シェアするブログ -2ページ目

裏と表


僕は友達の輪にいた。


笑いの絶えない、いつでも楽しい雰囲気を生み出せるその輪にいた。


笑った。すごく面白い。でも僕はそれに口を出さない。じっと見ている。


彼らの話しの流れはそれを堰き止めるもの一つなく流暢に進んでいく。


その流れを岸辺から見ているといつの間にかどうやってその流れに乗ればいいのかわからなくなった。


流れに乗るのはとても難しい。流れの方向、速さ、タイミングすべてを正確に理解していないと
たちまちバランスを崩し波に呑まれてしまう。


波に乗っている人は安定している。波をうまく利用している。そして波に乗り続ける。


そもそも波を外から眺めていること自体おかしなことである。タイミングを見計らっているのがおかしなことである。


しかし、それは訪れるべくして訪れる。それを感じとる。僕は今その流れを外から見ている。


僕はそれがダメなことだと勝手に考えている。そしてストレスを勝手に感じている。



その理由を考えて見る。僕の頭に「劣勢」という言葉が浮かぶ。それは僕が昔から意識してきた言葉だ。


流れに乗っていることに対して、それに乗れていなかったり外から眺めていることが劣勢だと感じる。そしてストレスを勝手に感じている。


劣勢だとストレスを感じることはよくあることだ。試合で負けていれば空気が重くなり息苦しくなる。決していい気持ちはしない。


しかし流れに乗れていない、流れを外から見ていることに劣勢を感じるのはおかしなことである。


それは試合で負けていることと同じではない。ライバルに差をつけられている状態でもない。


だから事実をそのまま受け入れる。受容する。そして共感し、発信する。訊かれたことに答える。


億劫になってはいけない。マイナスに考えては損である。自業自得だ。自業自得でしかない。


流れは休むことなく、周りに気に掛けることなく、無情にも流れ続ける。


流れはそれを妨げる大きな岩が投げ込まれるのを望んではいない。


しかし流れに乗って必死に泳ごうとするものを応援し力を貸してくれる。


最初はうまくいかない。流れも敵のごとく押し寄せペースを乱し奈落の底へと誘う。


そこで引き上げれば流れは穏やかな流れに戻る。流れはすごく気分が良いように見える。


実際にそうなのかもしれない。僕はそれを快く思う。


でも僕は楽しくない。僕は楽しんでない。僕は意地っ張りで目立ちたがり屋なのだ。


流れを眺めるのは最初だけでいい。流れに乗って泳ぎたい。アクティブにいきたい。


そのためには幾つかの障壁を越えなければならない。我慢しなければならない。


世の中は自然淘汰な世の中である。人間はそれを人間の社会に根付かせている。


頑張らないと見捨てられてしまう。我慢しないと見捨てられてしまう。


波に乗らないと前に進めない。取り残される。


泳ぐことなんて基礎・基本があれば誰だって泳げる。


それは今までの短い人生の中で学んできたことである。


そうとわかればあとは泳いで泳いで泳ぐ。疲れて息が切れれば岸辺に上がって休む。そして今まで自分が乗ってきた流れを眺める。

今日の流れは少し獰猛だ。だから少し待つ。そして再び泳ぐ。


気づいたら長い距離をうまく流れに乗せて泳ぐことができるようになっている。


それは自分が今まで頑張ってきた証だ。正真正銘の証だ。


それでも流れは足を止めない。流れ続ける。僕は息を整える。僕は再び泳ぎだす。


























善悪の転換



大体の善悪は法律でその線が引かれている。


もちろん、法律で決められていない悪もあれば、法律で決められている善もある。


今回取り上げるのは、個人の善悪である。


人それぞれ善悪の判断は異なりまた状況によっても異なってくる。


あの時善いと思っていたものが今では悪だったりその逆も然り。


この仕組み、思考の流動さをあまり好まない。


過去と現在の判断が状況や環境によって変わることは避けれないのであるが、


それでも善悪は対極にあるものである。そんな大事な両者の大きな差を縮め線を引くときは慎重に議論され判断されなければならないはずである。


しかし、この善悪の容易な転換、その流動さに注目すれば善悪は紙一重であることがわかる。


