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神通峡ふるさと創生物語ブログ1:「神通峡かいわいの昔話」・「集落ガイド」・「神通峡のわらべ歌」・「神通峡民話物語」等

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母なる川 船倉用水  富山市船峅

 



 春、雪が解け始めると、田んぼのまわりに、透き透きのきれいな水が流れてきます。この用水が、田んぼ一面に入ってくると、田植えが始まります。


 苗は日増しに大きくなって、やがてお米になります。用水はお米を育ててくれる母なのです。


 さて、この用水は、どこから、どのように流れて来るのでしょう。そして、用水にまつわる悲しいお話がいくつもありました。


 用水のふるさとは、険しい山を次から次へと越えた川の上流にあります。
そこから水路を開くためには、たくさんの岩石を割っていかなればなりませんでした。しかも、むかしは、機械もなく、人の力しかなかったので、命がけの仕事でした。岩石を割るのに、山から草木を切り集め、それを岩の上にかぶせて焼き、山の冷たい水をぶっかけると、岩がもろくなるという方法がとられました。


 このように苦労を重ねてつくられた船倉用水は、毎年、春には船峅の各地から、人々が集まって用水のごみざらいや、いたんだ所を直す作業が行われています。


 明治四十四年五月の終わりごろに、片路地内で用水路が八メートルこわれたとの知らせがあって、ただちに出動の命令が出ました。


 さっそく船峅の各地区から、六名の人たちが、土俵やむしろを背負って、真夜中の午前零時に直坂のお宮さんの前に集まりました。


「ごくろうさん」
「おー。あんたもか」
「さー、出発―」

たがいにいたわりの言葉を掛け合いながら、こわれた用水路へ急がれたのでした。


 ようやく現場に着いたころには、空がしらじらと明るくなっていました。
眠らず、休まず、作業を続け、かついできた土俵やむしろを三重四重に打ち込んで、水路のようすを見ながらやっていたその時、
「ゴー、ゴー、ドドドー」

と川上から地ひびきを立てながら、雪どけの水があふれ込んで来たのです。


 突然のことなので、どうすることもできません。六人はあっという間に土俵といっしょに谷川へまっさかさまに落ちていき、とうとう亡くなってしまいました。尊い命の犠牲者が出たのです。


 長い歴史をもつ船峅には、命をかけて働かれた人々がいたことを忘れてはいけないと思います。


話者 高道笑子・西川久子
「船峅のむかしがたり」

娘が竜になった観音さま  富山市野田

 

 

 すこしむかしのおはなし。


 野田にそれはやさしくて、思いやりのある娘さんがおられたと。
うちのじいさまは、たいそうかわいがっておられたが、縁あって、水橋の大きな店屋へお嫁に行かれたと。


 もともと、からだが弱かったので、まもなく亡くなったと。
うちのじいさまが、娘の供養にと、自分の田んぼのかたすみに、観音さまを建ててあげたと。


 ある日のこと、坂本の新聞配りのじいさんが、いつものように観音さまの前でお参りしとると、にわかに桜の木がゆれだしたと。


 ふっと、あおのいで見たら、なんと美しい色をした竜が、からだを丸くくねらせて、天高くのぼっていったといね。


 新聞配りのじいさんは、まるで天女のような竜に、夢でも見ているようで、開いた口がふさがらんまんま、どっと座り込んでしまったと。


 このようすを聞かれたうちのじいさまは、
「それは、娘が竜になって、みんなを守ってくれているのだろう」
と言って、うなづいておられたと。


 そんなことがあってから、
「大病をわずらった時、助けていただいた」とか、
「縁談がよくまとまった」とか、
口から口へ伝わるようになったと。


 近所の人をはじめ、遠くからも参拝者が来られたと。じいさまの家にも、一歳になったばかりの孫が、角棒の磁石(長さ四センチ)を飲み込んでしまったが、五日目にお尻から出て来て助かったと。じいさまも、脳梗塞で入院したが、早く退院でき、その上、後遺症も出なかったと。


 このように、病気や事故の災難にあっても、助けてくださる観音様を建立された野田のじいさまは、
「病気で苦しんでいる人や、災難にあった人や、心の安らぎを求めている人があれば、この幸せを分かち合いたいもの。信は力なり」

と、語っておられたと。


話者 西田 勇
「船峅のむかしがたり」

馬鞍谷と大蛇の伝説  富山市坂本

 



 昔、とんと昔、大きな川の近くに、広い広い台地があったと。


 台地は、いくつかの山をとりまくように広がっていたと。
 台地には、古い武士のやかたや百姓屋が点々とあったと。
 台地に行く時は、険しい谷や坂を越さねばならなかったと。


 昼でも暗いでこぼこした道は、細くて、くねくねと曲がって、しかも赤土でよくすべってころんだといね。


 夜は、きつねやたぬきが出て来て、よーくばかされたもんだと。美女になったり、馬のふんがまんじゅうに化けたり、明け方まで同じ道を往ったり来たり、またきつね火にもおうたといね。


 さて、台地にある武士のやかたでは、へいぜいは、田んぼや畑をたがやして、平和に暮らしていたと。この家には、先祖代々から伝わった馬の鞍があったと。何よりも、大切に床の間に飾ってあったと。


 ところが、同じ台地に勢力の強い豪族が住んでいたと。この豪族は、前々から宝物の馬の鞍がほしいと思っていたと。ある日、とっぷりくれた闇の晩に大ぜいの手下を連れて、この武士のやかたへ乗り込んで行ったと。


