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『猪谷の史跡・見学ポイント』

 

P32 猪谷中学校跡

 

  
 昭和二十二年(一九四七)、義務教育が六・三制になり、猪谷中学校が発足した。当初は、猪谷小学校の一部を借りての授業だったが、昭和二十三年(一九四八)、校下あげての協力により、猪谷の高台に、校舎が新築された。
 昭和三十七年(一九六二)、生徒数が二〇七名にもなったが、その後、生徒数が減少し、中学校は廃校となった。
 跡地には、村営住宅が建てられ、校舎は、コンデンサー工場となったが、村営住宅は老朽化により取り壊され、工場も不況により撤退した。平成十五年(二〇〇三)、シイタケ栽培工場「シーテック細入」が建設され、細入の特産品生産に動き出した。        「細入村史」

『猪谷の史跡・見学ポイント』

 

24 稲川治助顕彰碑(P31)

 



 八坂社境内にあるこの碑は、明治二四年(一八九一)の銘がある。稲川治助は、当時この界隈で並ぶものがなかつた相撲取りであったという。安政四年(一八五七)に猪谷で生まれ、大正一三年(一九二四)に死去した。石碑には、「千代獄門弟 稲川治助」と大きく刻まれている。治助は、この界隈で名をなしただけでなく、中央の相撲界にまで挑戦したという説もある。猪谷を中心とした対岸の村々を含む広い範囲の青年たちが勧進元となって碑を建てたことを考えれば、近在にはよほど鳴り響いていたのであろう。
「細入村史」

『猪谷の史跡・見学ポイント』

 

23 氏神八坂社(P30)

 
 猪谷 八坂社の主祭神は、建速須佐之男命で、安政年間に祀られたと言われている。「八幡宮」「神明大神宮」「牛頭天王」「「石動大明神」「諏訪大明神」などが合祀されている。
 春祭りでは、勇壮な獅子舞が奉納される。境内には、日露戦勝記念碑、御大典紀念碑がある。          
「細入村史」

 

 

 

 

『猪谷の史跡・見学ポイント』

 

P28 大垣宗左衛門の墓
 
 飯村家の裏に小さな五輪塔がある。これは、美濃の国大垣より対岸の小糸集落へ移り住んだ大垣宗左衛門の墓と言われている。
 宗左衛門は、当時の藩主への上納米の負担に苦しんでいた百姓のため、大罪と知りながら、単身加賀藩の藩主へ直訴し、身を挺しての訴えに感動した藩主が、上納米を軽くし、また銀納を許されたのであるが、新川代官が直訴という罪を犯した宗左衛門を召し取るため、役人を遣わした。それを予期していた宗左衛門はうまく逃げ、神通川を渡り、役人が手を出せない富山藩である西猪谷へ着いたのである
 そうして、宗左衛門は、猪谷の森家に身を寄せ、猪谷のために尽くしたといわれている。
 森家には宗左衛門が所持していたという「天狗の爪(サメの歯?)」なるものがあったが、昭和十六年(一九四一)の大火によって消失したという。 
「細入村史」

 

 

『猪谷の史跡・見学ポイント』

 

21 富山藩西猪谷関所跡(P27)

 

 


 

 明治初めに関所が廃止された後、関所跡は、宅地や畑地として利用され、石畳や礎石が残っていたが、昭和四十年(一九六五)、国道四十一号線の拡張工事が行われ、今の関所跡は、ほんの一部しか残っていない。関所跡に立つ説明板には、次のように記されている。
 「西猪谷関所は、天正十四年頃(一五八六)から、明治四年(一八七一)までの約二八〇年間置かれ、特に富山藩が立藩した寛永十八年(一六四一)からは、橋本家と吉村家が代々番人を務め、人や物の監視など国境の警備にあたっていました。
 番人は関所内の建物で生活し、その建物には川手方へ十四間、山手方へ三十八間の矢来垣があり、番所には常時鉄砲二挺等が備えてありました…」
 西猪谷関所の模型を、猪谷関所館で見ることができる。       
「細入村史」