これは一つの大きな議論の的となるのかもしれないがそれについてはまたあとで述べる。


ここで考えて欲しいのが、その個人の善悪の容易な転換がこの上なく恐ろしく


僕らの生きる社会を息苦しくしているということである。


これについて何も実感のわかない人はこれからいうこともあまり理解できないかもしれない。


この善悪の容易な転換は自他ともに影響を被るわけであるが、他者に焦点を当てる場合、それはなんとなくであるが

違和感はもちにくい。これにはもちろん場面設定も大事になってくるのだが、


例えば他者と話しているとき。


もし他者が、素でいられる親友などであれば、いわゆる「気遣い」や「建前」やその他の「負荷」
を自分に懸けなくてすむ。

よって、善悪の用意なる転換なるものが起きても驚愕することもなければ認められるものでもある。鋭敏な親友であれば咎められるであろうが。


もし、これが親友でもない普通の友人や知人、赤の他人、生徒・児童だれでもいい。


そういった他者としゃべるときは親友の時と比較すれば被害は大きい。だだ、これも実はダメージは少なく抑えられる。


それは、他者とのコミュニケーションは流動的であり、曖昧であり、寛容であるからである。


ある程度の矛盾や言い間違いやミスは咎められない。それがそういったことについて話し合ったりするディスカッションなどの場でない限りは。


自他の「自」について考えてみよう。自分というものが流動的で、曖昧で、寛容な存在、そういった素性・気質であるならば耐えられるかもしれない。

ただそれ以外の方は、残念ながらダメージを被る。思慮深い、ネガティブ思考、考えすぎる人に多いであろう。


私もその一人であるが、そういった人は善悪の容易な転換を受け流すことはできない、考えないことはできない、マイナスに考えざるを得ない。


例を出そう。人間誰でもストレスの源の大部分は人間関係であろう。



容姿は大切である。ときにはその人の内情をも映し出すその鏡は役に立つ時もある。


だが、悲しいかな、それはいつも見透せるということはなく、プラス人間には偏見のというものがあるがこの両者が合わさることにより、

いわゆる先入観なるものが創られる。それがポジティブなときもあるが大体はネガティブであろう。

何を悪とし何を善とするのかは議論の余地があるが、もしある容姿が「悪」、もう少し寛容な言い方をすれば「好ましくない」容姿である場合、

やはりそれは「そういう人間」であるという判断がそのときは下される。だが、その人と実際話してみると

容姿に似合わず実はとても「善い」人であった。ここで起こる善悪の転換に少し違和感を覚えないだろうか。


自分はその人をミスジャッジしたのだ。話してわかったのはいいがもし話さずに終わる

ということがもしあったならばそれは大変なことである。

もっと恐れ多いことはある。その「善い」と判断した人がまた「悪」になるときがくる。


その「悪」がまた「善」になる時がある。この一転換で精一杯な人が複数の転換に遭ったとき力尽きてしまうのではないか。








Random


Randomというタイトルつけたのですが実際に書いてみると内容が一貫しているということもある。

毎日小まめに書いたり、書く日にちを決めて習慣的にやってるひとはすごいと思う。僕には到底できないことです。

習慣化するのってすごく難しくて、なかなかできない。それはなぜかというと、時間がかかるしその分の辛抱とか我慢とかがいる。何を習慣化するのかにもよる。


習慣化したものってある程度それが嫌でも続けられる。なぜなら習慣化しているから。ただ、やはり嫌なものはやっぱり続かないというの真実ではないだろうか。


習慣化する対象はやはり好きなものであってほしい。でも、好きなものって習慣化しなくても勝手にやっていたり、習慣的にやったりするので意図的に習慣化する必要がない。

つまり、習慣化は自分にとって嫌なこと、もしくは好きではないことを対象としているのだろうか。

何せ私には習慣化したいというものがたくさんある。

私はまじめな性格なのでとにかく「勉強しなければ」という願望がしょっちゅう頭によぎる。
この気持ちがわかる人はわかると思う。

勉強だけではない。課題やレポートやなんやらいつも追われている。そういう感覚になる。僕はそれが嫌いだ。それを気にしているからなのだが、私の性格上それを気にせざるを得ない。

