Indeed, this is not easy to do, quite tough to do. Where WAS your happiness? Once you learn it, understand it and acquire it, you'll see what it looks like and how it is close to you.











すばらしい新世界





彼は発展途上国に風車を作りに行く。現地の風を肌で感じる。現地の人を知る。現地の人の生活を知る。そして風車を売り込む。そして人を教育する。その先には。





「法律は人間が作るから、人間が変えられる。廃棄もできる。自然の法則は作るものではない。見つけるのもなんだ。見つかったものは変わらない。最初からあるものだから、変えようがない。変わらないから法則は信用できる。それを土台にものが作れる。水は低い方にしか流れないけど、科学の法則をうまく使ってポンプを作れば、低いところの水を組み上げることができる」





「自動車が走れる道がないのだから、誰も自動車のことは考えない。電力がないのだから、普通の電化製品も意味がない。しかし、ラジカセならば電池で動く。お金があれば店で電池もカセットも買える。踊るための音楽という嬉しいものが手に入る。夜、みんなで集まって、楽器かカセットの音楽で踊るというのが一番の娯楽という土地なのだ」





「みんなの手がラジカセを撫でる。表面のすべすべ感は川原の石と同じかもしれない。しかし、石と違ってこれは人間の意思で形作られたものだ。ふくらみもへこみも平滑な部分も、偶然ではなく、何か意味をもってその形になっている。指で押さえたり、回されたりすることを待っている」





この場所の日々の生活の「あたりまえ」は、違う場所の日々の生活の「あたりまえ」とは違う。


「違う」というのは理解できる。でもそれを享受することは難しい。


享受するというのは違いを説明できることではない。


「違うモノ」を比較対象とせず、受け入れ、尊重する。できればそれを味わって楽しむ。



Sayings


今日がこれからの人生の始まりの一日目で


昨日が今までの人生の一番最後の日だった。


朝に目覚めこれからの人生の歴史的一回目のトイレにいく。


またもこれから先の人生の歴史的一歩目を踏み出したんだ。


ところが昨日と同じ僕だった。 繰り返すのに嫌気がさしたんだ。


ふと誰かの言葉を思い出した。


「歴史は繰り返す」とはこのことか。


眠気目で畳んだ布団も久しぶりに片付けた部屋も、すべて細やかながら僕からの未来の僕に送る
プレゼントだ。


誓いの言葉を壁に書いたのも、目覚ましかけ眠りについたのも、すべては今日を終える僕からの明日の僕へ向けた挑戦状だ。


一瞬たりとも同じ僕はいない。それだけは忘れずに生きていた。


その一人一人が繋いできたタスキを今僕は肩にかけた。


昨日とは違う今日を望んでも向こうから同じ色の明日が来ても、否が応でも僕は違う僕になれる。


何万年と受け継がれてきて僕が生まれてきたように


必ず僕も未来の自分に今までの僕を繋いでいく。



bibliograhy

「叫べ」 RADWIMPS




裏と表 2

僕は思考の渦の中にいた。


渦の底にはCPU(中央処理装置)がいる。


彼は僕の言動を支配する。でも僕はそれを制御できない。僕と彼は同化しているのだ。


メタ認知なんて言葉はあってないようなものだ。


気付いたらあって気付いたらなくなっているようなものはないに等しい。


ないに等しいものは価値がない。


でもあるとき、気付いたときには幾分かの効力を発揮する。どっちなんだ。パラドックスだ。


CPUは僕を混乱させる。


CPUはえらいわけでも強いわけでも頭がいいわけでもない。


CPUは僕を動かすためのみにあるようなものだ。


CPUは曖昧で優柔不断で思慮深くてさっきまであった価値観を何もなかったように容易に、申告なしに別の価値観に変えてしまう。


頼りは知識や経験だ。幸運にもCPUはそれに左右されるらしい。


敵を追っている者は自分が追われていることには注意が向かない。「新世界より」で学んだ。


CPUは僕を支配するが僕の送り込んだ刺客には気付かない。自分が同時に支配されていることには気付かない。


でもCPUは万能だ。これは変えようのない事実だ。僕の言動を決定するのは彼だ。


彼がいないと身動きすらとれない。


でも彼は僕を混乱させ鬱にさせる厄介者だ。マイナスな記憶は頭に残りやすい。悲しいかなCPUもそれに従わざるを得ない。


CPUは万能でありながら単純で脆く浮き沈みが激しい。


CPUの存在は曖昧であり、CPUのすることも僕にとっては曖昧である。でも彼自身、首尾一貫した行動をとっている。



こうやって書いている間にも価値観の変動が少々あった。厄介なやつだ。



僕は首尾一貫していることを求める。政治家に対する大衆の見方もそうだ。


CPUは無慈悲にもそれを打ち砕く。でも彼は決して悪くはない。


いじめをした人が悪いのではないというのと同じだ。


いじめをした人にはいじめをするに至った経緯がありバックグラウンドがある。それが悪の根源である。


いじめをした人本人を責めても何の解決にもならない。


いじめに至った経緯を調べ分析しいじめ発生の要因を洗い出しそれを改善すると共に、それを記録し後世の再発防止に役立てなければならない。


CPUも同じである。僕の思い、大衆の思いを無慈悲にも打ち砕くに至った経緯がありバックグラウンドがあるのだ。


それは明らかだ。それはCPUを支配しているものだ。


つまり知識や経験だ。


僕はたまに僕が嫌になる。それはCPUが僕をそうさせている。でも彼を責めても仕様がないんだ。


僕と彼は同化しているのだ。


責めるべきはそう彼らだ。彼らをどうコントロールするかだ。


敵を追っているものは自分が追われていることに注意が向かない。


実は、幸運にも、彼らをコントロールできるのはCPUであり私であるのだ。
















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