 一方、何も知らずにぐっすりねこんだこの武士のやかたの人たちは、だれ一人、馬の鞍が盗まれたことに気づく者はいなかったと。


 まんまと自分のものにした馬の鞍を、豪族たちは近くにある大きな池に投げ込んだといね。
すると、池の水がにわかに吹き出し、それは、天にもとどくような勢いで上がったと。


 その時、一ぴきの大蛇がとびはねて、やがて、うねうねと赤い舌をペロペロ出しながら、山の木や草を押し分けて進んで行ったと。大蛇のあとをぼうように、池からたくさんの水が流れていき、やがて大きな川となったといね。


 これを見ていた台地の人たちは、

「こんなに水があれば、お米がたくさんとれるぞ。大蛇は神様のお使いかもしれない。ありがたや、ありがたや」
と、みんな両手をあわせて拝み続けたと。

 また、この険しい谷を人々は馬鞍谷と呼ぶようになったと。


参考資料「大沢野町ガイド」
「船峅のむかしがたり」

古い松と天狗   富山市二松

 



 むかーし、二本松のお寺の前に、でっかい、でっかい、古い松の木があったと。木の根っこが、あっちにもこっちにも、広がっておったと。


 その木の根っこがもり上がっているので、まるで小高い山の頂上に、松の木があるように見えたと。


 その松の木の上に、いつからか、天狗が住みついていたといね。天狗は、人に悪さするでもなし、いつものんびりと、昼寝をしておったと。かくれみのを持っているので、天狗に気づくものは、だれ一人いなかったといね。


 nある暑い朝のことだったと。お寺の住職が、お参りから帰る途中、
「暑くて、暑くて、たまらんわい。ことしの暑さは、かくべつじゃ」
とひとりごとを言いながら、でっかい松の木の下を通ったと。


 すると、涼しい風が、吹いてきて、思わず大きな声で、
「おーい、さわやかな風が吹いて来るのー。気もちよいわいー」

と言いながら、松の木の上を見上げたと。そこには、でっかい、でっかい、いちょうの葉っぱと、もみじの葉っぱがまるで、プロペラのように、回りさくっとったといね。


 お寺の住職は、
「あれは、きっと、天狗のしわざにちがいない」

と思ったと。

それからは、どんなに暑い日でも、松の木の下だけは、涼しかったと。


 ちょうど、そのころ、大きな松の木の前に、寺子屋があって、おおぜいの寺子たちが、手習い(読み、書き、ソロバン)を習っていたと。おもに、お寺の住職が教えておられたそうな。


 古い大きな松の木は、多くの寺子たちの遊び場であったと。寺子たちは、手をつないで、松の太さをはかったり、松の皮をめくっては、
「これは、馬だ」「牛だ」「ねこだ」「えんころだ」
と言って遊んだり、また、松ぼっくりや緑の松葉をたくさん拾ったりして、遊んだと。


 やがて、笑い声がたえなかった寺子たちに、古い大きな松の木との別れがやって来たと。ある年のこと、松根油(松の根にある油)をとるため、松の木は切られてしもたがやと。


参考資料「二松のあゆみ」
「船峅のむかしがたり」

 

忍者の里 万願寺  万願寺の不動はん   富山市万願寺

 



 万願寺の南、小高い山の真ん中にひっそりとかくれるように小さな不動はんの堂があるといね。


 その堂の中には、大岩の日石寺の石工がほったともいわれているびっくりするような大きな不動岩があるがだと。その石の表には、当主の丸岡善太郎ほか家族の名前や、裏には門弟百七名の名が刻まれているといね。


 今からやく百五十年前のこと、不動はんの西側に住んでおられた丸岡善太郎という人は、兵法四心多久間見日流(忍術)の免許皆伝の先生だったと。


 さて、兵法四心多久間見日流とは、鎌倉時代少し前のこと、小栗判官中納言源頼将が鎌倉の山奥で、天狗に教わった兵法(忍術)で、全国を回って広めたのが最初といわれていると。


 時は流れ、江戸時代の終わりごろ、越中(富山)の殿様の家来で広田村中島に住んでいた佐々井和左衛門が忍術の伝をつぎ、大きな道場を開いて多くの門弟を出したと。


 ある時、万願寺の丸岡善太郎が中島を通りかかった時、馬に乗ったひげをはやした佐々井和左衛門にひょっこり会ったと。その時、善太郎は和左衛門の乗った馬の尻をたたいたといね。それを知った和左衛門は、
「その方は、たいへん度胸がある者じゃ。わしの門弟にならぬか。ハッハッハ」

と。


 その後、自分の家の近くで道場を開いたら、たくさん来られたといね。
門弟の中には、丸山憲三氏、池田鶴次郎氏、赤坂竹次郎氏など、すぐれた人がたくさんおられたと。


 このお堂は、明治三十五年ごろ、門弟や近くの村人が総出で万願寺山の岩谷から、冬雪の上を「そり」に、大きな岩を乗せて、「つな」で引っ張って来たがやと。
「つな」は、村人の手で、わらをうち、竹をわり、女の人の髪の毛や馬の尾の毛をよりあわせて、切れない強い「つな」を作ったがやと。大岩を運んだ時、みんなの掛声が遠くの村まで響き渡ったそうな。


 また、丸岡善太郎より二十年前に、同じ佐々井和左衛門の弟子となって、免許皆伝となった丸山順一郎重則がおられたと。丸岡善太郎にとって、丸山順一郎重則は先輩であり、相談相手だったと。


 忍術は、あくまでも護身のためであるという思いから、手裏剣の受け方、天井、畳の下のはりつき方、空中のとび方など、それはみごとなものだったそうな。


話者 丸山俊一
「船峅のむかしがたり」