この一つの解決策として、あることに熱中するということである。なんでもいい。ゲームとかサークルとかスポーツとかなんでもいい。とにかく、自分に付きまとうマイナスな圧力をかけてくる感情から一時だけ解放されたい。


ただ、私が思うのはそういうことやるなら課題やらレポートやら自主学習にあてたほうがいいということである。じゃあやればいいじゃないかと思うのであるが、思った以上に進まない。手が付かない。始められない。いままで20年とちょっと生きてきて、こういうふうに思ってからたぶん大体3年は経つ。自分を変えようと、もっと頑張ろうとするけれどなかなか変えられない。

てか変わっていない。同じことを繰り返している。この前克服したはずモノがまた自分に襲い掛かりまんまとやられている。


留学先で履修した心理学の授業で学んだことは目標設定の大事さである。特に細かな方のそれ。abstract ではなくspecificのほうである。塵も積もれば山となるという考え方に重なる。大きな目標を達成するためにまずは小さな目標から一つずつクリアしていく。


そうすればすべてがうまくいく。はずがない。そんな世の中甘くない。人間は頑張っている。すぐに怠ける人間のやる気を引き出そうと、すぐに挫折する人間を奮起させようとさまざまな研究がなされ、人間を鼓舞してきた。おまえはやればできるんだぞと。だが、できない。なぜか。

これは一言では答えられないし、私の見解にしかすぎないのであるが、、、


自分だけが読者という設定で書こうと思った今回のブログもなぜか知らないうちに他人読者を意識してしまっている。これでも、自由に書いたつもりなのだが読者目線で少し、倫理的にやさしく書いているのであろうか。

この世界でうまく生きるためには倫理的に行動しなければならない。悪はいつも非難の対象。感情的なのも対象だ。賢いやつは最初に倫理的な行動をとりあとで悪にいく。悪に行きながら倫理的になる。僕はそんなことは嫌いだが、社会に出れば倫理的に行動せざるを得ない。

それに倫理的に行動し称賛され、うれしく思っている自分がいることに気付く。でも僕は倫理的な行動が嫌いである。人と違うことをしようと考えているのであろうか。ただの不良ではないか。いや違う。もっと、悪巧みにしてももっと深いものである。倫理的なものも織り交ぜたもっと深いもの。

今日のブログは自由作文。まだまだ書き足りないことはあるが、「しなければならないこと」がそろそろ頭によぎってくる。なんでも早めに終わらす。意識の持続から習慣化してみる。





経験豊富

久しぶりの投稿です。


今ニューヨークにいます。


一人旅です。


なぜ一人旅をするか?


