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神通峡ふるさと創生物語ブログ1:「神通峡かいわいの昔話」・「集落ガイド」・「神通峡のわらべ歌」・「神通峡民話物語」等

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殿様の清水   富山市春日

 



 笹津駅から西へ五百メートルほど行った所にある春日公園の東の一角に「殿様清水」がある。


 江戸時代、この地には富山藩の塩蔵があり、飛騨へ塩を運ぶ時の中継要所となっていた。その御蔵番の殿様が好んでこの湧水を飲んだことから「殿様清水」と名付けられたといわれている。

 

 殿様は湧水のおかげで一生無病息災であったそうだ。このことから今でも守られ地域の人に親しまれている。


 夏は冷たく冬は暖かいこの清水は、水質分析の結果「穴の谷の霊水」(全国名水百選の一つ、上市町)に似ているということである。

 

 昭和60年には「とやまの名水」に指定され、万病に効く霊水として、多くの人が汲みに訪れる。


 遠く石器時代の遺物が一時盛んに掘り出され、出土品の所在地としても有名である。


大沢野町誌

又兵衛の刀   富山市塩

 



 むかし塩村に「ゴーライ又兵衛」という侍がいた。

 

 この人の持っていた脇差しは由緒ある銘刀であったと伝えられている。この銘刀の目抜きのところに、巧みな雄鳥の彫り物がしてあった。

 

 又兵衛が所用に出て、帰りが遅くなって夜中の八幡野を通っていると、妖怪に出会い、迷わされそうになった。

 

 すると何処からか一番鶏の鳴き声が聞こえて来た。妖怪は夜明けが近くなったと気づいてあわてて消え去った。

 

 しかしまだ夜は深く、実は目抜きの鶏が急を知って「とき」のに声を挙げたので、危うく難を逃れることができたという。


大沢野町誌

名伯楽   富山市西大沢

 



 むかし、ある年の正月のこと、富山藩主が自分の愛馬に正月の餅を与えたところが、馬は翌日から食が細り、元気なく日に日に衰えるばかりであった。まさか餅を食わせたともいえず、藩の名伯楽を召し出し見立てさせたが、皆首をかしげるばかりであった。

 

尋ね尋ねて天下にも有名なといわれる滑川の某伯楽に診せた。伯楽が思案の末申すには、

「恐れながら私にも相分かり申さず、聞くところによりますと何でも笹津近在に山本某という伯楽、この者に見立てさせては・・・」

という。


 藩公さっそく早馬を立て召し出された。それは二月一日のことである。山本という伯楽は馬の腹を二、三度なで、

「殿、これは餅気のものを与えられたと見ますが・・・・」

と即座にいい当てた。


 殿はひと膝乗り出し

「していかなる薬でこれを」

「はい手易いことでございます。明日といわず今日から、一食にコンニャク十枚あて、一日三回与えますれば・・・・」

と申し上げた。


 さっそく富山中の店々を買い集めたが、わずか五枚であったので、金沢城下まで毎日早馬を立ててコンニャク買い役が始まった。

 

 二、三日頃から回復が目に見えてきた。そして七日目には元のようになってしまった。

 

 藩公はことのほかのお悦び、褒美をとらすと申され、西大沢付近に数万坪の土地を与えられた。

 

 伯楽は大邸宅を構えて「様」付けで呼ばれるようになったという。


大沢野町誌

殿様松   富山市下大久保

 



 下大久保の中心部にそびえている老松は、飛騨街道の並木松のほとんど唯一の生き残りである。いわゆる殿様松である。


 これはもと飛騨街道両側に植えられ、雪中の目印とされたもので、戦のときは切り倒して敵の進行を妨げる防塞となり、また用材としての用意を兼ねたものであった。

 

 いつの頃か(明治十五年頃)飛騨街道の拡張、修繕の行われたとき、不要の街道松を伐採して道をまっすぐにしようと県より係員が出張検分に来たとき、この老松を眺め、その下に小さい灰納屋があったのを祠と見間違えて、

「あれは祠か」

と問うたところ、傍の人が

「そうだ」

と答えたため、

「それならば伐る必要がない。その祠のものとせよ」

と言い去って、そのまま伐採の憂き目にあうことなく、いまだに勇姿をとどめている次第であるという。

 

(この松は伐採され今は見ることができない)


大沢野町誌

八木山のいわれ  富山市八木山

 



 舟倉山に陣取った大谷狗の一隊と大若子命の率いる美麻那彦・沢古舅・大路根翁・猿田舅等の一隊とが激戦を重ねた。

 

 遂に大谷狗の陣地から猛火攻めの手が打たれ、風は舟倉山から吹きおろし、大若子命の一隊は逃げ場を失った。

 

 手の施しようもなく、命は大国主命から賜った霊剣を抜いて、丈なす草をなぎ払って、地に伏し一心に神を祈った。


 すると風向きがにわかに変わって、大谷狗等のいる舟倉山に向かって燃え進んだ。

 

 命の一隊は命からがら猛火をくぐって小竹野の本陣にたどり着くことができたが、その山は燃え続け、焼け尽くしてしばらくは草木も生えなかった。

 

 人呼んで焼山といい、のち八木山と書かれるようになった。


大沢野町誌