それは複数で行くと必ずその人に頼ってします性格だからです。これでは成長しません。


旅の初っ端に財布を盗まれました。本当です。


同時期にNYに旅に来ている友達にお金を借りて何とか助かりましたが、いやーひどいものです。


飛行機から降り立ち、荷物を受け取ったはいいがお金がない。


まずしなければならないこと。カードを止める。中には二枚のクレジットカードが。


カード会社の連絡先を知らなかったので親に電話しようとこころみる。繋がらない。


次に留学先のカナダに連絡。繋がった。が、返答がない。あちらの時間は午前5時すぎ。もちろんみんな寝ている。


これはやばい。こうしている間にカードの暗証番号が知られるかもしれない。焦る。


盗まれたのではなく落としたものと信じて、飛行機の中、待合室と心当たりのあるところは調べてもらったが見つからず。


過去に財布を何度か落としたことがあったが、後で見つかるパターンがすべて。


この大事なときに大事態。ついに盗まれた。


今は返答なくともとにかく後数時間もすればみんな起きだす。僕のアラートに気付く。



国際電話。いつもは避けてきたが気にもならない。早く起きそうな人にとにかくかける。


次にネットに繋ごうと試みる。幸運にもラップトップを持ってきていた。どこでネットを繋げられるか尋ねる。


二階に行けば繋がるだそうだ。行ってみる。繋がらない。係員の人に尋ねる。荷物を受け取る前の


エリアに行かないと繋がらないそうだ。つまり、もう一度登場しない限り不可能。これは無理だ。


次にすぐ横にあるターミナル1に行けば繋がると言われる。外にです。あいにくの大雨だ。



僕の気持ちをさらに曇らせる。ターミナル1に到着。繋ぐ。繋がらない。近くの係員の人に訊く。


知らない、だそうだ。次に別の係員に訊く。コンセントに繋げば繋がる的なこと言っている。


コンセント装着。繋がらない。知らないのに適当なことを言う。腹は立つがそれどころではない。


次に、すぐ近くのネットカフェがまもなく空くという情報を得る。でかした。だが有料だそうだ。


開店は一時間後。さっきまでいたターミナル2のカスタマーサービス的なところまで戻る。形態の電池がなくなり充電するため。


充電。だれからも返答なし。久しぶりに時間が早く過ぎてほしかった。



旅先の滞在はホームステイ。こちらも大事。寝るところの確保。電話をする。繋がったが、出ない。



これはやばい。これ意外連絡先も知らないし、泊まるところもない。もう一度電話する。


繋がった。とにかく僕のしでかした事情を伝え、こちらにまで迎えに来てくれないかどうか尋ねる。



オッケーの返答。だが少し時間がかかる。一時間後にまた電話しなおしてくれだそうだ。



とりあえず、すこしほっとする。ネットカフェ開店の時間。足早にターミナル1へ。開いていない。


横の店の人に聞くとあと三十分は見といたほうがいいだそうだ。たまにこういうこともあるのだそうだ。



三十分経過。開店。入店。店員に事情を説明。お金がないのだけれど何とかならないか、僕は自分のラップトップを持っている。


自分のもっている情報を伝える。店員はぽかん。僕の押しの弱さも否めなかったのだが、関心・興味なし、助ける気なし。


足早に店外へ、そして例のカスタマーサービス的なところへ。もう3,4往復はしている。さすがに少し周りからは変人扱い


をされているような気がした。ホームステイ連絡の時間。連絡。さらにあと一時間は待ってというご連絡。


留学先から一通のテキストが返ってきた。起きた。驚きの様子。とにかくオフィスに連絡と、親に連絡してほしいと頼む。


わかったと返信。一安心。次にオフィスから連絡。疲れている様子。出勤途中なんだそうだ。少し待ってと。


私の急いだ口調から一つも緊急性を感じていないのか、なぜか少しめんどくさい様子。まじかよ。



でもそんなのどうでもいい。助けてくれるのには間違いない。これは助け方の問題。


後ほど電話がかかってきて、カード会社の電話番号など僕の知りたかった情報が入る。


その情報をもとに電話をひとつひとつかける。必死になっている僕の横ではカスタマーサービスの係員


が音楽をかけ始めノリノリな様子。空気というものを読めない様子。僕に向かってぽつんと一言。


あなたニューヨークに滞在するの?


、、、します。はい。ニューヨークも何もお金がないから帰ることもできない。この状況でなんてことを。


カードをとめ、残すところはホームステイ先に行けるのかどうか。


指定された時間帯に外に出、迎えを待つ。なかなか来ない。30分経過。電話する。もうすぐ着くだそうだ。


1時間経過。電話を掛ける。出ない。僕の頭にいやな予感が。もしかして僕を疑っているのではないか。


ホストファミリーとコンタクトをとったのはメールのみ。そこでとにかく礼儀正しくしようと言葉には気を付けてメールを送っていたのだが、


何せ財布をなくしてお金もないうえに空港にまで向かいに来いという始末。これはあちら側からしては少し疑ってもおかしくない。


もうすぐ着くといって最終的に迎えに来ないのではないか?


タクシーではない高価な車ではあるが、きれいではない車に乗った、中国系やアラブ系のドライバーが乗らないかと催促。断わる。


僕のフライトの次の次のお客が迎えられて長らく一人の時間。


今日は空港に泊まるのか、、、



遠くから僕の名前かもしくはJapaneseという声。


やっとのお出まし。起死回生。


最初の時間指定から、2時間30分後にようやく迎えが到着。


遅れなど迎えが来たと自覚した後は気にもならない。


助かった。














Hong Kong

香港へ行ってきました!!




短期間でしたが香港という場所を堪能できたように思います。


 


香港って何がすごいと思いますか?








・・・夜景です!!                                                                                                  






huta9 blog-Victoria Peak 2
 



huta9 blog-Victoria Peak 1




huta9 blog-a Symphony of Lights






どうですかこの迫力!美しさ!




うち上の二つは日本視点の世界三大夜景の一つです(場所がそうなのであって私の撮ったものは価値的には30点くらいです^^;)




もし間近でみたいという方がおられましたら、どうぞ香港へ足を運んでみてください。 大満足ですよ(^_-)



独りプレー

夏休みに入り、何か新しいことに挑戦したい!!、という方は多いのではないか。


しかし、もしそれを「独り」で行うのであればなかなか長続きしないのが落ち。


それは、明確な目標や目的が定まっていないということも理由の一つとして考えられるが、


何よりも「独り」で行動するため他に一緒になって頑張る人がいない、ことが一番の要因に挙げられるのではないか。


思えば、新しい物事に取り組む際、


そのインセンティブは「友達に誘われたから」、「友達がやってるから」などのように


自分ではない他人によって自分の行動が決められている、もしくは影響されることが多い。


そう考えれば、物事がなかなかスムーズに進まない、やる気が出ないときは


誰かと並行して作業すれば、ある程度の効果は期待できる。


ではその「誰か」がどうしてもいない、見つからない場合はどうすればいいか?



短距離専門の陸上競技選手である福島千里さんは、


日頃から個別で練習することが多く、まさしく「独り」ではあるが電々とメニューをこなすそうである。


なぜそれほどまでに気持ちを切らすことなく頑張れるのかという問いに対し、彼女はこう答えた。



「スタートラインに立つのは一人。どれだけ他人の人にサポートしてもらっても最後は一人。だから、練習している自分もスタートラインに立つ自分をサポートする。その人のために、つらい練習もやってあげるという感じ。そうじゃないと耐えられない。」



自分の中にもう一人の自分をつくることでモチベーションを保つ、強化する。


それはスポーツに限らず、受験でも面接でもプレゼンでもその時に受ける、話す、発表するのは自分ただ独り。


自分が成功するイメージをもつという手法もあるが、イメージだけでは物足りない。応急処置に過ぎない。

 

自分にとって大事な、「其の時の独りの自分」のために、今の自分が最大限の努力をする。 



独りプレー。 頑張れる気がしないだろうか。



恋愛 part4: 出会い

出会いがない  好い人がいない



それを彼氏・彼女がいない理由にしていいのだろうか。



では今までそういった人がいなかったのかというと、そうでもないのではないか。 



誰でも過去に気になった人、好いなあと思った人はいるのではないか。



過去に何度かあったものが現在から未来にかけて突然なくなることはない。



出会いは必ず来る。




その出会いを待ちきれないのか、周りがいるから焦っているのか



友達に誰かいい人がいないか当たったり、ナンパしたり、合コンを催したりと出会い探しに一所懸命になっている人を見かける。



確かに、出会いは求めたほうが早いかもしれない。



だがそういった出会いは、例えば、



あるご当地の食の名産の食べたさに負けて、ご当地に出向くまでもなく、直送のお取り寄せ通販で何の苦労もなく、ドラマもなく出会いたい味に出会う、みたいなものだ。



味がおいしいのは間違いない。



だが、味に深みがない。 感動がない。 名残がない。 



「おいしい」という味覚の反応だけ。



出会いを求めるなとは言わない。



ただ、その求めに必死になる必要はない。 



求めるにしても、求めないにしても自分の素直な感情のゆくままに行動すればいい。



焦る、必死になることは素直な感情を妨げる。 





この世に男と女が存在する限り、周りに男と女がいる限り、異性に出会わないことはない。



幸運にも、日本では男女を隔離するような制度や場所がないのは追い風だ。




出会いがないことを恋人のいない理由にしてはいけない。それは理由にならない。



理由にするべきは、今まで出会った「好い人」を逃してしまったから、諦めてしまったから、自分のものにできなかったからである。



それならば、では恋人をつくるにはどうすればいいのか。



出会いを求める、より先に、もしくはそれ以上に



いつか必ず来る出会いを確実なものにする、その機会を絶対に逃さない自分を育てておく必要がある。



どんな自分を育てるか、それは人によって違う。



ファッションに力を入るのもよし、勉学に励むのもよし、何かに熱中するのもよし、旅に出るのもよし、理想の自分育成学校に通うのもよし。



ここでは、前回の、自分視点の自己磨きに加え、



他人にとっての自分がどうありたいか、出会った彼、彼女にとって自分がどうありたいかを考える



他者目線の自己磨きが必要になってくる。



出会いは必ず来る。 裏を返せば、出会いはいつ来るかわからない。



そんな、スリリングな出会いが来たときに、



自他からみても立派な自分、魅力的な自分であるように



万端の準備をしておこうではないか。























 













恋愛 part3: 外見(容姿)

質問です。



外見はいいが、中身はわるい人。



外見はわるいが、中身はいい人。



最終的な決断を迫られたとき、あなたはどちらを選びますか?もちろん恋愛対象としてです。



多くの方が後者を選ぶのではないでしょうか。 



親密に、末永く付き合っていきたいのであればなおさら中身の善さは必要になってきます。



ただ外見もある程度は必要だというのも本音。



第一印象や他人からの目を考えればやはり外見は無視することはできない。



それに中にはこんなことを言う人もいます。



「外見がいい人は中身もいい」 と。 果たしてそうなのか。



「外見のよさ」の始まりは、生まれたときから。(つまり、外見は先天的ということ。)



「外見のいい人」の始まりは、他者から「かっこいい」とか「かわいい」とお世辞なしで評価され、自分がそれを認



識したり納得してから。



自分が外見のいい人だと分かった後にどうなるか。もちろんすぐに何かが変わるとは思いません。



それに男女、性格、家柄、住んでいる地域、出会う人の種類などによって彼ら、彼女らが「外見のいい人」として歩む道は異なります。



ただ一般的に考えれば、「外見のよさ」を有している彼、彼女は表面的に出さない、もしくは意識しなくとも



心底では「私はかっこいい」「私はかわいい」という自負心があります。



そこから生まれるのは慢心だけではなく、さらにその「外見のよさ」を保つもしくは磨こうと服や髪形や化粧や振



る舞いなどに力を入れようとする。もちろん力を入れない人もいます。これは特に男性に多いですが



装いがなくても「かっこいい」の称号は揺るぐことはほとんどありません。



そんな「かっこいい」「かわいい」彼ら、彼女らにはどういうわけか自然と人が寄ってくる、もしくは視線を集め縁談



ならぬ恋愛談がたくさん入ってきます。「外見がいい」ことによって。(もちろん現実はそれがすべてではありませ



んが。) それに慣れてしまうと彼ら、彼女らの中に盲点ができてしまいます。



その盲点こそが中身です。 



外見に自惚れるがために中身を見落としてしまうのです。



しかしながら、人は千差万別。



先述に加えて、外見もよくて中身もよい人もいれば、外見も中身も悪い人もいます。



それにその人の好みによってもその判断は違ってきます。



ただ、ここで言いたいのは先天的なものを使って良い思いをしていいのかということです。



人が評価されるのは先天的なものではなく、後天的なもの



つまり、自分の経験や努力によって得られたものでなければなりません。



それは、得られたものそのモノの評価だけでなく、



生まれたときから存在する「差」を埋めようと努力する、もしくは、たとえ先天的優位があっても驕らず、貪欲に



「磨けること」に尽力するといったその過程やそれをしたその人の人間性も合わせて評価される。







外見のよさがないからどうしたっていうのか?



先天的なものは高が知れています。



今からでも「磨けること」に徹し、自分のよさを見つけ、伸ばしていきましょう。



まずは自信を持つことです。「どうせ・・・」という言葉はもう捨て去りましょう。



チャンスは誰にでもあります。 

















積極的積極性

先日、大学の食堂で出会した京都に観光中の6人の韓国の方たちと仲良くなり、後日に開かれた  



韓国の学生との交流会に参加しました。



交流会では、韓国人と日本人の割合が7対3くらいだったので、韓国色が濃く、言語はもちろんのこと



人柄や雰囲気も大きく異なっていて日本にいながら少し奇妙というか不思議な感じがしました。



特に驚いたのは、彼らの積極性。



交流会には私たち(友達一人)が食堂で知り合った人以外の人もたくさんいて、私たちを新顔とみるや



すぐにあいさつに来て自己紹介をしてくれました。 これがいわゆる積極性。



ここで考えるべくは、彼らは韓国人であり日本語をほとんど駆使できないということです。



もちろん、日本に観光にくるということで、日本に興味があり、日本語も片言だけれども話せる人もいまし



た。 しかし、話せるといっても「こんにちは」や「私の名前は~です」くらいです。そんな困難な状況にあ



っても、彼らは興味津津で私たちを覗き込み、それ以上の会話を私たちに求めてきました。 



私たちは何の迷惑にもなりません。 ご察しのとおり、大変なのは彼らです。 



しかし、会話が途切れて気まずくなるだろうという悪い予感に反して、



彼らはそれを気にもせず、気まずいとも思わずに必死に自分のわかるだけの日本語とボディランゲージ



で応対し、コミュニケーションを取ろうとしてきました。



日本語がうまくしゃべれないからなどという不安は、その時の彼らの中には一切見当たりませんでした。 



ただ、私たちとの出会いを歓迎し、それを伝えたい、



分かち合いたいとの思い一心であったように思いま。 



自分からあいさつ行くという積極性、



そして自分に大きな不安要素があるにも関わらず会話を続けようとするさらに難関な積極性。 



一連の行動の性質をいうのか、それとも積極性を経てのさらなる積極性(二つ目の積極性)を指すのか



わかりませんが、どちらにしても積極性を超越した積極性であることには間違いありません。



つまり、積極的積極性。



目指してみる価値はあると思います。







   



On Love part2: Return of Love

This section follows the first part "Proximity" and second part of "On Love" that aims at growing your love, that is, finding your future girlfriend or boyfriend. Now, let me describe "Return of Love" in this section from now on. Can you imagine what this "Return of Love" is? The hint is "Return" whici is so much significant to go ahead this topic. "Return" means, as you see, "come back of go back to a place or person"and in this case, "come back to a person". Following the reference, this phrase "Return of Love" could be changed like "Love come back to you, in other words, you get love as reward". Then, what is "Reward" in that case? Some examples are like; you give (someone) (something) as a present, you help (someone) with doing his or her materials, you carry (someone's) luggage in place of him or her, you look after (someone) who is dead drunk, you listen warmly to someone's complaint, distress,or things on everyday life, and everything. Things that you dont noitce could also be the above-stated things, in this case, that is recognized only for (someone) whom you do the things to. These examples could integrate into only one element. That is just "you give someone "LOVE". Whatever the form of love is like, it is definitely certain that you give your love to (someone) when you act these examples. Then, what happens? As you know, "Love" returns to you. This "love" would be not always the same love you brought before, but absolutely a sort of love come back to you. The reason of this man's usual desire to return love to (someone) results from instinct of human beings, perhaps in common to all the animals. Thus, offering love to (someone) could bring "Return of love" to you later. That maybe causes a start of your love from then.